四月十三日:交差
空からは衝撃が機関銃のように降り注ぎ、時折、爆弾を落としたような特大の衝撃波が通り全体を振るわせる。
音と光と恐怖が渦を巻く中で、修夜と癒衣は通りの中を右往左往しながら逃げ続けていた。
上空では長谷が指揮者如く両腕を振るって二人の動きを支配するが、その調べは必ずしも長谷の思ったとおりの物ではなかった。
ドタドタと不格好な足取りで逃げる修夜だが、その姿とは裏腹に今だ一度も長谷の攻撃に被弾していない。
攻撃が当たる直前に修夜の姿は目にも止まらぬ速さで消えて、安全な場所に場所に現れる。
初めて見たとき、癒衣は驚きで声も出せなかった。しかし、今にして思えばその片鱗は見えていた。
十字路での攻撃を見切ったのも、広場で目の前に現れたのもこの怪物的な身体能力の賜であろう。
呼吸や身体を動かすのと同じように無意識的にインを使っているのだ。
天才か、それとも血反吐を吐くような努力の賜かは本人が記憶喪失にかかった今では分からない。ただ、修夜が危険なことだけは確かだ。
——嫌みなほどに状況が変わるわね。
修夜にインを教えないと言ったのは十数時間前だ。そして必要と思い返して触りを教え始めたのは舌の根も乾かぬ数時間前だ。そして今は徹底的に教えなければ危険だと言う考えるようになっていた。あの力が攻めに転化すれば惨事が起こる。
「えぇい、ちょこまかと!」
「その角を曲がって!」
長谷は通りすべてを飲み込む超大型の衝撃を思い描く。彼の周囲の気質が揺らぎ、霊体が大きく膨れ上がる。それを見て大きな攻撃が来ると読んだ癒衣は高台に避難し、その間際に修夜に命令を発した。
修夜が目の前にあった角を曲がった直後、大津波のような衝撃の固まりが通りを抜けた。地面は揺れ、空気と共に浮かんでいた煙霧が押し出されて支線に雪崩れ込む。修夜は堅い拳のような横殴りの衝撃を受けて前へと吹き飛ばされた。
「ったく……人が手を出さないからって調子に乗りやがって」
修夜は苛ついた様子で呟いた。果たしてどれだけの衝撃が自分を襲ったのだろうか。軽く小突かれ程度の衝撃しか感じなかったが、四、五メートル近く投げ出されたのだから実際は相当な衝撃だろう。身体に痛みを感じる機能がなくて本当に良かった。と、修夜もこのときばかりは自分が人間ではないことに感謝した。
服についた埃を払いながら修夜は走り出そうとしたが、目の前の光景に竦んで動く事が出来なかった。
怨霊の黒山が犇めいていた。抜け道のない細い通りでは怨霊の声が反響して形状し難いうねりとなっている。太陽の動きに合わせて伸びる影のごとくジリジリと先へ進む。
「癒衣! 前に奴らが!」
「……飛び越えなさい!」
「あれを飛び越えろってのか?」
「そうよ! あれだけ速く動けるんだから絶対に飛べるわ! だから早く行きなさい!」
「……あの中に突っ込んだら承知しないからな!」
素っ頓狂な声で抗議する修夜に対して癒衣は激励するように力強く答えた。彼は一瞬だけ戸惑った様子が、吐き捨てるように恨み言を行って走り出した。
みるみるうちに修夜と怨霊との距離が縮まる。声はより大きくなり、姿は鮮明になる。
修夜の目は恐怖で怨霊に釘付けになったが、彼は強引にその上にある高台に視線を移した。怨霊の姿が視界から消えると不安は一層濃くなった。声だけがやけに大きくなった気がした。
普段は殆ど無意識に動かしている脚が意識と連動する。頭の中に足の動きが現れる。
一歩。足を踏み込む。
二歩。膝を曲げてグッと屈む。
三歩。地を蹴って空へ向かって飛び出す。
修夜は後ろに押さえつけられるような重力と背中を押されるような浮遊感をほぼ同時に感じた。
身体は怨霊の頭上高くを飛び、気付けば修夜は高台の縁に手を伸ばしていた。
グイと身体を引き上げ、縁に足をかけて高台の上に降り立つ。振り向けば先ほどまでいた地面が下に見えていた。
信じがたい光景であった。だが、やってのけてしまえばどうして出来ないと思っていたのかが不思議に思えた。
「ぼさっとしてないで、逃げるわよ!」癒衣が驚きと感動で突っ立っている修夜の尻を叩いた。
癒衣の跳んだ後をなぞるように修夜が跳ぶ。二つ、三つの通りを飛び越す感覚は新次元であった。地面があっという間に後方へと過ぎ去る。気分はさながら地上すれすれを滑空するツバメであった。
「それで、これからどう逃げる!?」修夜は追ってくる長谷を肩越しに見て叫んだ。
「このまま出入り口方面に転進して奴らの視界の外から一気に抜けるわ! 出来るでしょう!?」
「ああ! 今なら何だって出来る気がする!」
修夜は向きを変えて追って来ていた長谷の横を通り抜ける。彼の俊足は癒衣と長谷とを一気に突き放した。
追いつくことは出来ないと悟った長谷は癒衣に狙いを定める。これが最後とでも覚悟したのか長谷の攻撃はいよいよ激しさを増す。同じように、修夜という枷から放たれた癒衣の攻撃も相当に激しいものだ。
もつれるように駆ける長谷と癒衣は幾度となくインを交わす。二人の通った後には夜光虫の光にも似た帯が伸びていた。
「癒衣! 速く!」後れる癒衣を見て修夜がペースを落として叫んだ。
「私は後から行くわ! 貴方は先に行きなさい! 出たら、絶対に止まらない商店街を離れて!」
「またちゃんと会えるんだろうな!?」
「当たり前でしょ!」
「その言葉、絶対に忘れるなよ!」
そう言うと修夜が駆け出す。彼とその他二人の距離は一気に離れた。
「逃げられると思うなよ! この霧凪に貴様が隠れられる場所などない!」修夜の背に向かって長谷が吠えた。
「香田さん。そこで一体なにをやっているだい?」春香が異界の口の前で番をするように立っていた香田に凄んだ。
ところ変わって風杜商店街の一角。茜色の空には薄桃色の雲が薄っすらと浮かんでいる。路地裏には藍色の影が落ち初めていた。
「いえ、特には」
「そうかい……長谷部長がこの辺りで消えたって連絡が入っているんだ。その中を改めさせて貰うよ」
「危険ですから止めてください」凄む遙かに香田も一歩も譲らない。
「アタシは頭領の命令で長谷部長を追って来ているんだ。邪魔したって為にならないぜ。どきな」
春香は香田を押しのけて異界の入り口を潜った。頭領命令とあっては抗議する訳にもいかないと悟った香田はなされるがままに道を譲った。
異界に入った瞬間、耳を劈くよう発砲音に何重にも重なって響く怨嗟。噎せ返るような饐えた臭いが感覚器官を通して春香の脳に響いた。彼女は不快感に目をつぶりそうになったが、直前に目は別の物を捉え、意識の全てがそれに掻っ攫われた。
春香の横を白髪の男が目にも止まらぬ抜き抜き去った。突風が彼女の髪を乱暴に煽る。
「白……」
春香は振り返って呟いた頃にはそこには異界の口しかなかった。
顔も背格好も殆ど見えなかったが、霧凪の深い霧にも似た白髪だけは春香の記憶に鮮明に残った。
春香は男の消えた異界の口を暫し呆然と見ていた。
アレが白い巨人に関係するのだろうか。それとも……。
あの男を追わなければ。春香の中に強い使命が生じた。追えば何か心の中でわだかまっている物が氷解するのではないか。そんな予感がしたのだ。しかし、今はウサギを追っている場合ではなかった。春香は迫り来る殺気を感じ、異界に向き直った。
杉山と高橋の肩越しに癒衣と長谷が戦いながらこちらに近付いてきているのが目に入った。
春香は今度こそ眉を顰めた。怨霊が異界の口のすぐ真下まで迫ってきているこの状況で長谷が戦うべきはソレではない。彼が癒衣を快く思っていなかったのは知られていたが、よもや目を曇らせるほどとは。
春香は高台から跳びだ出して癒衣の前に躍り出た。
距離にして三十メートル弱。一瞬で詰められた癒衣は驚いた表情を見せたが、肝の据わった物で反射的に春香を大きく横に避けて走り続けた。途中、癒衣は後目で春香を見たが、仁王立ちで動く気配がないのですぐに異界の口に視界を戻した。
癒衣の目の前では討魔士達が迫り上がってくる怨霊相手に奮闘していた。赤の他人の癒衣でも後の事が心配になるくらいに押され、この調子あれば自分はすんなりと異界を出て行けるだろう。
癒衣の後方では春香が長谷の前に立ち塞がりにらみ合いをしていた。長谷の顔には熱せられるような怒りとが浮かんでいる。対照的に春香の顔はどこまでも静かで冷たい。
「御守貴様! 何故こんな場所にいる!?」
「頭領の命令でアンタを呼び戻しに来たんだ。アンタこそ何をしているんだい?」
「貴様には関係のないことだ!」
「関係ないはないだろう? あの怨霊はアタシの問題でもあるんだ。長谷部長、どうして怨霊を放って癒衣を追っているんだい? そもそも、どうしてここに怨霊がいるんだ?」
激昂した様子で答える長谷に春香は負けじとにらみ返した。世間体やら社会やらを気にする人間であれば萎縮するようなシーンだが、春香は臆すことはなかった。年上だろうが目上だろうが長谷は間違っている。その事を指摘する事になんの恐れもない。
「……で、あの怨霊共をどうやって片付けるのさ。あの二人も長くは持たないぜ。それとも、アンタ一人であの数の怨霊を相手にして町を守るって言うのかい?」
「あぁ」
「あの二人を守りながらかい? で、町を守る作戦は?」
高台の前には怨霊が堆く積み上がって台を作っている。あの台の高さが出入り口に到達するのは時間の問題にも思えた。奥を見れば、どこから来るのか怨霊は続々と現れて黒色の川を作っている。この数の怨霊をどうにかするのは骨だろう。
「……怨霊の出てくる口を破壊し、ここにいる怨霊を皆殺しにする」
「へぇ。本当に出来ると思っているのかい? 長谷部長」
春香は思わず笑みを浮かべた。その特攻精神は見上げた物だが、達成できるとは思わなかった。縦しんばその作戦を立案したその時はクリア可能な目標だったのかも知れないが、今や千は下らないように見える怨霊を皆殺しにするというのは夢物語にしか聞こえなかった。少なくとも、自分以外の人間にはだ。
長谷は危機に瀕している。その事を理解した時、春香の頭の中に良からぬ考えが浮かんだ。
その考えは如何にも冒険的で、それでいて彼女の満足感を十分に満たせそうな雰囲気があった。
普段の春香であれば思い付いても実行には至らないだろう。しかし、今朝の夢と異界で見た白髪の男が彼女の欲求と好奇心を強く刺激していた。
これから自分は馬鹿で素晴らしいことをする。そう思うと心臓が俄に高鳴り始めた。
「……どうだい。取引しないかい? アンタは金輪際癒衣に関わらない。その代わりにアタシがこの問題の片を付ける。得な取引だとは思うがどうだい?」
「……その取引でお前に何が残る?」
長谷は春香の申し出に懐疑的であった。パッと考えただけでも春香が得することはない。
頭領の入れ知恵か、それとも春香自身に考えがあってのことか。
「さてね。そんなこと知らねえよ……それで、応じるのかい、それとも応じないのかい?」
「いいだろう。だが……いや、好きなようにしろ」
長谷は責任の所在について忠告しようとしたが止めた。元は自分が巻いた種である、それを春香に押し付けるのは上に立場の人間として恥ずべき事だ。自分がするべきは失敗した時のことを考えるよりも、春香が失敗しないためにどうするべきかだろう。
「俺はこの辺りの怨霊を叩き物してから社に戻る。杉山と高橋は事が済むまで門番役をさせる。それでいいな?」
「なんだっていいさ。それじゃ、アタシは行くよ」
春香はそう言って異界の奥へと跳んでいった。
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