四月十三日:長谷

 蜘蛛の糸に群がる亡者の如く、溝口の怨霊が高橋の開いた異界の出入り口に押し寄せる。杉山と高橋の眼下に伸びる通りは溢れる汚泥が波打っているようだ。

 異界の口がある高台の下では、怨霊が怨霊を足場にして上へ上へと登っていた。彼らは押し合い、圧し合い、徐々に頂へと近づいて行く。底の方では重さに耐えられなくなった怨霊の屍が水たまりとなって沈んでいた。

 這い上がってくる怨霊に向けて杉山は掃射を続けていた。被弾した弾は炸裂して怨霊の台を揺るがし、崩すが、後に続く怨霊達が台を押し上げて上昇を続けた。

「高橋! 造僕はどうしたっ!」杉山は苛立たしげに叫んだ。

「いま出します!」高橋は必死の形相で返事をする。

 狭い空間に描いた造僕ぞうぼく召喚回路に高橋が霊力を流し込むと造僕が現れる。造僕は縁に立ち、何の迷いもなく怨霊の上にのし掛かった。

 ブチブチと引きちぎられるような粘液質の音が響き、怨霊たちの台の頭頂部が崩れる。造僕はそのままずぶずぶと怨霊の中に沈む。怨霊に飲み込まれて破壊される造僕の哀れな断末魔が聞こえたが、すぐに怨霊達の声に掻き消され、やがて造僕が身を挺して崩した台も元に戻る。

 高橋の霊力も底が見え始めていた。彼の顔は疲労で白くなり、呼吸は荒く不規則である。造僕は後四、五体も作れれば良い方だろう。

「畜生! あの人はまだ来ないのかっ!?」

 杉山は半ば怒りにまかせて弾を浴びせかけたが、怨霊の勢いは殺せない。

 気付けば怨霊は二人のすぐ足下まで腕を伸ばしてきていた。腐臭混じりの怨嗟が二人を絡め取る。意識も感情も見せず目的に向かって邁進する。これまでに戦った怪異とは全くの異質の存在に二人は恐怖を感じていた。

 銃弾がめり込むと、怨霊の頭は腐ったスイカの如く破裂して黒い汁を弾けさせる。しかし、怨霊は元から頭などなかったかのように動き続けた。頭一つ吹き飛ばされても致命傷にならないことは杉山も了解済みだったが、それでも失望を覚えないことはなかった。

「造僕を出します!」

 高橋の言葉で杉山が高台の縁から離れる。造僕が高台に手をかけた怨霊のし掛かるように落ちた。怨霊の台は重さでグラリと揺れたが倒れはしなかった。持ち上げられた造僕は手足を動かして腹の下の怨霊を殴りつけたが、さほど効果はなく、やがて台の下へと落とされた。

 ついに怨霊の一匹が高台の縁に手を掛ける。

 杉山は無心でその手を蹴りつけ、怨霊の頭に銃弾を見舞った。ブチュッ。と、言う柔らかい音して、のっぺりとして喉との境目の判らない顎が天を向いたが怨霊は止まることはなかった。

 怨霊の手がライフルの銃口を掴む。細い腕からは想像も出来ないような強い力で引っ張れ、杉山はの身体は前へつんのめった。彼はライフルを手放して後ろに逃げたが、怨霊は彼が後ろに引くより速く前に動いた。

 目の前に怨霊の手が伸びる。杉山は死を覚悟した。

 高橋は動ける暇もなく。長谷は今だ姿を現さない。ただ心残りなのは自分が死んだ後に町がどうなるかと言うことであった。自分達の未熟さ、浅はかさで町を危機にさらしてしまった後悔は大きい。

「……無念」観念したように杉山が呟いた。しかし、怨霊の手が彼に届くことはなかった。

 怨霊の歪んだ身体が更に強烈に歪んだから思うと唐突に砕け散った。それを皮切りに、高台にのし掛かる台は揺れて山崩れを起こした。

「長谷部長!」

 杉山の頭上を人が跨いで行く。灰色のスーツに艷やかな黒色の革靴。短く刈り込んだ髪。背後からでもわかるその姿は紛れもなく長谷であった。

 杉山の驚きを背に長谷はうず高く積もった怨霊の山の中腹を突き崩す。

 目の前に迫ってきていた限界が一時、リセットされ事で杉山と高橋は思わず胸をなで下ろした。安堵するには早いとは分かってはいたが、死地から戻った気分だった。

「香田からは話は聞いてある。それで、この怨霊を止めるにはどうしたらいい?」高台の上に戻った長谷が言った。

「入り口の結び目を破壊する必要があります」

「こいつらを外に出さないためには?」

「全滅させるか、この異界ではない別の異界に押し込んで封じる必要があります」

「ならするしかないだろう……別異界に押し込む場合は別途新しい異界を作って繋げるのか?」長谷が渋面を浮かべた。

「そうです。ですが、異界がおかしくなった理由が分からないままに新たに異界を作ってどうなるかはやってみないと分かりません」

「……だったら殲滅しか手立てはないようだな」

 取りあえずやってみろとは言えなかった。リスクなくしてリターンなしとは言えども、この場でリスクを取ることは無謀だが、殲滅と言う言葉もこの寮の前では現実味がなかった。

「……俺は今から穴を塞ぎ怨霊を殲滅する。癒衣ゆいも殺す……あと一人は、見て決める」

 ここに来る道中に香田からは異界であった出来事の一部始終を聞いていた。修夜しゅうやという男のことも聞いてはいたが、香田自身がその人物について分かっていなかったので詳しくは分からなかった。長谷が気になったのは、修夜が癒衣を助けたというその点とその容姿であった。

 白髪に黄金色の瞳。人間の相とは思えなかったが、確信も持てなかった。縦しんば怪異であったとしても、相手をしたくないというのが実情であった。怨霊と癒衣とで長谷の両手は塞がっていた。

「大丈夫なんですか?」

「……何がだ?」

「あぁいえ、すいません」長谷の迫力に押されて高橋が言葉を戻した。

 もはや議論をしている余地は残されていなかった。三人に突き付けられているの問いはただ一つ。やるか。やらないか。それだけなのである。そして長谷は早々に腹を決めていた。やらねば全てが終わる。その事を即座に理解しての事だ。

「行くぞ」

 そうとだけ言って、長谷は縁から怨霊の中へと落ちていった。


 空気を振るわせる爆発音に修夜は思わず立ち止まって空を見上げた。

 建物の向こう側に濛々たる噴煙が見えていた。

「戦闘か?」修夜は特に驚いた様子もなく呟いた。

 この状況で戦闘が起こらない方がおかしいという物だ。問題は誰が戦っているかだが、これは見に行けば分かるだろうし、誰であっても癒衣と会えることは確実に思われた。

 自分が癒衣を探して状況を確認するのと同じように、彼女も自分を探して確認するだろうという確信があった。

 この異界で共に行動する間に、修夜は癒衣と言う猫の性格を把握しつつあった。彼女は言葉こそ突き放したように感じるが実際は面倒見がよく、甲斐甲斐しい。そして、人を守ると言うことに抵抗がない。

 そんな彼女がこの異変を見逃すはずはないのだ。 

 現場に近付く遙か前から通りには化け物が溢れている。あらゆる通りから声が響き、別の道を探そうにも、化け物で塞がれていない道はなかった。

「上を行けたらな」二進も三進も行かなくなった修夜は屋上を見て悔しそうに言った。インが使えれば、癒衣や討魔士のように屋上を跳んでどこまでも行けるだろう。

 だが、今回はそれが幸いした。空を眺める修夜の前を白いものが横切った。

「癒衣!」

「修夜⁉」

 修夜は思わず彼女の名を呼んだ。癒衣は一瞬驚いたように止まった。

 彼女は修夜の姿を確認すると、十メートルばかりある高台から下に降りてきた。

「貴方、なんでこんなところにいるの!」

 癒衣は安堵の表情を見せたが、すぐに周囲も憚らずに怒った。重数メートル先では化け物が通りで蠢いており、気付かれるのではないかと修夜は焦った。しかし、化け物が後ろを向くことはなかった。

「癒衣と同じ理由だよ……さて、この状況でここからどうやって逃げ出す?」

「まったく、貴方は他人のことを心配していられる立場じゃないでしょう……この先に異界の出入り口があるわ。見張りの討魔士が二人いるけど、今は外に出ようとする怨霊が押しかけて混乱状態で周囲に目は行き届いてはいないでしょうね。それと、新たにもう一人討魔士が現れたわ。そいつは前線に出て怨霊と戦っているわ。さっきの爆発もこの討魔士の仕業ね。この状況を打破するために追加されたんだと思うわ」癒衣はため息混じりに答えた。

「怨霊ではなく、俺達を殺すために来たってことは考えられなくはないか?」

「それも目的の一つね。そこまで優先度は高くないだろうけど。奴らには怨霊に対処しなきゃいけない理由があるのよ」

「理由? なんだそれは?」

「出たら話すわ……正面を迂回して奴らの虚を突くわよ。ついてきて」

 わかった。修夜がそう答えようとしたその時、彼はビリビリと肌を震わせるような振動を察知した。何事かと周囲を見渡すと、二人に向かって降ってくる霊力の波があった。

「癒衣!」

「伏せて!」

 癒衣が上に向かって無数の具象爪を放つ。鎌の様に湾曲した爪は光に切っ先を食い込ませ、身を削りながら波を押し止め、最後には二人が収まる大きさの穴を穿った。

 押さえの無くなった衝撃が二人の周囲の地面を叩く。地面は海の水面のように揺れる。消滅する霊力は光の粒子となって飛沫のように跳ねてパラパラと二人の上に降り注いだ。

 修夜は癒衣を見た。彼女もまた同じように修夜を見て、ただ頷いた。

 二人は向きを変えて一目散に逃げ出した。振り返れば遠目に討魔士の姿が確認できた。

「あの野郎、俺たちを狙っているぞ!」後を追ってくる討魔士を見て修夜が叫んだ。

「わかってる! 急いで!」

 そう叫ぶ癒衣の言葉も虚しく、僅か数秒後には討魔士は二人に追い付いてた。

 生地の厚い、高級そうなツーピースの灰色のスーツ。革靴は磨きたてのように艷やかである。白色のワイシャツに深い赤色のネクタイ。手首にはネクタイと同じくらい真っ赤なルビーのカフスボタンが輝いている。

 髪は短く刈り込んでおり、峻厳そうな印象を抱かせる。顔は動かしようのない覚悟と、憤怒で彩られていた。そしてその怒りは、紛れもなく癒衣と修夜に向けられていた。

 修夜は自分に向けられた殺意にあてられて目眩がした。昨晩に向けられた単純な敵対心とは毛色の違う、もっと明確な意思のある殺意はここが自分の戦場だと言うことを嫌でも理解させてくれる。

「だいぶ騒がしてくれたじゃなえか」

「なんのことだか分かりかねるわね。私は何かした覚えはないわよ」

 長谷の言葉は雰囲気から察するよりもずっと落ち着いていたが、癒衣の言葉もまた丁寧であった。しかし言葉の表面には現れない静かな凄みや迫力があった。

「……昨晩の討魔士殺しと気質のゆらぎはお前が主犯だって検討はついているんだ。これまでは大目に見ていたが、この先の大事に禍根を残さないためにもここで殺す」長谷は癒衣を睨み付けていった。

「随分仰々しいものいいね。化物を殺すのに理由なんて必要だったかしら? そもそも、霧凪にとっての禍根になるのは私じゃなくて、あそこで蠢いている怨霊でしょう?」

「……何を知っているかは分からんが、奴らもお前同様に処理するさ」

「そう。だったら早くすることね。あの様子じゃ、門番も長くは保たなそうよ」

「やかましい! そしてお前。今日の内に霧凪を去れるのであれば見逃してやる。だが断るというのであればこの場で癒衣と共に殺す」

「……俺は当分のあいだ霧凪を去るつもりはないし、癒衣共々殺されるつもりもない。あんたらが引きな。俺達は別に霧凪に何かしようなんざ思ってねえよ」

「なら死ね!」

 言うが早いか手が早いか。長谷は腕を振るって衝撃を放った。しかし、それと察していた癒衣が被せるように具象爪を当てて防いだ。光と音が小爆発を起こす。癒衣はクイと顎で修夜に合図をして急がせた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る