第8話


「あのさあ。いい加減にしてくれよ」


 バイト先である、あんこう鍋が有名な居酒屋の店長は遅刻してきた私にカリカリと小言を言った。頭のてっぺんの髪が薄くなっている40代のこの男と毎日のように顔を付き合わせるようになって気づけばもう三ヶ月。軌道に乗っているように思えたバンドにも、少し不明瞭な影が覗くようになっていた。

 毎日、週に三回のスタジオ代や月二回のライブの出演費を稼ぐために、昼はコンビニ、夜は居酒屋のバイトを掛け持ちした。どれだけ音楽に打ち込んでも、ライブに来る客の顔は変わらない。時々、バンドをするために生きているような気がした。

 それは目的と手段が入れ替わってしまったように思えて、私は変化のない今の生活に少し焦り始めていた。しかし、毎日のように部屋に入り浸るようになったアカリと正面から問題について話し合う勇気もなく、私はアカリのつくる料理を食べ、アカリのカラフルな洋服を洗い続けた。


「クミちゃんさ、最近遅刻多いし態度悪いよ。愛想悪いし別に仕事できるわけじゃない君の取り柄はシフト入れることくらいしかなんだから、もっとしっかりやる気見せてよ」

「はい、すみません。気をつけます」

「分かればいいんだけどさ。っつーか、いつまで続けんの、そういう生活。どうせ夢なんて叶うわけないんだし、さっさと区切りつけて働いたほうが身のためだよ」


 店長はそう吐き捨てるように言うと、宴会予約の記載されたファイルを開けてため息をついた。頭を深く下げて、大量に積み上げられた洗い場の皿の水滴を丁寧拭き取っていく。調理補助のアルバイトを始めてから、手の乾燥がひどくなってきていた。ギターの細い弦に触れるたび、指のあかぎれが痛む。本当は、もっと手に負担のかからない仕事や、少ない時間でお金を稼げるような仕事をしたかった。音楽のことを考える時間が減ってきていることに、私は少し焦っていたのかもしれない。


 終電間際の満員電車の中は、会社終わりの社会人であふれていた。口をポカンと開けて寝ているスーツ姿の女性や、目を固く閉じて腕組みをするサラリーマン。どの人の顔にも丸一日働いたあとの疲労が色濃く残っている。私は彼等の顔をぐるっと見回しながら、手グセのようにツイッターのアプリを起動させた。

 卒業してから一年が経ち、学生時代の仲間のツイートの内容は変化したと思う。会社の福利厚生への不満や上司への愚痴、付き合っている彼氏や結婚の話をメインに据えた、自分の半径いちメートルについての日常のツイートが多い。仕事もせず、学校にも行かず、何処にも属していないフリーターの私は、彼女たちのつぶやきに触れる度、かつて私の居場所だったところはもう消えつつあるのだと思い知った。

 精神に悪いと分かっていても、つい、明るく光るスマートフォンの画面を見つめてしまうのはなぜだろう。彼女たちの変化を身近に見ることで、良いことなどひとつもないと分かっているのに。私は縋りたがっているのかもしれない。つまらないとみんなが嘆く未来を手放してしまった私の決断に。

 それが正しかったことだと思わなければ、ぐらついている足元が今にも崩れてしまいそうだったから。


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