第二話:四月十三日:結び目

「それで、どうするんだい?」

 十字路を前にして修夜が尋ねた。癒衣ゆいは機械的で冷たさを感じる口調で答えた。

「敵の手の内を調べるわ。どんな能力なのかを知らなければ対策しようがないもの」

 なるほど。と、修夜しゅうやが頷く。眉間にしわを寄せて、睨み付けるような目をしたその顔は難題を前にした学者のように真剣そのものだ。こうして解決方法を考え、解決し知識を自分の物とするのだ。癒衣はできれば少年が一つの結論を出すのを見守っていたかった。しかし、今はその時間すらなかった。

「一先ず影を出して様子を見ましょう。単純に動きに反応しているのであれば、攻撃があるはずよ」

 癒衣の足下にある影の中から真っ黒な猫が出現し、何かに誘われるように十字路の中へと入った。

 二人は固唾を呑んで影を見守った。しかし、何秒経とうが影が攻撃を受けることはなかった。影はそのまま六メートル程の広さがある道を渡りきり、そして霧となって消えた。

 どういうことだ。と、修夜は癒衣を見たが彼女も首を横に振るだけだ。

 癒衣は少し間を置いてもう一度、影を出して十字路に進ませた。影は攻撃をしてくださいと言わんばかりに十字路の中で立ち止まったが、前と同じく何も起こりはしなかった。

 単に十字路の入れば発動するような物ではないのか、それとも気質の塊には反応しないのか。何にせよ調べるのに影は役立たずと言うことになるだろう。

「……私が十字路に出るから、何が起こるか見届けてちょうだ」

 癒衣が意を決したように言った。突然の事に修夜は驚いて、非難めいた口調で返事をした。

「いやだが、危険すぎやしないか?」

「こればかりは仕方のない事よ。十字路はこの後も何度も通ることになるんだから早めに対策を練らなきゃ後に響くわ」

 修夜が悔しそうな顔を見せた。

 仕方のないこと。彼にもそれは分かっていた。しかし、何か起こると分かっている場所に見す見す癒衣を向かわせるのも気がとがめた。

「やるわよ」

 そんな修夜の気持ちを見透かしてか、背中を押すように癒衣が言った。少年は少し迷い、頷いた。

 癒衣の醸す空気ががらりと変わった。目は睨み付けるように細く、身体は膨れて少し大きくなった。四本の足で地面を掴み、頭は低く、屈められた後ろ足は縮められた押しバネの様であった。

 何も見逃すまい。と、修夜が目を皿のようにして見る中、癒衣は十字路の中に一蹴りで飛び込んだ。

 矢のように速く、真っ直ぐに、癒衣の身体は十字路を抜ける。

 修夜はただ愚直に、癒衣に言われたとおり彼女の姿を見るしか出来なかった。

 そうして癒衣を見つめていると、不意に修夜は時の流れが遅くなったように感じた。

 何千分の一秒が一秒にも十秒にも感じられる。あれだけ速かった癒衣の動きが恐ろしく緩慢に見えた。

 向岸は遠く、癒衣の身体はいつまでも十字路の中にある。

 修夜は目を閉じて祈りたいような気持であったが、癒衣の言葉が拘束具の様に彼の目と意識を十字路に向けさせていた。

 癒衣の身体が道の半分を越えたとき、意識の網がごく小さな風切り音を捉えた。

 視線は音に引っ張られるように右手に伸びる道に向けられる。

 修夜の小指の先ほどの大きさの塊が見えた。斜め上から浅い角度で飛んでくるその物体は、癒衣が通り過ぎた場所を通過して、そのまま地面へと突撃した。

 物体が破裂して小爆発が起こった。

 衝撃が修夜の感覚を現実へと突き戻す。薄い壁がぶつかってきた衝撃が修夜の身体を突いて僅かによろめかせた。

「なんだってんだ!」

 一瞬の閃光と大きな音。衝撃は四方に伝わり地面を揺らし、衝撃波が空中を伝って周囲を強かに撃った。

 十字路には爆発があった事実を残す物は何もない。一瞬前と変わらない十字路がそこにあった。

「……癒衣! 大丈夫か?」

「私は問題ないわ! それよりも、爆発の正体が何か分かった?」

 通りの向こうには無傷の癒衣がいた。

「ああ、小さな塊が右から飛んできて地面にぶつかって爆発したんだ……癒衣の通り過ぎた場所を通ったんだが、あと少し足が遅ければぶつかっていたぜ」

「小さな塊……ハッキリとは言えないけど、銃弾みたいなものじゃないかしら。それにしても良く見極められたわね」

「……まあな。それで、俺はどうやってそっちに行けばいいんだ?」

「少なくとも五分はそこで待ちなさい。抜けるときは頭を低くして全力で駆け抜けるのよ……私は真っ直ぐに進むわ。分岐路があれば左に進むから、貴方もそうして」

「どこで待ち合わせられる?」

「分からないわ。異界の結び目の近くとだけしか」

「了解だ」

 修夜がそう答えると、癒衣は彼に背を向けて走り出した。


 癒衣が十字路を通る度に爆発音や甲高い金属音が道に響いた。ある弾は爆発し、ある弾は細かく弾け無数の破片となって彼女を襲う。達の悪いことに、弾は直線方向にだけ動くのではなく、地面に跳ね返って彼女の後を追った。

 しかし、攻撃の多様性がダメージに直結していなかった。癒衣の身体には小傷が増えはジンワリと滲んだ血の跡が点々としていたが、身体を動かすのには何の支障もなかった。

 狙撃という攻撃方法とこの異界の作りが上手く噛み合っていないのだ。敵に与えられた攻撃のタイミングは一瞬で、その上、不定期である。これでは攻撃を当てる方が難しいだろう。この調子なら、死なずに目的地に到着できそうだ。

 心に余裕が生まれるとそこに余計な心配が入り込む。これはここ十数年なかったことだ。

 癒衣は修夜の身を案じていた。弾の種類が複数あると分かった時点で戻って、教えてやれば少しは気も楽になっただろうが、悔やむには遅すぎた。無事に跡を追っていることを願うしかなかった。


 今だ癒衣を仕留めることは出来ず、時間だけが過ぎる。最高の観測点だったが、最良の狙撃点ではなかった。その上、センサーは先ほどからおかしな動作をしている。癒衣が通り過ぎて少しすると、気質の動きを察知した際のアラームがあがるのだ。調べるにも癒衣に掛かりきりで調べいる余裕はなかった。

 場所を移動するか。杉山が今いる場所に見切りをつけ始めていた丁度その時、彼は自分を呼ぶ声がしたので思わず手を止めて、塔の下を見た。

「杉山さーん」

 彼が顔を覗かせるとまた香田が名を呼んだ。

 杉山は銃を地面に置き、呪符で召喚した紐を地面まで垂らした。紐を握り、輪を作って片足を引っかけると、杉山の身体は滑るように地面へと降りた。

「よくここが分かったな」

「近くで銃声がしたので分かりました。癒衣ですか?」

 そんなにも撃っていたのか。と、杉山は心の内で恥じた。こればかりは癒衣の実力が上だったわけではなく、自分の判断が余っていたのだ。

「ああ、ところで香田は高橋と連絡が取れたか?」

「それが全然。杉山さんもですか?」そう尋ねる香田の顔には驚きはなかった。

「理由は分からんが異界が正常に稼働していないんだろうな……で、早速だが癒衣を追ってくれないか?」

「分かりました」

 杉山の依頼は香田の想定の範囲内であった。彼は問題を解明するよりも目的を率先する人間だ。任務に忠実で、それで彼の仕事が回っているのだから文句はないが、香田から見ると暗に仲間に負担を強いている様にも感じられた。彼に何が出来るかという事実は別としてだ。

「よし。銃弾を光らすからそれを見て向かってくれ。で、一つ注文なんだが、背後から追ってくれないか? どうも、癒衣の後に別の反応があるんだ」

「仲間って事ですか?」

「いや、まだ姿は一度も見ていない。だからそれを確かめてくれ」

 それだけ言うと杉山はまた紐を使って屋上に戻った。呪符一つで無限の機能が使える変性がうらやましく思えた。発生が早いと言ってもその利点が最大限に活かされる機会は多くはなかった。香田は杉山に聞かれないように小さくため息をついて、弾道を追った。

 香田が癒衣の元へ向かい、杉山がまた仕事に取りかかると、彼はまた名を呼ばれた。

 杉山がスコープから目を話して声のした方を向くと高橋が立っていた。

「高橋か。音を聞いて来たのか?」

「あっ、そうです。よく分かりましたね」

「少し前に香田も来たからな……異界はどうなっているんだ? お前のやったことじゃないだろ?」

「ええ、すいません。実は自分にも理由が分からなくて……異界内部と壁の状態が不安定になった事だけは分かりましたが、その事で自分の支配下から離れてしまったので、完全には調べられませんでした。補修をして少しは安定しましたが、次に衝撃を与えたら壊れかねません」

「……そうか。ありがとう。癒衣はずっと右を目指しているんだが理由は分かるか?」

 杉山が癒衣の移動経路をなぞるように指を動かした。

「あぁ……異界の結び目に向かっているように見えますね」

「結び目?」

「ええ。異界には必ず結び目がありまして、そこに衝撃を加えると解れて異界の口が開くんです。けど、今の状況でそれをやったらどうなるかちょっと分からないですね」

「最悪どうなる?」

「異界が崩壊し、自分達もろとも消滅する事も考えられます」

 高橋の言葉に杉山は顔をしかめた。

「異界の結び目はどこにある?」

「あの広場です」そう言って高橋は風杜公園であったと思われる、何もない広場を指さした。

「……結び目には仕掛けは?」

「センサーに反応して自動で式神を召喚する回路を設置してあるので、癒衣が近付けば時間稼ぎは出来ると思いますが……自分はは結び目で癒衣を待つことにします」

「俺は広場を見渡せる高台に移動する。戦いになったら出来るだけ奴の足を止めてくれ」

 二人は建物を伝って広場に向かった。後にはエネルギー源を失って輝きをなくした魔方陣だけが残った。


 横切る道は細くなり、途中から攻撃は止んだ。

 状況が自分に味方している。この分なら労せず異界を抜けられるのではないか。癒衣はそんな風に思っていた。しかし、目の前にある光景は否が応でも彼女の足を止めさせた。

 身一つ隠すところのない、真っ赤な野原。流れる気質。野原の最奥。壁際に渦を巻く異界の結び目。狙撃手を相手にするには分が悪すぎる光景だが、この場所こそが癒衣の目指していた場所であった。

 癒衣のいる場所から結び目のある場所までは目算で六百メートル程あった。本気で走れば十秒もかからないが、邪魔が入らない訳がなかった。言ってみればここは異界の本丸、落とされたら全てが終わるのだ。それにしては人の姿が見えないが。癒衣は野原を見ながら首をかしげた。

「よう、待っててくれたのかい?」

「違うわよ。ここが目的地」

 もはや馴染みすらある少年の声を聞いて癒衣は振り返った。

 修夜は彼女の後ろで片膝を突き、壁に背を向けて広場を見ていた。その姿は中々様になっている。実戦の空気がそう見せているのだろうか。それとも自分が勝手に美化しているのか。癒衣は下らないと鼻で笑った。

「この先かい……随分と開けているな」

「ええ。それよりも、攻撃は大丈夫だった?」

「ああ。結局、一度も攻撃が来なかったよ」

 信じがたい話であったが、修夜を頭からつま先まで見て、癒衣はそれが事実であったと認めざるを得なかった。シワもシミもないキャメル色の革のジャケットに黒いジーンズにブーツは新品のまるでようだ。この状況では逆にそれが不気味であった。順調に事が進みすぎている。追い風だと言っても些か過剰サービスにも感じるくらいだ。

「ついてたわね……」

「そうだな。この調子で異界から抜けられりゃ良いんだが」

 癒衣はジッと修夜を見た。些かあり得ない状況を目の当たりにして彼女の心の中に疑念が芽生えていた。目の前にいる少年が本物である確証はない。この状況で傷一つなく、襲われもしなかったと言うのは都合が良いようにも思えた。また、偽物がそれらしい顔をして、それらしい言葉を発して、敵を騙すなんてのは珍しいことではないのだ。

「……さっきの約束は覚えている?」

「約束? 討魔士に手を出すなって約束かい?」

 試すような癒衣の言葉に修夜は怪訝な表情を浮かべて答えた。癒衣はその答えを聞いて安堵したが、疑ったことを少しばかり恥ずかしく思った。外見に惑わされずに疑うことは戦場では正当な行為であるとは頭では理解していたが、気持はどうにも賛同しかねるようだ。

「ええ。ここで何が起こっても……それだけは絶対に守って」

 癒衣は自分の問いが正当であり、単に再確認為だったと念を押すように言葉を続けた。

「……悪いが状況にもよる」

「なんですって?」

「俺は癒衣の身にその何かとやらが起こった時に黙って見ていられるほど我慢強くはない。ここにいるのも申し訳ないと思っている。こんなことを言うのは厚かましいと思っている。けど、その約束を守らせようってんなら、癒衣だって俺が約束を守れるよう努力してくれ。俺が安心して見ていられるよう、鮮やかに敵を出し抜いてくれ……第一なんだいその傷は、なんでお前さんだけそんな風になるんだよ」

 慈しみの篭もった言葉に癒衣は照れくさそうな、それでいて嬉しそうな表情を浮かべたあと、酷く困ったような表情になった。

 目の前にいるのは紛れもなく本人だった。この期に及んでこんなふざけたことを言うのは修夜以外にあり得なかった。しかし、それだけに癒衣は困ってしまった。悲しいかな修夜の求めに応じたくても、応じる事は難しい。

「……ええ。やれるだけの事はやるわ」

 癒衣はうつむき加減に答えた。胸を張って応えたい。その思いは胸でくすぶっていたが、燃え上がらせるのは不可能な事であった。持ち前の冷静さが火種の熱を奪った。そんな彼女の胸中を察したか修夜はただ強く頷いた。

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