第二話:四月十三日:壁

 赤い野原を癒衣ゆいが行く。修夜しゅうやはその姿を見ていることしか出来なかった。

 血を流す癒衣を見たとき、修夜はいたたまれなくなった。何故、癒衣だけがこうも傷付くのか。誰が彼女をこんな目に遭わせているのか。自分にはそれを止める手立てはないのか。そう言った怒りや後悔が沸々と内に湧いた。

 ただ影に隠れて見ていることしかしない。その無力感や自身の冷たさが彼を苛立たせる。

 馬鹿であれ。そうすれば自分は自分の心の思うままに、癒衣のために動けただろう。しかし修夜は、自分がそんな一本気な性格ではないことに気付いていた。常に片隅には冷静さを残す自分を知っていた。

 計算高さ。それは時に美徳でもあり、時に悪徳でもある。

 知に働けば流される。情に棹させば角が立つ。意地を通せば窮屈だ。

 癒衣の言葉に従えば不満ながらも安全に生きることが出来る。感情に従えば癒衣とも社会ともぶつかることになる。かといってどちらかを選択すれば鬱憤が溜まるだろう。

「……俺はどうしたいんだろうな」

 修夜は癒衣の背中を眺めながら呟いた。


 異界の結び目からまだ遙か遠くのその場所で突然、癒衣は違和感を覚えた。

 湿った冷たい空気が足に絡みついたような不快感。引く波のように急速に薄まる気質。得体の知れない空気に震え。

 また異界が変化するのか? 一瞬、癒衣は不吉な予感に捕らわれたが、すぐに事実が目の前に現れた。

 地面から無数の細い角柱型に迫り上がり、組み上げられ、一つの形を作り出す。

 角柱を君で出来た足が、腰が、胴が、腕が、そして頭が現れる。

 足は短く細く、その反対に腕は驚くほど長く太い。胴体は二つのドラム缶をつなげたように長く、途中で折れ曲がっている。蛇の様にも鳥の様にも見える頭には目と思しき黒い球が爛々と輝いている。身体を構成する細い角柱は濁った透明色で赤い日の光を受けて真っ赤に輝く。

 造僕ぞうぼくであった。古くはゴーレムとも呼ばれたそれは単純な人工知能を搭載した半気質的なロボットである。

 背の高さは二メートル以上。がっしりとして長い胴体を長い手で支えるその姿はゴリラのようだ。

「造僕……予想の範囲内よ!」

 造僕は門を守る仁王像よろしく対になって癒衣の前に立ち塞がる。彼女は巨大な姿に気圧されることなく走り続けた。

「うぉぉぉぉおん!!!」

 造僕の天を切り裂くような甲高く、機械的な濁りのある怒号が響いた。

 癒衣を敵と判断した二体は地を揺らして彼女に襲いかかる。不格好な長い手を大きく振り回し、互いの攻撃が当たらないように辛うじて連携を取る姿は阿吽の呼吸とはほど遠く、癒衣に触れられる可能性は万が一にもないように見えた。

 造僕の出現に焦った修夜もその動きをみて見てすぐに胸をなで下ろした。

 戦いながらも癒衣は一直線に結び目へと進んだ。小さくてすばしっこい癒衣を、巨漢で動きの鈍い造僕が追う姿は滑稽以外のなにものでもない。造僕も知恵を絞って前後から挟む陣形を取っているが、癒衣がすぐに脇を抜けるので意味は薄かった。

 明らかに武器の選択を誤っている。癒衣は敵のレベルの低さに感謝した。

 巨大な造僕は畏怖の念を起こさせるが、実用的ではない。自分のような化け猫が敵だと分かっていてなおその愚鈍な造僕を選んだ理由は、使い慣れている以上の物ではないだろう。その上、こんな造僕に門番を任せて大事な本丸を無人にするとは考えが足りないにも程がある。

 だが、どこへ消えた?

 昔から空城の計と言う言葉があるように、無人の城はそれだけで怪しく見える。しかし癒衣は足を止めなかった。造僕に追われるこの状況で足を止めるのは流石に危険だと判断しての事だ。

 結び目はまだ遠いが、着実に近付いていた。

 あと少しすればこの異界を抜けられる。癒衣は疲労し始めた身体に鞭を打って先を急いだ。


 高橋は造僕の姿を見て思わず声を上げた。

 建物の上から造僕と癒衣が戦っている光景を見て流石に驚き、癒衣が押している事実を理解して焦った。場を離れていた時間は三十分ほどで、多少の状況が変わることは覚悟していたが、これほどまでに状況が——悪い方向に——変わっているとは思ってもみなかった。

 高橋は両手を前に突き出し、人差し指と親指で輪を作った。その輪の中には癒衣と彼の造僕が納まっている。

「顕。汝は土地。我が手中に壁を求める」

 呪文を唱えると手で作った輪に沿って、地面から半透明の壁が迫り上がった。

 直径二十メートル程円形で、壁の高さは十メートル近くあった。癒衣からしてみれば何の前触れもなく、突然に周囲に壁が出来たとしてか見えないだろう。高橋は癒衣を捕まえたのを見て、一先ず胸をなで下ろした。

「自分は降りて造僕をサポートします」

「分かった。だが、先に元の仕事を済ませるぞ」

「あぁ……尋問ですね。杉山さんがしますか?」

「そのつもりだ」

「分かりました」高橋はそう言って高台から飛び降りた。

 杉山は高橋に目もくれず、石筆で地面に回路を描いていた。先に描いた円形のそれとは形も大きさも違っている。一メートルにも満たない長方形の輪の中には筆記体とピンストライプを混ぜた字で回路が描かれている。先の円形の魔方陣のあった回路と同じ部分があり、また違う部分があった。

「一弾一殺。身体は陽炎の如く。目は鷹の如く。死は注ぐ雨の如く」

 杉山が中心部に手をついて唱えると、何もない空間にスナイパーライフルが構築された。彼は即座にそれを構えて、壁で囲われた地面の中心部に狙いを定めた。癒衣の動きを捉えることは出来ないが、強力な炸裂弾を打ち込めば逃げ場のない癒衣にそれなりのダメージを与えることは出来るはずだった。

「……さて、一つ尋問といくか……」


 壁に囲まれた戦場は癒衣が先に進むことを止めたが、動きまでは封じ込められなかった。彼女は地を蹴り、壁を蹴り、縦横無尽に造僕の攻撃を躱した。しかし余裕の状況下でも癒衣の顔は晴れなかった。

 壁は固く、天上は閉じられている。彼女の置かれた状況は箱の中の小鳥と同じであった。箱の中では自由に動けるが、外に出る術はないのだ。

『……聞こえているか癒衣っ? 我々は霧凪社の者だ! 威嚇射撃については謝罪しよう。我々に戦う意思はない。昨晩の顛末を聞きに来ただけだ。繰り返す。我々に戦う意思はない……』

 どこからともなく声が降ってきた。その声は内容とは裏腹に高圧的だ。討魔士の言う『聴取』とは常にこんな感じなので癒衣は驚きはしなかった。むしろ、怪異に対して耳を貸そうと言う態度を見せる方が余程驚きであった。

 彼らが事情を聞きたがっているというのは事実だろう。佐藤の死、そして自分の復活に纏わる変異。今だ霧凪社はそれらの事実の確認が取れていないのだ。

 しかし、敵意がない。は、ないだろう。癒衣は造僕の攻撃を避けながら心内で冷笑した。

「討魔士が襲ってきたから返り討ちにした。それだけよ!」

『仲間がいるとようだが、そいつは今はどこにいる?』

「……仲間? いないわよ! そんなの!」癒衣は力一杯に叫んだ。

 討魔士がどこまで知っていてその問いを投げかけてきたのか癒衣には分からなかった。修夜の存在を知っていて聞いているのか、存在を知らないで聞いているのかでは大分違う。

 討魔士の内情をあれこれと考えている余裕はなかった。答えに詰まれば感づかれる恐れがあった。だから一瞬の迷いを悟られないよう必死になって叫んだ。

『もう一度聞く。仲間は何者で、どこにいる? 昨晩あの場所にお前がいたことは分かっているんだ』

「何度聞かれても答えは同じよ! 私の知ったこっちゃないわ!」

 癒衣は討魔士の質問を聞いて笑みを浮かべそうになった。二度も質問されれば討魔士が修夜の存在すらつかめていないことは理解できる。無論、この場所にいる事にも気付いていないことも。

 天の声はそれっきり黙ってしまった。いい気味だ。

 広場全体に届くような爆発音が響いたと思うと、癒衣を囲む壁に直径二センチほどの丸い穴が空き、箱中で内部で爆発と閃光が起こった。癒衣は一瞬で視界と聴覚そして均衡を失った。視界は真っ白で音は何も聞こえない。脳みそは揺さぶられたように震えていて、足取りもおぼつかない。

 己の危機を悟った彼女は即座にダメージを覚悟して防御の態勢に切り替えた。

 肉体の質量、密度、硬度が倍加する。身体はそのしなやかさを保ったままに、鋼鉄のように硬くなる。神経回路は太くなり、その伝達速度は生物の限界を超える。

 筋力とは筋繊維が肥大化することで増加する。しかし、インによる肉体強化は気質を具現化し、擬似的に筋肉細胞を増やす事で筋肉を高密度化させた。それによって体積を増やすことなく筋力を増加させた。そして、それは何も筋肉に限ったことではなく、肉体を構成するあらゆる器官に適応された。

 超高密度。超圧縮。元々三キロあるかないかの癒衣の質量は今やこの場にいる何者もを越える力を閉じ込めていた。

 癒衣は地面を蹴って真っ白で何も見えない前へ飛んだ。その行為が分の悪い賭けであることは承知していたが、それでも動くしかなかった。

 大きく、重く、硬い一撃が癒衣を襲う。大砲でもぶち当てられたようなその衝撃で癒衣は壁に叩き付けられた。引きちぎれんばかりの痛みに身体が悲鳴を上げた。一瞬、癒衣の足が止まった。

 ——やばい。

 先の一撃よりも大きな衝撃が癒衣を叩きつぶした。身体が地面に押しつけらた。歪むことも、陥没することもない地面が衝撃で大きく揺れる。腹に響く思い衝撃音が響いた。癒衣の意識が一瞬だけ飛んだ。


 道の先から届いた衝撃音に香田は思わず足を止めた。

 何が起こったのだろうか。香田はやにわに恐ろしくなった。押さえ込んでいた恐怖心が今の一件で騒ぎ出したようだった。

 実戦でこんな状況下に置かれるのは彼女は初めてだった。情報は錯綜し、状況は常にコントロールの外にある。正常とも混乱とも判断のつかない状態で目的向かって進む。そう言う状況があると言うことは知識としては知っていた。訓練も受けていた。しかし、訓練とは何もかもが違っていた。

 仲間もいない。命令も仰げない。自分一人だけで考えて行動する。その心的負担は訓練とは比べものにならなかった。訓練が軽かったわけでない。ただ実戦が持つ独特の緊迫感や空気が重すぎるのだ。

 香田はいつの頃からか銃を手にしていた。九ミリ口径の自動式拳銃で癒衣と戦うには力不足感が否めないが、力が手の中にあるだけで安心する事が出来た。

 先へ進むとやがて道の先から小さな音が聞こえてきた。何かを叩き付けるようなお音には不吉な響きが篭もっていた。

 癒衣だろうか?

 香田は腰を屈め、拳銃を構え、抜き足で進んだ。進みたくはなかったが、討魔士として前に進むしかなかった。

 音を頼りに角を幾つか曲がるとまた別の環状道路に突き当たった。彼女は壁際に立って顔を覗かせて通り見た。

 これまでと同じような何の変哲もない通りの景色を思い描いていた香田の目に、赤と黒の世界に不似合いな、白と明るい茶色が飛び込んできた。

 見ればそれは白髪の男であった。かがんでいるが高橋よりも身長は高そうに見える。背中は広く、筋肉質であるこ事が見て取れた。一般人ではなく、自分達と同じ世界に生きる人間だ。香田は直感的にそう判断した。

 可能性の問題であった。表性人で身体を鍛えている人間の割合は少ない。格闘家やスポーツ選手がこの場所にいる可能性は無に等しい。反面、討魔士がこの場所にいる可能性は前者の可能性に比べれば高い。

 杉山でもなく、高橋でもなく、ましてや癒衣でもない第三者がこの場所にいるとは予想もしていなかった。異界に要るのは自分達と癒衣だけだと信じていた。その真実が根底から覆されると、人の意識もまた大本から崩れる。

 ——どうしよう。

 香田は異界に来て既に百回以上は呟いてであろう言葉を心の中で繰り返した。

 チームのために最善を尽くす。それ以外にやることはないが、果たして最善とはなんなのだろうか。

 香田の意識が思考の渦に呑まれそうになった時、彼女の脳裏にある言葉がひらめいた。

 香田は音もなく男の後ろに近付いて、銃口を頭に突きつけた。

「両手を頭の後ろにつけなさい」

 仲間以外は敵と思え。業界では金言の如く繰り返される言葉だ。香田はその言葉をずっと乱暴で短絡的だと思っていたが、今ようやく、言葉の意図することを理解した。単純にして明快。一兵士にとってこれほど分かりやすく指針を示してくれる言葉があるだろうか。

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