四月十三日:怨霊行進

 修夜しゅうやは急斜面の崖の上から地上を眺めいてた。

 限りなく夜に近い夕暮れの闇。濃厚な煙霧えんむの奥に並ぶ斜めに伸びる建物。中空には死の臭いが充満していた。

 世界が再び変転した。より陰湿に、より破滅的に。

 突風で空高く飛ばされたが、修夜は運良く高い建物の上に落ちることが出来た。その際に身体を強かにぶつけたが、怪我もなく痛みも感じなかった。肉体が怪我を負えるように出来ていないのだから当然だが。半気質生命体。忌々しい響きだが、役に立つ事は確かだ。

 彼が落ちた後もしばらく風は吹き荒び、建物のを揺らし続けた。灰にも似た褐色の微粒子が建物を叩き、腐敗臭があらゆるところに潜り込む。修夜は風に飛ばされまいと窪みの中で頭を抱えて頑張っていた。

 風が止んだのはそれから更に五分か十分ほどしてからの事だ。顔を上げて地上を見ると大きな嵐が途中でピタリと止まったような景色が広がっていた。辺りは夜のように暗く、あちらこちらに灰がこびりつき、空気は灰色に濁っていた。上から注いでいた赤色の光はいつの間にか横から射すようなオレンジと紫色のマーブルに変わっていた。

 辺りには鼻を覆いたくなるような饐えた臭いが充満していた。この高台ですらそうなのだから、地上はさぞ臭うだろうと修夜は眉をひそめた。

 地上に降りるための階段や段差はなく、修夜は斜面を滑り降りるしかなかった。彼は腰を可能な限り落とし、足を開き、ソールを押しつけて速度を緩めようと努力したが、結局は猛烈な速さで滑り落ちて地面に激突した。普通だったら確実に死んでいたであろう。つくづく便利な身体である。

「……どっちに行けばいいんだ?」

 右を見ても左を見ても濃霧で先は見えない。ここがどこかも分からない。

 御守神社で目覚めてからずっとこんな感じだな。どこに行けば良いのか、何をしたら良いのか、一度だって明確だったことはない。修夜は疲れたように溜息をつき、風の吹いて行った方角を目指して歩き始めた。体重の軽い癒衣ならば、自分よりも遠くに飛ばされていると考えるのが自然だ。

 建物がなびいている方向へと進む。薄暗く視界の効かない通りは不気味だ。今更、不気味だというのは些か遅いが、今の異界は嵐の前とは違った雰囲気を漂わせていた。自ずと危険を感じた修夜の意識は、予断なく周囲の音や動きに向けられた。彼は心配と恐れに鞭を打たれて小走りで先を急いだ。

 不意に曲がり角の先から『ザリ、ザリ』と言う、砂を噛むような音が聞こえた。

 修夜はすかさず近くの影に身を潜めて、音のした方を睨んだ。

『……んだろか……いしたろ……ころし……か、……したろか』

 足音に混じってくぐもったの声が聞こえてくる。多数の人が同じ言葉を唱えているのか、言葉は幾重にも重なっている。乾いて細くなった喉から絞り出される様な声は、ゾクッとするような恐ろしさがあるが、同時に哀れでもあった。

『うらんだろ……あい……ろか。……したろ……いかした……』

 言葉と足音が大きくなる。修夜の緊張はいよいよ高まった。

『うらんだろ……あいしたろか。ころしたろ……い……たろか』

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

 声と共にぬぅと角から黒い塊が現れた。煙霧の中で動く影はいかにも人に見えたが、すぐに空目である事が分かった。

 二本の手に身体を支える二本の足、丸い頭に細い身体。パーツは人間と同じであったが、大凡まともに人の形をしてある物は見えない。皆一様に身体のあちこちが歪んでいた。

 黒い粘土を固めて作り、失敗して放棄された人のなり損ない。それらが同じ言葉をひたすらに繰り返していた。

 異質な存在に対する生理的な恐怖。意識が無為に発する危険信号がけたたましく鳴り響く。

 ――あれは……なんだ?

 怪異。その言葉が脳裏に浮かんだので考えるのを止めた。到底、認められる考えではなかった。

 ザリッ、ザリッ。と、止めどなく足音が聞こえる。恨み歌が足音の調子に乗ってメロディアスに木霊する。

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

 アレは広場の巨人と同じように討魔士に呼び出されたのだろうか。

 そんなまさか、流石に気持ち悪すぎる。と、修夜は頭を振った。だが事実は別にしても、常に討魔士とうましのことを考慮して行動をするのが正しい。例え討魔士の中までなくとも、無用な戦闘は避けるべきだ。

 癒衣の言うとおり攻撃しない、見つからない。その二点を遵守して動くのが最良だ。何が正しくて、何が過ちか自分の頭で判断も出来ず、行いの責任も取れないのであれば尚更だ。修夜は息を殺して化け物共が通り過ぎていくのを待った。


 空気は薄れ汚れて吐き気を催すような饐えた臭いが他充満している。気質の流れは複雑で読めない。おまけに、淀んだ負の霊気が気質の中に微かに紛れていた。

 異界の結び目を開いたときに、別の存在が異界に雪崩れ込んだのだ。自我もなく、脆弱で、数だけは多い気質生命体――澱みや陰ヌヒと言った怪異だろう。奴らは負の気質が集まるところであればどこにでも発生する。腐敗臭の混じった、粘度の高い気質。不快だが癒衣ゆいは酷く懐かしいような気がした。

 東馬とうまといた頃は吹きだまりのような異界に乗り込んでいって腕を振るった。仲間と共に迫り来る雑魚共を蹴散らして、澱みの原因を浄化して異界を破壊した。破壊した異界の数は覚えているだけでも百は下らない。

 しかし、この異界は幾度も潜った異界の感覚と微妙に違うようにも思えた。かと言ってこの感覚を知らないというわけでもなかったが。一体どこでこの感じに触れたのだろうか。癒衣は思い出せそうで思い出せないという不愉快な状況に歯噛みした。

「それにしても……あの子はどこに行ったってのよ」

 道は見通しが悪く、空気は饐えた臭いばかりが目立つ。修夜を探そうにも探しようがない。

 今いる場所が修夜が落ちてきそうな場所である事は確かだ。少年が自分とは反対の方向に飛ばされたのを癒衣は見ていた。しかし、一向に修夜が見つかる気配はなかった。互いに互いを探し合って動き回っているだろう事は想像が付くが、その思い上手く繋げるにはどうしたら良いかが分からない。

 これが東馬であればもっと簡単に見つけられただろう。癒衣はふとそんなことを思ったが、すぐにその考えを打ち消した。修夜が東馬と違うのであれば、修夜に適した探し方をするべきである。修夜のように何も知らない子供を探すのであれば、二倍でも三倍でも、可能な限り自分が動いて色々な場所を見るべきだ。

 癒衣は高台の上に昇った。下から探すより、上から探した方が視界は広い。討魔士に見つかる可能性もあったが、今は修夜を見つけることが大事だった。

 少年の名を呼んで走っていると、下に広がる煙霧の向こうから音が聞こえて来た。陰に篭もった、ボソボソと呟く声は人の出せる音ではない。癒衣は足を止めて屋根の上から通りを見た。

 幾つもの足音と悲しげな声が近付いてくる。通りに淀んでいた煙霧が押し出されて動き出した。奥の方が暗くなり、中から何かが姿を現した。澱みでも陰ヌヒかげぬいでもない、真っ黒い、人の形をした何かだ。

「……」

 その姿を目の当たりにしたとき、古い記憶が急速に蘇ってきた。

 恨みに突き動かされる無数の悪意。その口から吐き出されるのは憎しみである。目につくもの全てを破壊して呑み込む。

 それを癒衣はかつて見たことがあった。

「……あの子が危ない!」

 アレと戦ってはいけない。アレに関わってはいけない。癒衣は怨霊から目を話して修夜探しに戻った。


 細く、陰った道に入ると少し抱け安心感が胸に広がった。香田は肩で息をして、心臓の動悸が収まるのを待った。

 体力には自信があったが、この異界の空気や雰囲気は容易に彼女の調子を狂わせる。

 高橋も杉山も遠く空へ飛んでしまった。まったく馬鹿みたいな話だが、確かに人が空を飛んでいった。

 不謹慎ながら香田はオズの魔法使いを思い出してしまった。

 香田にとって幸運だったのはすぐ傍に風除けとなる細い道があったことだ。おかげで彼女は突風を免れて命拾いをした。

 高いところから落ちて命を守る術や能力は香田にはない。討魔士——裏性人と言えども才能は様々である。身体能力を強化したり空を飛んだりする才能を持たぬ討魔士は少なくはない。

 強化されない肉体はどこまで行っても人の身体である。傷や痛みに弱く、拍子抜けするほど簡単に壊れる肉体なのだ。

「みんなどこへ行ったのかしら……」

 香田は何か聞こえないかと耳を澄ました。しかし、聞こえてきたのは無数の足音と陰鬱な声であった。

 思わず彼女は息を呑んだ。大分逃げた筈なのに、敵はもう近くまで来ていた。

 香田はアレがなんなのかは話には聞いていた。人間のような姿。特徴的な言葉の繰り返し。何十体もの集団で現れて当たり散らすように目の前のあらゆるものを破壊する。

 姿形は想像していた通りだが、数は話しに聞くより遙かに多かった。同僚は多くても数十体だと言っていたが、今この異界には何百、何千体といるように見えた。

 溝口の怨霊。今の霧凪社が抱える最大の問題であり、活動を規模を縮小せざるを得なくなった理由である。

 怨霊は霧凪のあらゆる場所に存在する。彼らは負の気質に呼び寄せられ、次元の壁を越えてどこにでも現れる。基本的には澱みや陰ヌヒに近い気質生命体であるが、凶暴性や強さはそれらの比ではない。

 だがこれほどとは。香田は初めて現実を目の当たりにして言葉を失った。

 怨霊の強さは自力で対処できる範疇を越えていた。恐らく、高橋や杉山と協力しても焼け石に水だろう。

 香田は通りの入り口を幻惑で隠して反対側に逃げだした。

 足音と声が遠くなるが、背中に感じる恐怖だけはいくら離れても張り付いたようについてきた。

 早く仲間の元へ。もはや香田は癒衣も修夜のことも考えられなかった。討魔士としての体裁も義務感もなかった。ただ、死と暴力に対する恐怖が彼女の大半を支配していた。

『ウォォオオオォォォオン』

 その時、雄叫びが空気を震わせた。香田はハッとして足を止めた。その顔には恐怖が張り付いていたが、すぐに安堵に変わった。声は聞き慣れた高橋の造僕の鳴き声であった。

 ようやく仲間の元にたどり着けた。彼女は小走りで雄叫びが聞こえてきた方へ向かった。

 戦闘が繰り広げられているのだろう。通りの向こうからは叫び声や打撃音、そして一際目立つ拳銃の発砲音が鳴っていた。

 香田が近付くに連れて音は哀れみっぽく変わった。雄叫びは力ない叫びに変わり、銃の音は最期の断末魔のように響いた。

 通りを抜けて見えた光景は巨体が大量の怨霊によって倒されるその瞬間であった。造僕の手足は砕けて、胴体もぼろぼろでもはや死に体であったが、怨霊はそれでも足りぬと言わんばかりに執拗に叩き続けたていた。

「高橋さん!」

「香田さん!? 早くこっちへ!」

 香田は無駄だとは知りながらも、拳銃で怨霊を牽制しながら高橋の元へ走った。

 怨霊はと造僕を踏み拉いて先へと進み始めていた。二人は互いの安全を喜ぶのも取りあえずに逃げ始めた。

「取りあえず、高台に昇りましょう。自分の手に捕まってください」

「はい! すいません」

「あぁ、いえ。大丈夫です」

 高橋がポケットから呪符を取り出して霊力を込めるてジャンプすると、二人の姿が宙を舞った。空を飛ぶようなその感覚は香田には全く馴れぬ感覚だった。彼女は胃に感じる違和感に顔を強ばらせた。

 着地したのは高台の中でも比較的低いところにある足場であった。上を向けばまだ高い箱の壁が幾つも見える。下にいる怨霊を見れば対して小さくは見えない。体感的には三階建てのビルから地上を見たような感覚であった。

「杉山さんを探して、それから作戦を考えましょう」

「どうでしょうか。先に長谷部長に知らせた方良いんじゃないでしょうか?」

「えっと、そうなんですが、怨霊は恐らく出口を探して彷徨っているので、扉を開くには杉山さんがいないと危ないですね。すいまんせん……それにこの異界に出入り口を開いてバランスを崩した場合、どうなるか自分にもちょっと分からないので」高橋は平謝りした。

「そう言うことなんですね」

「はい。なので早く杉山さんと合流しないと……幻惑で何か自分達の居場所を知らせることは出来ないですか?」

「多分、出来ると思います」

 香田は一瞬考え、頭上高くに赤く大きなバルーンの幻を映し出した。赤い丸は煙霧の中で、掠れながらも目立って見えている。これなら杉山の目にも止まるだろう。二人は杉山と合流すべく移動を始めた。

 それから十分も経たないうちに成果が現れた。煙霧の中に笛の音を鳴らしながら空に伸びる光の帯が現れた。

 光の帯はしばらく空中に留まった後、ハラハラと塵と消えた。

「杉山さんの閃光弾でしょうね……行きましょう」香田が言った。

 二人が光の下へ向かうと案の定、杉山がいた。場所は異界の外周の末端。背後に壁のある高台の上であった。

 異界の結び目からは大分離れていおり、まともに風の影響を受けて飛ばされたことが見て取れた。


 溝口の怨霊は溢れたの如く流れる。黒い濁流からは助けを求める亡者のうめき声が微かに響いていた。

 三人は遠くの十字路を横切って進む怨霊を眺めていた。顔には事態を収束を決意する強い決意が見て取れたが、瞳の奥には大変な事態を引き起こしてしまったと言う、焦燥と恐怖、後悔の念が覗くようにチラと浮かんでいた。

「奴らはどこへ向かっているんだ?」杉山はぽつりと疑問を呟いた。

 自分達に向かってくるでもない、然りとて癒衣や修夜と戦っている様子もない。異界の中にある通りを気ままに歩いているようにすら見えた。

 その答えを探すように、高橋と香田の二人は目の前の光景を眺めた。

 歪んだ日常の中を歪な怨霊が練り歩く。薄皮一枚で隔てられて守るべき営みと倒すべき営みが隣り合っている。見ているだけで不安になる光景だった。

「あの方向だと、風杜高校とかある辺りですね。ほら、あの通りが風杜と風見ヶ丘の間の道路で」

「あぁ。確かにそうだ」ちょいちょいと指さす香田の手を見て杉山が頷いた。

「……もしかして溝口の姉妹を目指しているんじゃないでしょうか?」

「そうだとしたらヤバいな……だが、異界は閉じられているんだ。その場所に行っても……」

「場合によっては異界の壁も破壊されることがあります……早ければ三十分かそこらで……」

「そうか……ここに出入り口を開いたら多少は時間が稼げるだろうな。香田さんは長谷部長に応援をよこすよう伝えてくれ。俺達は出入り口をガードしておくから」

「……分かりました」

 高橋が開いた出入り口から香田は外へ抜けた。遠くの方では外の臭いをかぎつけた怨霊共がにわかに経路を変え始めていた。すぐにこの場所に雪崩れ込む。杉山と高橋は防備を固めて怨霊を待った。

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