万華鏡

桐井フミオ

第1話

 眩しい青空、鮮やかな海、灼熱のビーチを従えた青年に「真夏のクリスマスってどう?」と笑いかけられて、マサミは右手の人差し指で〈興味がない〉と返事をした。

 素敵なバカンスはかき消えて、かわりにサングラスをかけてアロハシャツを着たサンタクロースが陽気に声をかけてくる。サーフィンをはじめるサンタを無視して、マサミは通り過ぎた。

 ほんの少し前まで、南の島のバカンスを計画していたせいで、マサミの周りの広告領域はトロピカルブルーに染まっている。しかし、今、マサミの胸には、黒く濁った感触が広がるだけだ。

「カナ」

 一緒に行くはずだった親友の名前を呟く。体の内部に重たくうずくまった感情が、首をもたげる。

「友人の死を嘆くのは、家に帰ってから」

 泣き出す一歩手前、低い声が囁く。ピアスに内蔵されたスピーカーから軟骨を通して伝わる、マサミだけに聞こえる声だ。

「このあたりの路上は、公共レベル二ですよ」

 マサミはのどまでせりあがっていた熱い塊をぐっと飲み込んで、表面上の平静さを取り戻した。

 レベル二に設定された空間で、成人が抑制を失った感情を発露させることは、法律で禁止されている。公共の場で見知らぬ他人に、大声で怒鳴られたり、泣きわめいたりされない権利は、マサミも大切にしている。

 現場に行くなんてまだ早かった。後悔しながら、マサミは家路を急ぐ。

 十日前、カナは死んだ。歩道に突っ込んできた自動車にはねられた。

 カナを含む四人を殺した運転手は誰でもよかったと言った。自分をコントロールできない犯罪者の目に留まっただけで、カナが死ななければいけない意味も理由もない。運が悪かったなんて言葉で納得することは、マサミにはできなかった。

 どれほど安全装置が備えられても、車に改造をほどこして暴走する人間は止められない。救命措置が発達したからと言って、即死した人間が息を吹き返すことはない。危険な人間を排除することこそが、公共の安全を守るために意味がある。

 公共規定が導入され、レベルごとに許される行動の範囲が設定されるようになり、安心と安全が約束された世の中になったはずだった。

 しかし、公共規定の違反者に対しカウンセリングが義務づけられるという現状の罰則は、あまりに甘い。公共空間で抑制を失うような人間は、重大事件を起こす前にすみやかに社会から排除してほしい。事件以来、マサミはそう強く願うようになった。

 だから、心にわずかな波が立つだけで泣き出しそうな今も、必死で冷静な挙動を保っている。公共規定を重んじる以上、ここで泣き崩れるわけにはいかない。公共レベルに準じた行動もできない人間に存在価値はないと、マサミ自身が思っているのだから。

 静まりかえった住宅街を足早に横切る。一人暮らしか夫婦だけの住人が多いエリアなので、午後の早い時間は人の気配が薄い。冬の陽はもう傾きはじめていて、影がやけにのっぺりして見える。いつも通る道なのによそよそしく落ち着かない場所のようで、住んでいるマンションが見えてやっと安堵した。

 なじみ深いたたずまいに気が緩むと、涙がにじんできた。マサミの頭の中には、どんなことも「泣く」に繋がる直通回路ができているようだ。目を潤ませるくらいは公共規定に反しないが、感情の弁がゆるみきっていることは自覚しないといけない。

 エントランスから続く共用部分は、公共レベル一。集合住宅で住人同士のトラブルが発生することは、今では皆無に近い。そんなたぐいまれの事態を自分が引き起こしてしまうことを防ぐため、マサミは急ぎ足でエレベーターに乗り、廊下を抜ける。

 六階の自宅へ帰り着く。

 マサミだけの場所、好きなように振る舞っていいプライベートな空間。

「おかえりなさい」

 さきほどの囁きと同じ声が、今度は室内から響き、優しく迎え入れてくれる。室温は適度に暖められ、フットライトが淡く玄関を照らしている。

「ただいま、《アーク》」

 答えたら、緊張が一気にほどける。今度こそ、マサミは大声で泣き出した。

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