第2話
しゃくりあげるうち、慰撫するような音量でクラシックが流れ出す。玄関のフローリングにしゃがみこんでいても、マサミの体は冷え切ってしまわいように、室温があげられた。
《アーク》の用意する居心地のよさが、マサミの高ぶった心を少しずつなだめる。ふんわりと爽やかに甘いミントの香りが漂い出して、マサミはついにふき出した。
「《アーク》、やりすぎ」
「嗅覚刺激による癒しというのは、十分な効果があるとされているんですよ」
澄ました言葉を返しつつ、《アーク》は空気清浄機の動きを強めて香りを消した。
総合環境プログラムは、ユーザに最適な暮らしを提供することを目的とする、いわば日常生活のOSだ。コンシェルジュと呼ばれる架空人格と会話する形で、ユーザは操作を行う。身の回りの道具が高度に自動化され、ネットワークを通じて紐づけられた昨今、大多数の人間は、分厚い説明書を読むのではなく、コンシェルジュに頼み事をすることを選ぶ。マサミもその一人だ。
コンシェルジュは細かい部分までカスタマイズが可能で、マサミは《アーク》という名前のほかに、低い男性の声や慇懃な口調、それに仰々しくデフォルメされた言葉づかいを与えている。
架空人格は、AIではない。コンシェルジュが行う対応はデータ分析によって決定され、そこに感情や想像力はいっさい存在しない。ユーザとコンシェルジュの会話で、総合環境プログラムのパーソナライズは調整され続ける。不自然を感じるより、自分をわかってくれていると満足をおぼえることの方が多い。
それでも、たまに、かみ合わないことはある。コンシェルジュの発する言葉は、会話のパターン、対応のパターン、要望のパターンの総合から浮かびあがってくるものでしかないからだ。精緻なプログラムに気まぐれさを持たせるには、人間の技術はまだ及ばない。
完璧な人間らしさを求めて違和感を生じさせるより、不自然さを強調して「そういうもの」と割り切る方を、マサミは好んでいた。
「ココアかホットミルクで、体を温めませんか?」
うながすような《アーク》の言葉に、マサミはやっと立ちあがる気になる。
「じゃあ、ココア」
靴を脱ぐと、移動式ハンガーラックが近寄ってくる。コートとマフラーを預けて身軽になってから、ダイニングへ歩き出す。
マサミの歩調に合わせて、足元灯の灯りも移動する。危険を排し、無駄を省いたスムーズな動作。この部屋に暮らしてまもなく二年、《アーク》はマサミの挙動と生活空間を完璧に調和させるようになっている。
マサミが突き当たりの扉を開けると、《アーク》が照明をつけた。ダイニングキッチンとそれに続くリビングの広々とした空間は、マサミが《アーク》が与えたフレンチモダンという大雑把なコンセプトを忠実に再現している。自動掃除機の手抜きを知らない仕事ぶりのおかげで、青と白で構成された部屋にはちりひとつ落ちていない。
家事のほとんど自動化されているが、人の手が必要なこともある。たとえば、お気に入りのマグカップを使いたいなら、食洗機から取り出して調理器に置くのはマサミの仕事だ。だから、まずキッチンに寄り道した。
一分待って取り出したマグカップは、湯気をたてるココアで満たされていた。
リビングの窓に向けたソファに腰掛ける。色あせたような白っぽい空の下に、くすんだ冬の街が広がっている。空気の色が少しずつ夕方に近づくのを眺めながら、ココアをゆっくりと飲む。甘さの強い濃さも、ぬるいくらいの温度も、マサミの好みにぴったりで、文句のつけようがない。
《アーク》に指示を出すと、百年近く前のガールズポップが流れ出す。移動式のマガジンラックを呼び寄せて読みかけの小説を手に取る。剣と魔法の冒険には一世紀前の夢がつまっている。昔のメロディーに古い物語、レトロに浸るのはマサミの趣味だ。
好きなものに囲まれて、誰に気をつかうこともなく、ゆったりとくつろぐ。気楽なひとときのはずが、マサミは自分の中にこわばった芯を感じる。突き刺さった棘のように痛みを発するそれは、死んだばかりの友人と同じ輪郭を持っているように思えた。
カナもまた、懐古趣味の持ち主だった。一九九〇年代日本の若者文化について、マサミとカナは何時間でも語り合うことができた。同好の士はもちろんほかにもいる。ネットでアーカイブを運営する知り合いもいる。でも、正しい知識や客観的なデータにこだわらず、好みと感覚だけで話せる仲間はカナだけだった。
心安らかにするための時間が、かえって嵐のような感情を呼び寄せてしまった。
また熱いものがこみあげてきて、きつくまぶたを閉じても涙があふれてくる。こうなってしまったら、疲れるまで泣くことでしかおさまらない自分をマサミはもう知っている。だから、マグカップも本もサイドテーブルに置いてソファの上で膝を抱えた。
お気に入りのミニアルバムが三回目のリピートに入るころ、ようやく呼吸が整う。
「このままじゃ、ダメだよね」
膝に頬をくっつけて、マサミは呟く。泣きすぎたせいのしゃっくりがおさまるのを待っていると、小さな子どものようだと感じる。まるで泣けばカナが帰ってくると思っているみたいだと、自分自身がわずらわしい。
「いい大人が、こんなんじゃ絶対ダメ」
深呼吸を繰り返して、抑制と余裕を取り戻そうとする。
「ちゃんとご飯食べて、ちゃんとお風呂入って、ちゃんと寝て。仕事だって、そろそろなんとかしないと」
するべきことを口に出して、自分を叱咤する。それでも気持ちは奮い立たず、空気が重たくなったかのように体を動かすのもおっくうだ。
大きなため息をついたとき、澄んだ高い鈴の音がした。
「サホさまから、ビデオフォンの着信です」
沈黙のまま控えていた《アーク》が、詳細を述べる。
肩がふっと軽くなった気がして、マサミは顔をあげた。サホもまた、カナの死をひどく悲しんでいる。サホとなら、自制ばかりを気にしないで一緒に嘆くことができる。
「音声も動画もリアルタイムでいいけど、ちょっとだけフィルターかけて」
窓ガラスが透過性を失って、動物園をモチーフにしたシルエット動画を映し出す。保留を意味するこの映像は、サホのモニタにも流れているはずだ。
指の仕草で、カメラ画像を呼び出す。悲しみを共有するのと、泣いたばかりの顔を見せるのは別だ。修正フィルターで、くまを消して顔色をよくみせ、ついでに目元のはれぼったさを目立たなくして、ちょっと笑ってみる。満足できて、通話をつないだ。
影絵のキリンが溶けるように消えて、ショートカットの女性が映る。
「あ、マサミ。忙しいときだった?」
黒目がちで丸っこい目が、心配そうにまたたきする。マサミが大丈夫だと伝えると、サホの顔に安堵が浮かぶ。
「なんだか、落ち込んじゃいそうで、心細くなったの。マサミにならそういう気持ちも言えるから、ついまたかけちゃったわ」
「わかる、一人だとどんどんネガティブになるよね。わたしもサホと話したかった」
平静を装うことなく、打ち解けた笑みをかわす。
もともと、趣味のフォーラムでの知り合いで、互いをカナの友達と認識していた二人は、その中心が失われたことで急速に親しくなった。
「カナのことばっかり考えてるなって気づいて、よし、気分転換しようって音楽かけるとね、この曲はカナも好きだったって。なんだか、無限ループみたいになるの」
「わたしもそう。趣味が一緒だったって、こういうときに辛いよね」
「ほかに好きなジャンルとか、違う趣味があればよかったのかもしれないわね。でも、こういうときのために備えておくってわけにもいかないし」
「趣味じゃなくて保険になっちゃうよね」
言ってから、マサミは、そういう用意は必要だったかもしれないと思う。悲しいときや辛いときに気を紛らわすためと用途を割り切った行為があれば、今をもっと楽に過ごせたかもしれない。
「そうそう、公共規定の強化についての署名を集めてる団体ってね、けっこうあるみたい」
サホが人差し指で横に線を引くと、そのラインに沿っていくつものURLが浮かぶ。
「公共エリアへの立ち入りは免許制にしてもいいと思うの。そうしたら、もう、こんなことが起きないでしょ」
強い口調のサホにうなずいて、マサミは表示されたリンクをすべて保存する。
「罰則も厳しくしてほしい。公共規定を守れないような人間を野放しにしちゃダメだよ」
同意を示すために吐き出した言葉には、強い憎しみがこもった。規則を守らない人間は、ルールの存在しない場所にいればいい。秩序を守って生きている人間の居場所でわざわざ悪意と狂気をまき散らす存在を、マサミは理解できないし、したいとも思わない。
カナを殺した犯人についての情報も、いっさい自分の目に触れないようにすることを《アーク》に厳命している。どんな過去を持ったどのような人間でも、通り魔であることは変わりなく、カナが死んだことも変えようがない。だから、人殺しのために車を暴走させたという事実のほかに、今さらなにか知る必要はない。
「もっと前から、公共規定についてちゃんと考えてたら、カナも死ななくてすんだかもしれない」
また感情が高ぶってきて、マサミの声が震える。
「それは、もうどうしようもないから。今からできることをやろうって思わないと、辛くなるばっかりよ」
「わかってるんだけど、でも考えちゃうの」
サホになぐさめられても、こみあげた感情は抑えられず嗚咽になる。いったんあふれてしまうと、もう止まらない。声をあげて泣くマサミを、サホは根気よくなだめ続けた。
「ごめんね。わたし、泣いてばっかりで」
ようやく落ち着いて気まずそうな顔をするマサミに、サホはやわらかく微笑む。
「わたしは気にしないけど、不安定そうなのは心配かも」
「そろそろ立ち直らないとって、自分でも思ってるんだけど」
申し訳ないような、情けないような気持ちで、マサミは目を伏せる。電話のたびに泣き出しているのだから、サホが不安に思うのも無理はない。
「仕事とか、大丈夫なの?」
「あんまり」
「家で一人でって、こういうときはかえって大変そうね」
「うん、ちょっと困ってる」
苦笑したものの、そろそろ笑っている場合ではないとマサミ自身もよくわかっている。
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