第27話 森の水辺で
小一時間も馬を走らせて、私たちはさほど大きくはない池のほとりに到着した。
春らしく色とりどりの花が咲いている。
私は大きく息を吸い込んで、水際まで進んだ。
なんだか領地の景色にちょっと似てる。
まあ、田舎の風景なんて似たようなものだと言われればそれまでなんだけど、凪いだ池も、その周りに茂る木々も、柔らかい草の絨毯も、懐かしい匂いだ。
「王都の近くに、こんな場所があるんですね」
「なかなか良いところだろう?」
手近な木にシロを繋いで、ユージィン様も池のすぐ近くまでやってきた。
天気も良く、日差しは優しい。どうかするとまだ寒い日もあるもの、こんな穏やかな日にあたったのは日ごろの行いが良いせいかな。
「しかしお前、本当に馬に乗れるんだな」
「田舎では馬に乗れないと買い物にも行けませんから」
領地の屋敷は国境寄りなので、街のお店へ行くにも徒歩は辛い。ちなみに隣はアルの家なんだけど、遊びに行くにも見渡す限りの葡萄畑を越えていかなければならないのだ。小さいころから馬は必須、生活の一部です。
「そうか。では今度、馬を贈ろう」
「はい?」
「もっと遠くまで行きたくなった」
「遠くって?」
「葡萄畑でも見に行くか」
「ええ?」
「それとも、海がいいか?」
あのう、それは私も一緒に行く前提でしょうか。
エヴァンジェリン様の刺繍が完成したら、領地へ戻るつもりなんです。そう伝えようとしたのに、王子の青い目が私を沈黙させた。
まだ良いかな。エヴァンジェリン様のクロスが仕上がるまで、きっとまだ少し時間がある。
「そういえば、この世界の海は見たことがありませんわ」
「お前の田舎とは逆方向だからな。王都からも半日はかかる」
「そんな場所へ、遠乗りへお誘い下さいますの?」
「ああ。夏ならば泳げるぞ」
「普通、泳ぎません」
「なんなら海岸を貸し切るが」
「絶対やめて下さい」
本気でやりかねないから困る。けど、海水浴か。ふと、友達と海へ行ったことを思い出す。あれはいつだっけ、悩みに悩んで買った可愛いビキニ、結局恥ずかしくて海には持っていかなかった。いつまでも少し後悔していた気持ちだけが泡みたいに浮かんで、すぐはじける。私が思い出す記憶は、いつもこんなふうにあやふやだ。この世界で生きて行くのに、必要のないことばかり。よく考えてみたら、この世界での私の得意分野は……刺繍もダンスも乗馬も、前世では縁の無かったスキルだ。この世界で必死に練習して習得したものだ。
前世の記憶で一番役にたっているのは、刺繍のモチーフくらいかな……うん、そのくらいが丁度良いな。
「そういえば、朝食を持ってきているぞ」
「えっ」
「城で作らせた。食べるか?」
食べますとも。
「私、お腹がペコペコですわ」
思わずお腹を抑えてそう訴えると、ユージィン様は可笑しそうに声を出して笑った。
お城のコックさん謹製のサンドイッチとマフィン、火を起こして淹れた紅茶。
外で食べるなんて久しぶりかも。ピクニック気分で嬉しい。ていうかこれ、ピクニックそのものじゃない?王子様と一緒というのが特殊といえば特殊だけど、人目がないから気分は楽だ。食事のあいだ、王子はエヴァンジェリン様が生まれた時の話や、シロが小さいころの話をして楽しそうに笑った。
お返しに私ははじめて馬に乗ったときのエピソードを披露することにした。
「馬の上が高くて、怖かったのです。大声で泣いたら、急に走り出してしまって」
「驚いたんだろう。馬も気の毒に」
む。
そうはいいますけど、私はまだ7つだったんですよ?
「どうやってその馬を止めた?」
「止まりませんわ。そのまま柵を越えて、どんどん走っていきました。私はしがみついているのが精一杯で、泣くのも忘れてしまいました」
「は、目に浮かぶな」
王子が楽しそうに相槌をくれる。調子に乗って、私は喋り続けた。
「ずっと走って、疲れたんでしょう、小川のほとりで馬が止まって、草を食べ始めました。最初は私のことなんてしらんぷりでしたけど、首を撫でていたらこちらを振り向いて、ちょっと驚いた顔をしたんです」
「驚いた?馬が?」
「なんだか『しまった!』みたいな顔ですわ。そんな気がしただけかもしれません。でも私を見てからすぐ、馬は来た道を戻ってくれましたから」
「賢いな」
「はい。とても賢くて優しい馬でした。私、途中で疲れて寝てしまったんですけど、ちゃんと家まで戻ったそうです。その馬とは、それからずっと仲良しでした」
「運の良いやつだ」
「ええ、本当に」
「お前が無事でよかった」
「え?」
お腹がいっぱいで眠くなったのか、王子様は草の上にごろりと横になった。お行儀は悪いけど、気持ちよさそうだ。正直言って、羨ましい。
「ユージィン様は、よく遠乗りにみえますの?」
「時々、気晴らしにな。城は窮屈でかなわん。最近は忙しくて馬にも乗れなかったが」
「ああ、お仕事熱心になられたとか。エヴァンジェリン様が喜んでおられました」
「城の連中がやることは、無駄が多すぎる」
「ええ?」
「様子を見ていたが、手を出さずにはいられなくなった。会議が多すぎる、長すぎる、無駄な手続きが多すぎる、しかも自分で動こうとはしない。あれでは終わるものも終わらん」
おお、さすがせっかち王子。
鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス。
いやっ、この歌は忘れよう。そのうち誰か処刑されそうで怖い。
「夏までには橋をあと3つほど架けさせる。交易を進めるには、まず路を整備しないとはじまらない。仕事にあぶれている連中がいるなら、仕事を作ってやればいい」
公共事業ですね、わかります。
うーん、これ、ホントにスイッチが入っちゃったかも。だけど交通網が整備されるのも、交易が盛んになるのも、国のためになることだよね。仕事が増えれば、貧しい人たちも働けるようになりますもの。
「お忙しそうですけど、今日はよかったのですか?」
「たまには褒美がなければ、働く気にもならん」
「褒美?」
「そうだ。ここなら邪魔は入らない。思う存分ゆっくりできる。何よりの褒美だ」
私は王子様の顔を見た。
青い目は閉じられている。やっぱり眠いのかも。疲れているのかもしれない。
「……私、お邪魔ではないですか?」
「邪魔なら連れてこない」
「そうですけど」
うすく目を開いて、王子は笑った。
「お前に会ってから、嫌な夢が少なくなった。不思議なものだな」
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