第4話

 湯あがりの肌を丁寧に手入れする。化粧水やクリームを重ねて使う方法もまた、カーテンと同じようにマサミが選んで残した手間だ。簡略化せず面倒を楽しむという様式は、マサミのデザインする生活の特徴であり、大きなセールスポイントだった。

 衣装ケースの室内着を身につけ、水気を含んだバスタオルは脱衣かごに放り込む。洗濯はほぼ完全に自動化してある。好きなことにだけ労力をかけるという点を徹底することで、暮らしやすさを追求している。不便を解消することをせず「住めば都」と気取るやり方を、マサミは嫌悪している。

 マサミが目指すのは、人間が中心にある生活だ。形に合わせて暮らすのでなく、人に合わせて状況を整えたい。

 それなのに、理想とかけはなれた現状にマサミはため息をつく。精神もきちんと制御して安らぎを得たいのに、泣いたり怒ったり衝動に振り回されっぱなしだ。まるで感情の奴隷になったようだと、また深いため息が出た。

「水、持ってきて」

 寝室に向かいながら《アーク》に言いつける。

 まだ就寝時間にほど遠いが、なにをする気にもなれない。前向きになろうと意気込んでも、どっちが前だかわからない。そんな気分で、ベッドルームにひきこもる。

 紺色のシーツに沈んだところで、自動ワゴンがミネラルウォーターのミニボトルを運んで来た。わざわざ指定しなくても、マサミの好きな炭酸入りの銘柄がちゃんと選ばれてくる。学習効果を裏切らない《アーク》の方が、思考の袋小路に陥っている自分より、よほど健全な存在だという気がする。

 半身を引き起こして、水を飲む。冷たい刺激にうながされるように、言葉がこぼれた。

「《アーク》には、わたしが元気になる方法ってわかる?」

「元気の定義にもよりますが」

 すかさずの返答が否定でなかったことが、強い励みになった。

「泣いたり怒ったりばっかりしてなくて、仕事とかやるべきことにちゃんと集中できる状態に戻りたいの」

「十日より以前の状態への復帰ということですね」

「そう」

 確認を求める《アーク》に勢いよく肯定する。

 少しお待ち下さいと《アーク》が黙り込む間、マサミはベッドにきちんと起きあがる。ボトルに口をつけると、水の味がよくなった錯覚さえある。それとも、ちゃんと味わう余裕ができたということか。

 架空人格は心を持たないという知識が邪魔をして、今まで《アーク》に相談するという選択肢に気づかなかった。だが、不都合な情動の解決のために、感情が必要とは限らない。

「固有リソースだけでは経験が不足しています。《集合知》へのアクセスを許可いただけますか?」

 有料サービスの利用許可を求められ、マサミはすぐ許諾する。

 《集合知》にアクセスしたコンシェルジュは、問題解決のために利用者全体の経験を参照できる。個人情報の保護のため、ユーザには解決策だけが知らされる。

「お待たせしました。お知らせしてよろしいですか?」

「お願い」

「現在の状態は、死別という変化に対する強い拒絶反応でしょう。ストレスの原因となっている状況をフィルタリングし、対処可能な環境にすることをおすすめします。喪失という結果は変えられませんが、原因を受け入れやすいものにすればよいのです」

 言われたことの意味を把握するのに、数秒かかった。

「カナは死んだわけじゃないってことにするの?」

「はい。音信不通である事情は様々にありえます。どこかで幸せに生きている可能性を留保すると、気分が楽になるのではありませんか?」

 魂のない人工物に相応しい身も蓋もない提案に、正しいと納得できてしまう気持ちがマサミのどこかにあった。

「でも、どうやって?」

「まず、自分にとって望ましい世界の見え方を決めます。たとえばカナさまが遠くへ転居したという解釈を採用するなら、死という情報を遮断して、かわりに引っ越し先の風物に優先度を高くつけます」

「簡単ね」

 子どものごっこ遊びのような内容に、思わず笑ってしまう。

「気を楽にするのは、ささやかなことの積み重ねです。それに、これ以上を求めるのでしたら、専門家の手を借りることが一番でしょう」

「それもそうか。医者とかはやだな」

 カウンセリングの経験は何度かあるが、自分の中に踏み込まれる感覚はどうしても好きになれない。それでいて、目に見える効果やはっきりした手応えがないことも苦手意識を強めている。

「やってみようかな」

マサミの選択はアルゴリズムに追加され、《アーク》は新たな解決策を導き出す。

「もうひとつ、おすすめがあるのですが」

「なに?」

「カナさまに似せた架空人格を作成し、折々に便りが届くようにすると、高い効果が得られます」

 返事をするのにかかった数秒は、今度は理解のためでなく、魅力を感じる自分を受け入れるために必要な時間だった。

「それは、やっていいことなの?」

「合法の範囲内です。架空のキャラクターに親しむことは、趣味としてなら問題にされません。ただ、不快感をおぼえる方もいらっしゃるでしょうから、個人的な利用に限るべきでしょう」

 否定する理由は、マサミの中にない。

 記憶を操作するわけではないから、そう簡単に思い込めるわけがない。でも作り物だとわかっていても、根拠があれば気休めにはきっとなる。

「よくないと思ったら、すぐやめればいいしね」

「ええ、もちろん。いつでも中止できます」

 少し考えようとボトルに手を伸ばすと、もうすっかりぬるくなっている。新しい水を欲するように、古い感傷を捨てたっていいはずだ。

「コンシェルジュ用の架空人格の素体をダウンロードして」

 ベッドから降りて《アーク》に命じる。編集作業はリビングの方がやりやすい。向かう足取りはずいぶん軽かった。

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