第二話:四月十三日:異界崩落

「両手を頭のうしろにつけなさい。馬鹿な真似をしたら頭を吹き飛ばすわよ」

 コツン。と、硬い物が修夜の頭に当てられた。高圧的な女の声が背後から投げかけられる。

 その瞬間、修夜は後ろの人が立っていた事に初めて気付いた。癒衣ばかりに意識が向いていて周囲の事はまるで目に入っていなかった。

 殴られ、傷付き、血を流し、それでも反撃せずに異界の結び目を破壊しようする癒衣の姿を見て、修夜は怒りや悔しさに時間も場所も忘れて熱狂してた。

 約束など忘れて彼女の横に立てたらどれだけ心が晴れるだろうか。

 修夜は癒衣が殴られる度に強く思った。そして、癒衣が自分の為に動いていることを思い出して歯を食いしばった。

 二度も彼女の思いを無下にする訳にはいかない。癒衣の力を信頼しない訳にもいかない。

 一時の感情でその二つをぶち壊しにするのだけは避けたかった。

 それでも、彼は常に飛び出す心構えは崩さなかったが。

 愚直に約束を守って誰かが死ぬのだけは絶対にごめんだった。

 だが、その思いも空回りに終わったが。修夜は己の浅はかさや、視界の狭さに心底腹が立った。後ろにいる討魔士よりも自分を殴りたい気分であった。

「ゆっくり立って……ゆっくりこっちを向きなさい」

 修夜はただ命令に従うしかなかった。討魔士が何を頭に突き付けたかは分からなかったが、殺傷能力の高いイン以外であるとも考えられなかった。インを持ち出されては自分なんぞは手も足も出ないことを修夜も心得ていた。

 癒衣はこの事実に気付いていなかった。修夜はその事をありがたく思った。

「ゆっくり、振り返りなさい」

 振り返ると、地味で、背が低く、取り立てて見るところのない討魔士——香田が片手で銃を突きつけて立っていた。

 態度は高圧的で語気は強いが、その芯となる決意は脆そうであった。

 半端な覚悟に半端な殺意。肩から登り立つ霊気は淡く、薄い。

 修夜はすぐに香田が自分を殺すか決めかねているか分かってしまった。その上、高圧的な態度の裏に恐れが隠れていることが余計に鼻についた。見たくもない裏事情を見せられた気分だった。

「……」

 香田は美貌の少年に恐怖を覚えた。

 燃えるような日差しと漆黒の闇。流れる血と暴力。尋常ならざる世界にあって浮き立つような美しさは禍しか感じさせない。

 香田のこめかみにジンワリと汗が滲み出る。心臓の動悸は僅かに速くなり、息苦しくなった。

 人か、怪異か。

 どうすればいいのだろう。彼女は心の中で呟いた。

 事実は軽々と香田の想像を超えて先へ進んでいた。何もかもが明後日の方へ向かって進んでいるようだった。

 一体、何者なのだろうか。

 癒衣の仲間か、それとも……。

 考えれば考えるほど彼女の思考は蟻地獄のような渦の中に呑み込まれていった。

「……あっ」

 彼女は思い出したかのようにポケットからコンパクトデジタルカメラを取り出して少年の顔を撮った。

 目の前の少年が誰であれ、なんであれ、今は考えるのではなく、霧凪社の討魔士として仕事をする時だ。

「……何者なの? 名を名乗りなさい」

「修夜」

「癒衣の仲間なの?」

「いや。癒衣なんて奴は知らないね」

「……あぁそう。一つ言っておくわ。こんな場所にいて、そんなふざけた態度をとって殺されないなんて思わない事ね……反対を向いて、良いと言うまでゆっくり進みなさい」

 修夜はゆっくりとした足取りで一歩、また一歩と後ろへ進んだ。彼の身体が広場に出たとき、香田は足を止めさせた。

 修夜は嫌な予感がしてならなかった。

 自分はこの場所にいる全員に見られている。名を覚えられ、顔を覚えられた。情報は加速度的に広まるだろう。自分の存在が霧凪の討魔士の間に知れ渡ったとき、状況はどう変わるのだろうか。修夜は思わず身震いをした。

「……止まりなさい癒衣! さもないとアンタの仲間の頭が吹き飛ぶわよ!」

 その小さな身体のどこから出ているのか不思議なくらい大きな香田の声が広場に響いた。


 香田の声に真っ先に反応したのは癒衣ではなく高橋であった。彼は香田の声を聞いて予期せぬ事が起こったのだと早とちりして造僕を止めたのだ。彼はすぐに過ちに気付いたが、造僕を動かすことは出来なかった。修夜の姿を見て思わず命令を下しそびれた。

 癒衣は修夜の名を聞いて即座に動きを止めて、声の方を向いた。

 戦場が止まった。

 香田の目は癒衣に注がれ、癒衣の目は修夜に注がれている。共に対象から真実を探ろうとする目であった。

 高橋は不可思議な状況を完全にではないにせよ理解した。香田が癒衣に対する決定打を突きつけたのだ。

 修夜は居心地に悪い思いをしていた。こうして癒衣の前立たされると、如何に自分が足手まといであるかという事実を目の前に突き付けられているようであった。

 いっそのこと殺してくれ。そうすれば二度と俺は癒衣の足手まといにはならない。修夜は恥からかそんな願望を抱いた。

 広場とは少し離れたその場所に、状況をまるで理解できていない男がいた。

 丸い穴から戦場を覗く彼は、戦場が止まった理由を何一つ見出せていなかった。顔を上げて広場を見れば一目で理由が分かったであろうが、杉山はどこまでも目の前の任務に忠実であった。

 杉山は癒衣の頭を照準に捉えた。睨むような目に固く閉じられた口。表情には癒衣の怒りや苦悩と言った心の内がありありと浮かんでいるようだったが、杉山の目には、彼女の意識が一方向にしか向けられていないと言う情報しか映らなかった。

 確実に殺す。鉄のような意思が人差し指に伝わり、羽のようにソフトなトリガーを引かせた。

 銃の内部で撃鉄が高速でスライドし、既に具現化されていた硬化弾の雷管を叩く。霊力の爆発によって弾は押し出され、バレルを通り、銃口から吐き出された。銃身が僅かに跳ねるが、フラッシュブレーキから燃焼ガスが噴出して上への力を相殺した。

 銃弾は空気を引き裂き、音を置き去りにして癒衣の頭を目指す。

 秒速千メートル以上。三百メートルにも足らないその距離では着弾時間は文字通り一瞬である。

 広場は気味が悪いほど静かであった。音はまだ広場にいる人々の耳には届かない。

 修夜は癒衣を眺めていた。

 なんとかしなくては。失敗を取り返さなくては。そんな やるせなさと自責の念に苛まれ、気持に焦りが生じる。

 そうして周囲を見ていると、秋雨屋は十字路で覚えた、時の流れの変化を感じた。一秒に二秒に、二秒が四秒に。そして段々と意識と時の流れが離れて、時間に取り残されたような感覚が強くなる。

 ——これは十字路で銃弾を見たときにも味わったな。

 駆け抜ける癒衣に迫り来る銃弾、そして爆発がストップモーションで見えたあの光景は異界に来て唯一の成功体験であった。それだけに脳はその瞬間の光景や感覚を鮮明に記憶していた。

 ——ここで動けば、俺はどうなるんだろうか。

 意識だけが先行するのかそれとも、遅れることなく肉体が意識に追従するのか。

 試してみる価値はあった。よしんば期待が外れて身体が少しばかり動いたところで、この女には自分を殺すような事は出来ない。恐怖心がどれだけ過剰に作用するかは分からなかったが、分の悪い賭けには思えなかった。

 再び修夜の意識が癒衣に向いた。

「っ!」

 一瞬、修夜は記憶の中の映像と事実とが混ざったのかと思った。迫り来る銃弾と癒衣の姿。記憶の中の景色と目の前の景色とが重なっていた。しかし記憶と違って銃弾と癒衣の軸は完全に一致していた。その光景を目の当たりにしたとき、修夜は無意識で走っていた。


 地面を揺るがすような爆発音が響いた。香田の目の前に人はなく、陥没した地面から淡い光の塵が立ち上る。

 造僕と癒衣を囲んでいた結界は震えて細かいヒビが入って乳白色に濁っている。

 香田は銃を構えて周囲を見回したが、そこに修夜の姿はなかった。

「どこに隠れたのっ?」

 彼女はそう叫んだが、答えはなかった。

「……癒衣を殺せ!」

 高橋は慌てて造僕に命令を下した。乳白色の壁の向こうで造僕のうなり声が響いた。

「何が起こった?」

 杉山の言葉はその場にいた全員の気持ちを代弁していた。癒衣を撃ったと思った瞬間、結界が白く濁って爆発音がした。

 予想された未来と事実との間に大きなずれが生じた。一瞬にも満たない時間で世界が一転したようにも映った。

「癒衣、早く異界の結び目を……」

「アンタもついてきなさい! 飛び込むわよ!」

 癒衣の言葉に修夜は嬉しそうに頷いた。

 二人は力強い足で走り出した。襲いかかる造僕を避け、脆くなった結界を体当たりで破壊し、高橋の横を駆け抜けた。空からの銃弾が二人のすれすれを飛んで爆発するが、癒衣は速度を変え、道を変えて衝撃を避けた。修夜はただ彼女の後ろを走るだけで良かった。

 結び目は間近まで迫っていた。空間がヒダのように折れ曲がって重なり、色濃くなっている。猛烈な重力によって赤と黒の異界が凝縮されて固まった特異点。まさに世界の末端であった。この場所が最も脆いと聞いていたが、修夜はそれとは全く正反対の印象を受けた。ここは最も異界の壁がの層が厚いのではなかろうか。

 癒衣は微かに戸惑っていた。彼女の知る結び目とは明らかに違っていた。しかし、この異界が既に未知の領域なのだ。何が違っていようが今更作戦を変更する事は出来なかった。

 癒衣は死に神の鎌のように大きく、曲がった爪を思い描いて、あらん限りの力で異界の結び目を打った。

 イィィイイイイイイィィィン。と、壊れた鐘の音にも似た、頭が圧迫されるような音が鳴り響いた。調子外れで、耳障りな音だが、元は——元のが存在していればの話だが——美しい音色であったことを忍ばせる音でもあった。

 霊力と霊力が衝突し、対消滅をする際の音に似ている。大きな霊力同士の衝突があればきっとこんな音がするのだろう。だとしたら、何と衝突しているのだろうか。忍び寄る黒い恐怖が彼女の頭から尻尾の先へと通り抜ける。癒衣は背中と尻尾の毛はやにわに逆立った。

「癒衣! 出口は開いたのかっ?」

「いえっ、ちが……」

 癒衣が言い終わる前に異界が大きく揺れた。異界の結び目が綻ぶと穴から大量の淀んだ空気が流れ込み、風を吹かせた。到底立っていられないような突風に身体の軽い癒衣どころか修夜や造僕、遠くにいた香田すらも空へと吹き飛ばした。

 高い建物を模した箱が力に押されてガチガチと音を立てて傾く。地面はズリズリと引きずられる。

 風がひとしきり吹いて止んだとき、異界はまた変貌していた。箱は強い海風に晒された木のように斜めに傾き、地面は砂丘のように波打っていた。人のいなくなった広場の角では不愉快な鐘の音が狂ったように響き渡り、異界の結び目は更に大きく開こうとしていた。

 徐々に徐々に圧縮された空間が広がって行く。美しく、妖しく、不吉さを湛えるそれは夕暮れの中で開花する、赤黒い艶を放つビロードのバラのようであった。

 花弁の奥にある丸穴は壁とも、無限の空間とも判断のつかない灰色であった。

 鐘の音に混じって言葉と思しき声が聞こえる。陰鬱で聞き取りづらいその声は二重三重にもなっているが、同じ言葉を繰り返しているのであろうか、響きにブレはない。

『……んだろか……いしたろ……ころし……か、……したろか』

 声は念仏のようにいつまでも続いた。声は徐々に大きくなり、声の重なりは更に深くなる。広いホールのその中で、何千何万もの人間が一心に同じ言葉を唱えている。

『うらんだろ……あい……ろか。……したろ……いかした……』

 ポッカリと空いた穴は既に大の大人が四、五人は横に並んで通れそうな程に広がっている。響く声は鮮明になり、言葉がいよいよ意味を持った。

『うらんだろ……あいしたろか。ころしたろ……い……たろか』

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

 灰色であった穴の奥が真っ黒になる。人間の焼死体のような物がひねり出されたクソのようにドベと異界の中に押し出された。幾重にも積み重なったソレは我先にと穴から這い出る。下の方には重さで潰されたソレから流れる黒い知るが伸びる影のように垂れていた。

 頭は真っ黒で、身体はミイラのように細い。手足は燃えた松の枝であった。目も鼻も口もなく顔はのっぺりとしている。腹の辺りは贓物が抜け落ちたようにえぐれていた。

 身体はどこかしらが歪んでいる。手足はおかしな方向に曲がり、身体の一部は萎んでいたり、膨れていたりと姿は千差万別であるが、一体としてまともな姿がないというのは逆に統一感がある。

 ザリッ、ザリッ。と、足を引き摺り、身体を左右に振りながら歩く姿は地獄の亡者としか言い様がない。

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

『うらんだろか、あいしたろか。ころしたろか、いかしたろか』

 ソレは穴から止めどなく溢れ、先へ先へと長い列を成した。

 死者の行進は進む。常人には知り得ぬ目的地を目指して只管に進む。

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