四月十三日:春香
終礼が終わると、押さえ込まれていた感情が解き放たれたように教室が活気付いた。
あちらこちらでガタガタと、椅子や机の脚が床を突く音が鳴っている。喜びや楽しみの篭もった話し声がそこかしこで交わされている。
廊下にまで響く生徒達の声を切るようにして春香は歩く。
長く艶のある黒髪。前髪は後ろに流しており、形の良い額を露わにしている。切れ長の目に浮かぶ濃い紫色の瞳。鼻筋の通った小鼻にキュッと結ばれた口。気の強そう。と、言うよりは意志が強そうと言う方がしっくり来る美人である。
長身でグラマラスな身体にスラリとした肢体。彼女の歩く姿には人の目を惹き付ける華があった。
廊下で話す何人かの生徒は歩く彼女の後を目で追っていた。その目には微かな憧れや恐れが込められているが、親しみはあまり感じられない。春香にとっては馴染みの視線であった。
校門を抜けて生徒の流れに乗って町へと向かう。彼、または彼女らがどこへ向かうのかは春香の興味の抱くところではない。今のところ、彼女は内に感じている得体の知れない不安を頭らから追い出すようにすることに気を取られていた。
今朝は寝覚めの良い朝ではなかった。まだ朝は肌寒いというのに起きたときには寝間着は汗で濡れて頬には微かに涙の跡があった。目覚めてもなお後を追ってくるような悪夢はベッドに夢だと気付いた後も、脳裏にこびりついて離れなかった。
夢の中で自分はどこまでも追ってくる大きくて真っ白な手から逃げていた。しかし足は思うように動かず、地面は滑るようで前に進むことが出来ない。最後には手は自分を捕まえて闇へと引きずり込む。そして気付けば自分は子供の頃の姿に戻って、独り心細さにメソメソと泣いていた。この霧凪特有の深い霧の中で独り泣き続けていた。
その程度の夢であったが、彼女の心に恐怖を植え付けるだけの何かがあった。
春香は恐怖が尾を引くような性格ではなかった。しかし、この悪夢はいつまで経っても記憶の中に残り続けた。
悪夢を見るのも久しぶりであった。
町の空気が見せたのだろうか。春香は春の夕暮れ空を見上げて溜息をついた。
日を重ねる毎に霧凪を包む不穏は濃くなっている。言いようのない悪意がそこかしこに潜んでいることは肌でも感じられた。住民も心のどこかで恐怖や不安を抱き、町全体がギスギスとしていた。
溝口の呪い。春香がその言葉を初めて聞いたのはクリスマスも差し迫った昨年の十二月二十日のことである。それ以前から町の雰囲気がおかしくなりはじめていることには気付いていたが、理由を知ったのはその時が初めてであった。
早ければ六月には呪いを封じた結界の状態が最も弱くなり、怨霊が町へ溢れ出す。その子細は語られなかったが、社が厳戒態勢をとるという事実が事の重大さを言葉よりも雄弁に語っていた。
地獄まであと二ヶ月。そう考えれば町の空気が悪くなるのも、悪夢を見るのも頷けた。
「ちっ、嫌になるぜ……」
春香はしかめっ面で舌打ちをした。溝口の一件の片が付くまで霧凪の空気が良くなることはないだろう。それはつまり、まだ悪夢を見る可能性があると言うことだ。
彼女は殆ど駆けっているような速さで社へと向かった。
カン、カン。と、硬い音が絶え間なく鳴り続ける。長く細い木刀を手に、春香は高速で飛び回る拳大の鉄球を叩き続ける。鉄球は殴られる度に右へ、左へ、そして時に打った木刀を押し返すように無軌道に跳ねた。
鉄球がどんな場所に飛ぼうとも、春香は必ず鉄球が壁や地面、天上にぶつかる前に打ち返して見せた。
二十メートル四方の正方形の部屋の壁や床、天上からは幾本もの円柱が密に伸びている。柱の高さは十センチから、一メートル。細い物では直径一センチ、最も太い物でも直径五センチに満たない。春香はそんな柱を足場に、鉄球を追って無重力に部屋の中を跳ね回っていた。
御守流剣術などと祖父は呼んでいたが、この剣術を学んでいるは祖父に母に、自分の三人だけである。流派を名乗るには頭数が足りない。過去に隆盛を誇っただとか、一子相伝と言う話は聞いたことがない。春香が聞かされているのは御守流剣術が、かつて御守神社のあるあの場所に降り立った天人により授かりし剣術であると言う出所も得体も知れない胡散臭い伝説だけだ。
御守流の特徴は守るという行為を廃して徹底的に攻撃に特化した点にある。攻撃こそ最大の防御と言う超攻撃思考であるが、その実、未完成と思えるほどに隙が多いというのが流派に対する春香の印象であった。型にはまっても一度の躓きで容易に流れが崩れ、防戦となれば押されることが多い。
もっとも、師匠である祖父や母にまともに勝てない間は流派の不完全性云々を語るのは資格もないが。
いつになったら、どれだけ血反吐を吐けば強くなれるのだろうか。春香はギリと歯を食いしばった。何の意思もない、インの力で勝手に動いているだけの硬化プラスチックの球体を追いかけているのが急に馬鹿らしくなった。
「せぇえええええい!」
気付けば彼女は木刀を持つ手に力を入れていた。かけ声と共に振るわれた木刀が球を真っ二つに切り裂く。動力であるインが抜けた球は重々しい音を立てて地面に落ちた。断面は磨いたように輝いていた。少しの間、球が回転力を失ったコマのように回っていた。
彼女が部屋を出ると六方から突き出ていた円柱は消えて灯りは落ちた。後には春香の心中を代弁するような静けさが残った。
「ちっす、春香先輩。今日は張り切ってますね」
休憩室に行くと後輩の
千鳥は風杜高校の二年生で、春香の一年後輩に当たる。二人の付き合いは千鳥が霧凪に引っ越してきた半年ほど前に遡る。出会いは今と同じくこの休憩室で、同じように千鳥の方から話しかけてきた。
千鳥は元は東京に住んでいたが、両親が仕事の都合で海外への長期出張となったため、親戚を頼って霧凪に来たのだ。学校でどんな風に過ごしているかは春香は知らなかったが、交友関係の幅は妙に広いことだけは話を聞いていて察しが付いた。
肩より少し長い亜麻色の髪に目尻の上がった目、良く動く口に小さな鼻。一見すると特徴らしい特徴はないが、一歩踏み込んで見ればそこには驚くほど変化富んだ、魅力的な人間がいる。不思議な人。千鳥を知る人の多くはそう評価する。春香もその評価には同意であった。
驚くほどすんなりと人の心に入ってくる。良くも悪くも千鳥とはそう言う人間なのだ。春香は千鳥のそういうところが好きでもあり、少し苦手なところでもあった。
「別に、大したことはねーよ」
春香の声は嗄れており、肩で息をしていた。額には玉のような汗が浮いている。ジャージは流れた汗で張り付くようだ。トレーニングでこんなに汗をかいたのは確かに久しぶりであったが、悪い気はしない。少なくとも、疲労した頭には悪夢のことを深く考える余裕はなかった。
「そういや聞いた? 昨日の話」
「サンキュ……東京の討魔士のことか?」
千鳥は棚にある新品のタオルとスポーツドリンクを取って春香に渡した。その仕草は「まぁユックリしていきな」とでも言いたげであった。
「そうそう。で、討魔士が殺された件だけども、どうやら癒衣には仲間がいて、そいつが討魔士を殺したんじゃないかって噂になっているの。その上、なんと事件は気質の揺らぎの件とも関わっているらしいの!」
「……いや、生憎とアタシはなんも聞いていないよ。にしても珍しいじゃないか、千鳥がそんな事を気にかけるなんて」噂話には滅多に興味を抱かない千鳥が話を振って来たので春香は半ば呆れたように、感心したように、驚いたように言った。
「今回のこと気にしている友達がいてね……それに、社の空気も今日はちょっとアレじゃない?」
「おめーらしいよ。けど、社の雰囲気がおかしいのは昨日今日に始まった事じゃねえだろ。溝口の呪いが活性化して以来、社の雰囲気は悪くなる一方じゃねえか」春香はスポーツドリンクを一口飲んで言った。
溝口の件に本格的に対処するようになってから町も社も空気が悪くなった。それは何も呪いだけの理由ではないが。その事にまつわる種々の問題やら対策、人間関係で皆がどこか窮屈な思いをして自然と空気が澱み、良くなることはい。
「ままま。それになーんか、昨晩は悪夢とか見たって子が多くて……昨日の件と結びつけるのは性急な気がするけど、関係ないとも思えないのよね」千鳥は口調とは裏腹に真面目な顔で言った。
千鳥の元にはそう言った相談事が良く集まる。千鳥が率先的にそう言った事にぶつかっていく性格なのか、頼られやすい性格なのかは春香には分からなかった。自分とは正反対の人間を理解するのは不可能に近い。
「へぇ、そいつは誰だい」
「
「それで、その明って子はどんな夢を?」
「白い巨人が降ってくる夢だって」
「……それだけか?」
「えっ? うん。それだけ。問題は別の子も同じ夢を見たってコト」
白い巨人と言う言葉に反応して、思わず春香は厳しい口調で訊ねた。
「夢の共有ね。いや、一つのコトを複数人が予知したってところか。ま、アタシには関係のない話しだ」
「その割には興味がありそうだけど」
「そう見えるかい? 気のせいだよ。アタシはそこまで他人の事に首を突っ込む性格じゃないんでね」
「ハハ。そうね」
春香のやや頑なな態度に千鳥はごまかすような笑いで答えた。
「……アタシはソロソロ帰るよ。千鳥はどうするんだい?」
「私はもう少し訓練してく。他の人にも色々と聞きたいから」
「あんまり無理すんなよ」
春香はそう言ってトレーニングルームを出た。
時間が中途半端だったのか女性用のロッカールームには誰もおらず、不気味に感じるほど静かである。春香はシャワーを浴びる準備をしていたが、頭の中では白い巨人のことでいっぱいだった。タオルを出し、ジャージと下着を脱いで無造作にロッカーに入れたのも殆ど無意識での所作であった。
たわわに実った胸に、細い腰に小さな尻。長い手足はモデルでも十分に通用しそうなほどに良く出来ているが、本人は身体のことにはあまり頓着していなかった。見せびらかす相手もいなければ、見せびらかしたい相手もいない。
白い巨人。嫌に引っかかるじゃないか。
自分を含めて同じ夢を見たのは三人。これを偶然と言うには出来過ぎていた。溝口の呪いに対する恐怖や不安の総和が形を持って顕れたか、それとも癒衣の一件が関係しているのか。だが何にせよ自分だけが二人よりも具体的な夢を見ていると言う点が気になった。
また恐怖がぶり返してきました。咽るように熱いシャワー室の湯気が今は意思を持って揺らめいているように見えてドキッとした。
今の自分は何も恐れる必要はない。力はあり、仲間がいて、自分の足で歩けている。昔とは違うのだ。だがこの不安や恐怖は一体どこから湧き、どうしていつまでも残り続けるのだろう。春香はのど元に引っかかるような恐怖に苛立ちを覚えた。
普段よりも少しだけ熱いシャワーを頭から浴びるが、落ちるのは汗ばかりでしつこい油汚れのような不安は拭えない。春香は激しい雨のように叩き付けてくる熱水を頭から浴びながら、黙って考えていた。虚ろな目は床のタイルを映している。壁に付いた拳だけが力強く握られている。
あれやこれやと悪夢の不安を忘れようと努力したが結局は失敗に終わった。初めは自分の弱さと思っていたが、別の二人が同じような夢を見た事を知って春香はその考えを少しだけ改めた。この悪夢は予兆であると。白い巨人の正体を暴かなければ不安は付きまとうだろう。
だがどこから調べれば良いのだろうか。春香は自分からそう言った調査を始めたことはなかった。千鳥のような人間が仲間にいればやりやすいのだろうが、この件を誰かと協力して調べようとも思えなかった。
「……癒衣か」
ふと、トレーニングルームでの千鳥との会話が浮かんできた。討魔士の死と気質の揺らぎ。その件と悪夢を結びつけるのは千鳥の言うとおり早計だが、春香の中には今のところ言葉では言い表せない引っかかりがあった。
不思議なことに調べようという覚悟を決めると不安は僅かに和らぎ、やる気のような物が湧いてきた。
制服に着替えロッカールームを出たとき、春香の足取りは軽やかで、態度は気迫に満ちていた。彼女がロッカールームに入る姿と出る姿を見たら別人と入れ替わったのだと見まごうほどの豹変ぶりであった。
エレベーターのカゴが地下から地上へと昇って行く。春香は扉上の階数表示を眺めながら、社を出た後の事に思いを巡らしていた。今は表立っての活動を禁止されている。ただでさえ、癒衣の一件で社全体がナイーブになっているのだ。癒衣の事をコソコソと嗅ぎ回っていたら怪しまれかねない。
『一階です』
思案に暮れている間にカゴは地下一階に到着した。春香は扉が開くと同時に外に出ようとしたが、エレベーター乗ろうとしていた平本と鉢合わせした。
「おっと、済まない」
「こっちこそ」
「……御守はこれから帰りか?」
春香は軽く会釈をして平本の横を通り過ぎたが、少し歩いたところで平本が声を掛けてきた。これから調べ物を始めようというのにタイミングが悪い。春香はやや不機嫌な目つきで振り返った。
「ああ、何か用事でも?」
「悪いが長谷さんの後を追ってはくれねえか?」
「長谷さん? 何の……それは癒衣の事じゃねえのかい?」
「今朝からあの人が癒衣の調査をしていたのは確かだが、今し方急ぎで出て行った理由はわからん……」
春香の言葉は殆どひらめきに近かった。今の時期に急ぎの用事と言えば癒衣の事しか考えられなかった。また、長谷が癒衣を良く思っていない事も社ではよく知られていた。その二つの事実が結びついたとき、彼女の口からは自然と癒衣の名が出ていた。
思いがけず真意を言い当てられた平本の顔は硬くなった。彼は言葉を選ぶようにして返事をした。
「……行くよ。それで、アタシは何をすれば良いんだ?」
「頭領命令で戻ってくるよう伝えてくれ。それだけで良い……問題に直面しるようであれば、すぐに俺か俺の部下に知らせてくれ。組織として問題を知り対処する必要がある。その場で手を貸す必要はない」
「分かった」
癒衣の事を調べようと考えた途端、その仕事が舞い込んできた。運命と言った物は信じない質だが、今回は時運に恵まれているとしか言い様がない。平本と別れて社を出た後、春香は今日初めての笑みを浮かべた。
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