第二話:四月十三日:異界

 結界の壁を通り抜けたとき、癒衣ゆいの目の前に広がる景色は、直前のそれとは違っていた。薄水色であった空は白さを増して、雲は日の当たる部分と、陰る部分の差異が縮まり、塗りつぶしたように白い。遠くに見える山は淡い緑色と灰色にクッキリと別れている。

 立ち並ぶ家々はどこか角が取れて精細さを失った。町も脱色したように白みがかっており、世界は色鉛筆画で描かれたように淡い色合いをしている。その中を陽炎に見える半透明で細部を失った人々が行き交う。異界と現実世界とを隔てる壁がひび割れて歪んだレンズのように働き、このような幻想的な光景を映し出すのだ。

 軒を連ねる店に赤茶けたレンガ舗道。人混みにも似た往来。その場所は商店街の中であった。

「異界……とはね。やってくれるじゃない」

 よもや真っ昼間の町中で異界を召還するとは思いもしなかった。

 霧凪社きりなぎやしろ討魔士とうましであれば異界を召還してもなんの問題にはならない。また、異界であれば町に影響が出ない。大胆だが気の利いた、いかにも地元の討魔士らしいやり方だ。

 それにつけても上手いこと追い詰められたものだ。癒衣は討魔士の連携に舌を巻いた。

 逃走経路については常に癒衣に主導権があった。その上で、討魔士は彼女の不確定な動きを読んで先回りしたのだ。

 途切れることのない密な情報連携の賜だろう。

 現代の先回りは昔と比べて格段に精度が高くなった。逃走者がどんなに不規則に動いても、たった一人の追跡者がその情報を全員に共有する事で追跡網は柔軟に形を変えて追い詰める。

 昔は白昼に逃げるのは簡単であった。討魔士は表性人ひょうせいじんの中では術が使えず、使えたとしても、全員で情報を共有するのは技術的に困難であった。

 変性へんせい能力者同士であれば相互通信の呪符が使えたが、呪符が使えない順性じゅんせい能力者はまた別の手段が必要だった。変性能力者と順性能力者の混成部隊の場合、順性能力者に単体で稼働する呪符を渡す事が多かったが、運用も楽ではない。

 結局のところ、討魔士と一言で括っても変性と順性の両者は全く違う規格の存在であった。

 しかし、その差異も科学の発展——コンピューターの発達によって埋められることとなった。変性でも順性でもなければインですらもないコンピューターが統一規格となったのだ。

 今から五十年以上昔。癒衣がまだ人といた時代には既には討魔士達は多くの機械を取り入れていた。そこに至るまでに伝統主義との反目があったのは事実だが、現実と時代の潮流を前にしては伝統もへったくれもなかった。

 当時は世界中の人々が機械に未来や夢を見たのだ。

 数トンもの鉄の塊が空を飛び、数センチの塊が途方もない破壊を生み出す。目に見えぬ電波は音だけではなく映像すら遠地へと送り届ける。そんな奇跡とも悪夢とも思える偉業を目にして誰がインだけに固執できようか。

 現代の討魔士は小型の機械で常に情報を連携している。それがどんな仕組みで働いているかは癒衣には想像もつかなかったが、片手に納まるほどに小さな機械一つに戦況を左右するだけのパワーが秘められている事は理解していた。

 癒衣は素早く建物の影に隠れて周囲を見回した。

 白昼の影絵のようにボンヤリとした街角。いやに早く過ぎ去る人々の流れ。癒衣は目を皿のようにして、怪しい者が潜んでいないかを探った。

 不意に世界がちらついた。異界の壁が安定していない時によく見られる現象だ。

 癒衣はすぐに納まるだろうと気にもかけなかった。しかし、予想とは裏腹にちらつきは更に激しくなり、不快なノイズ音が聞こえ始めた。

 ジジジ、ジジジ。と、ノイズが鳴り始め、ちらつきは更に激しくなる。しまいには周囲の景色が左右から押されるように歪み、危険を予感させるような赤色が滲んだ。

「何だって言うのよ……」

 世界の有様が大きく変わり始めたのを見て、癒衣はようやく異常が起こっている事を認めた。

 彼女が呆然と変化を眺めていると、不意に目の前の空間に小さな、人の指先ほどの裂け目が生じた。

 裂け目からは波紋が広がり、広がる波紋はさらなる波紋を呼び起こす。波紋と空間の揺らぎがぶつかり、混じり合い、より大きなうねりとなって空間を振るわせた。

 裂け目の奥から手が、そして見覚えのあるキャメル色の袖が現れた。

「あの馬鹿っ!」癒衣は思わず怒鳴った。

 裂け目からは彼女が予想した通りの顔が現れた。

 修夜しゅうやの身体が異界に深く侵入するに連れて揺れは大きく、激しくなる。まるで異界が彼を拒絶しているかのようだ。

 癒衣の毛は逆立っていた。修夜の奇跡を実際に目の当たりにして、混乱と恐怖が彼女の胸で渦巻いた。

 化け物。癒衣の中で初めてその言葉が現実味を帯びた。

 修夜の身体が完全に異界に呑み込まれると、空間と空間とを隔てる壁は深海の水圧に負かされた缶の様に潰れた。

 内部が極度に狭くなったが、間を置かずして縮んだ壁は反発するように弾けて空間は広がりを見せた。

 足下がぐらつき、目の前の景色がもの凄い速度で流れる。風が吹き荒び、異界の姿が大きく変わる。癒衣は飛ばされないよう爪を立てて地面を掴んで世界が変化する様を見ていた。ただ呆然と、外と内の変化に困惑しながら見ていた。

 修夜だけがその変動の影響を浮かずに立っていた。

 果てしなく長い一瞬であった。

 揺れも風も収まり、深閑しんかんが支配していた。異界の壁は燃えるような赤色に変わり、ひび割れて、空は夏の夕暮れのように真っ赤に染まっている。遠くに見えた山は深い黒色に染まっている。家々は極端に崩れて基の形を残していない。ある建物は狂ったように伸びて塔のようになり、ある建物は押しつぶされたようにひしゃげていた。

 現実世界と異界を隔てる壁そのものが半壊して、状態が変化した結果だろう。

「随分とおかしな場所に呑み込まれたもんだな」修夜は辺りを見回しながら癒衣に言った。

 辛うじて住宅街であったと推測できる、家屋であったように見える高さもバラバラな壁が道の両側にそびえている。

「貴方が入って来たからこうなったのよ……せっかく討魔士から遠ざてやったのに何考えてるの?」

「……癒衣の心遣いを無下にしたのはすまない。けど、俺だって癒衣が戦うってのに一人で安全なところに隠れているのは嫌なんだよ」

「んな事は知ったこっちゃないの……討魔士に目を付けられたらそこで終わりだって事がまだ分からないの?」

 ため息交じりに癒衣が答える。怒鳴ってやりたい気もしたが、強く言う気にはなれなかった。

「そりゃわかっちゃいるけどよぅ」

 真っ直ぐに見つめてくる癒衣を前に修夜は返す言葉がなかった。口では分かっているようなことを言っているが、修夜は討魔士に対してあまり危機感を抱いていなかった。

 癒衣が口を酸っぱくしてその危険性を説いてはいるが、何の被害も受けていない人間には一種の怪談話の様にしか聞こえていなかった。その危険性が現実となったケースを既に目の当たりにしているにも関わらずだ。

「……物陰に行きましょう。そこで作戦会議よ」癒衣は修夜を一睨みして、歩き出した。


「高橋! 応答しろ! 繰り返す! 応答しろ……くそ、どうなっているんだ?」杉山は赤銅色の狂った世界を前に呟いた。

 癒衣を追って高橋の作り出した異界に入ったまでは良かった。予め決められていた地点に出たのも確認した。しかし、その直後に、異界はなにか悪い物でも食べたかのように変調し、状況が一変した。

 気付けば異界の中には見慣れぬ景色が広がっており、自分のいる場所も変わっていた。

 異界内部では三人がどこにいても会話が出来るようになっていたが、今は誰とも連絡がつかない。一縷の望みを抱いてスマートフォンを取り出したが、無論のこと圏外であった。

「あいつらのことだから上手くやっているだろう。俺は俺の仕事をするまでだ……」

 どうするか考えた後、杉山は自分に言い聞かせるような言葉を吐いた。

 高橋も香田も高校の頃から実戦には出ている。キャリアで言えば六年近い。また、おかしくなったとは言え、この異界は高橋の作り出したものである。敵も癒衣一匹だ。深追いせず、作戦を念頭に置いて行動すれば危険はないはずだった。

 杉山は手近な建物の屋根を伝って、塔のように高く伸びた建物の上に昇った。

 数えきれぬほどの細い道が放射線状に伸びて、無数の環状線がその間を繋いでいる。円形の道に区切られた街区には、高さも大きさも不揃いでおぞましさすら感じる——元々、辛うじて家の形をしていた——壁が並んでいる。

 高橋が普段作り出す異界の倍は広さがありそうだ。杉山は二キロほど向こうに見える異界の壁を見て思った。

 そうして内部を観察していると、狙撃手としての杉山の目が自然と異界の中央部に引き寄せられた。

「あそこを狙撃地点にするのが良さそうだな……」杉山はにやりと笑みを浮かべた。


 街区の上を跳んで進み、程なくして杉山は異界の中央の街区に到着した。

 中心部の街区は風杜かざもり町、酔花ようか町、黄金こがね町の間辺りの町並みに見えた。その辺りは大きな十字路が走っており、南西の方向に風杜公園が広がっている。まったく景観の違うこの異界では位置関係は既に無意味であったが、知っている景色を連想できると、ここがまだ自分にとって遠くない世界だと言う安心感を得られた。

 二階建ての家屋を無理矢理に縦に伸ばした箱の屋上からは異界の隅々まで見渡せた。

 杉山は三メートル四方の屋上に、霊力の籠められた石筆で円形の魔方陣を書いた。八等分線で円を分割し、区切られた三角形の中に回路を描き込む。筆記体とピンストライプを合わせたようなそれは、彼の無骨な手から作り出されたとは思えないほどに美しい。一つの三角形にのみビッシリと回路が描かれているが、残りの三角形には簡略な図柄しか描かれていなかった。

「一弾一殺。身体は陽炎の如く。目は鷹の如く。死は注ぐ雨の如く」杉山は中心部に手をついて唱えた。

 回路が淡く光り、八つの半透明な三角形が魔方陣の縁に現れる。三角形の中には技巧を凝らした目が描かれており、眼下に伸びる放射線を真っ直ぐに見つめている。真実の目に似た、冷たくて大きな瞳は何者も見逃しはしないだろう。

 魔方陣から手を離すと地面との間に粒子が集まり、T字型の棒が構築される。

 長い縦線の部分を握ると横線の上部からごく小さなブロックが噴出し、パズルのように組み合わさり、全長二メートルはあろうかという長いライフルを作り上げた。

 超遠距離対応のスナイパーライフルと監視機能付きのシールド。

 基本的な使用方法は一般的なライフルと変わらないが、機能や性能は超越していた。銃弾は無制限。タイプの違う銃弾を瞬時に切り替えられる。射程距離は——現在では——三キロをマークしていた。細かい点に関しては述べるまでもないが、杉山の好みに合わせてライフルにまつわるあらゆる短所を潰していた。

 本体からは伸びる長くて太い銃身には細かい溝が彫られており文様を描いている。銃口にはシュモクザメの目にも似た横長のマズルブレーキがついている。スコープは本体と銃身と一体化しておりやけに長い。

 全体的に角張ってはいるが平面が多く、一般的なライフルに見られる弾倉や排莢口がない。長い銃身を支える二脚もついていない。杉山が片膝をついて構えると銃のアンバランスさは更に際立つ。しかし、真横に突き出す一メートル五十センチの棒は固められたように動かなかった。

 魔方陣の縁に立つ、三角の板に描かれた目の中には、眼下に伸びる道の隅々までもが鮮明に映し出されている。白飛びも、黒潰れもない露光の平均化された映像は、目に映る全ての物体に適切な露出補正を掛けた結果であった。

 杉山は一つ一つのモニターを順々に見て、全てが正常に稼働していることを確認した。このおかしくなった異界でいつもと同じように動くかが心配であったが気鬱のようだ。映像は全て正常で、後は動きを発見してアラームが鳴るのを待つばかりだ。

 彼は確信していた。癒衣が必ずこの無数に走る放射線状の道を必ず横切る事を。動き回って異界を出る方法を探すことを。


 夕暮れ色をした通りは赤く、そして黒い。真上にある昼の太陽が落とす影は墨で塗りつぶしたように深く、入ればたちまちに姿を呑み込んで隠す。二人は異界から出てきた場所からほどよく離れた街角にいた。もう何度も角を曲がってはいたが、その場で足踏みでもしているかのように町の景色は変わらない。

 左右に並ぶ壁にはドアがあり、窓があり、塀で囲われた庭がある。時たま、二人の近くを陽炎がもの凄い速さで通り過ぎた。

 何がどうなっているのか。ここにいる事が申し訳ないと見えて修夜はしおらしく黙って癒衣の後を歩いていたが、目に映る、おどろおどろしくも蠱惑こわく的な景色に興味が掻き立てられて仕方がないのか、口はむずむずとしていた。

「なぁ癒衣よ」

「なに?」

「あのドアや窓は開かないのか? 家の中に隠れられないのか?」

「あぁ、あれはドアでも窓でもないわ。異界の壁よ。異界は元の世界の外観を透写してそれから形を起こしているの。だからドアノブの様な出っ張りはそのまま壁に反映されていてね。んで、壁の向こう側に元の世界が透過して見えるから、あたかもそこにドアや窓があるように見えているの。どこも開きゃしないわよ」

「そうなのか?」

「ま、ソロソロ良さそうね。この隙間でちょっと作戦会議をしましょう」

 そう言って癒衣は角を曲がった。彼女が入ったのは歪なまでに高い建物と建物の間にある細い暗がりであった。

「どうしたものかしらね……」

「どうしたんだい、藪から棒に」

「貴方のことよ。異界にいるあいだ、貴方をどうしたらいいのか考えがまとまらなくてね。どこかに隠れさせるのが一番良いんでしょうけど……今、ここにいる事は一つの好機でもあるのよね。実戦で学び、経験を積めることなんて滅多にないことだわ」

「危険ってのはどう言った種類のもんだい?」

「私の近くにいることで、私の仲間だと思われるわ。そうでなくとも、貴方の存在が霧凪の討魔士に知られることになるわ。あまりないけど、命を落とす危険性もね」

「知られるってのは確かにそうだが、癒衣の仲間だと思われて何が不都合なんだ?」

「……馬鹿ね。怪異と行動を共にする輩がどう思われるか、少し考えれば分かるでしょう?」やや間を置いて癒衣が答えた。

「そうだったな……俺としてはこの機会に色々と学べるのであればそれでいいと思っているが、癒衣はどうしたいんだ?」

「私は隠れている方が安全だとは思っているわ。町中ならまだしも、ここで顔を知られれば言い逃れは出来ないからね。代償が大きすぎるわ。逃げ隠れする技術は記憶を取り戻す間は必要とする知識だとも分かってはいるけど、それは町中でも学べる事よ……けど、貴方の望みは尊重するわ。貴方がその気なら、私はこの状況を活用してできる限りの事を伝えるわ」

 修夜の顔がパッと明るくなったが、その喜びも束の間であった。彼を見る癒衣の目は厳しく、優しげな雰囲気はまるでない。どこまでも真剣なその表情を見ると修夜の顔も自然と引き締まった。

「ああ」

「一つだけ、絶対に守って欲しいことがあるの……敵には何があっても決して手を出さないこと。手を出したら最後そいつらが所属する組織と敵対することになるわ」

「敵には絶対に手を出さない……か」修夜は二度、三度と口の中で癒衣の言葉を反芻し、強く頷いた。

「……それじゃぁ、異界の結び目を目指しましょう。結び目をほどければ、この異界は形を保てずに崩壊するはずだわ」

「だがどうやってその結び目を探すんだ?」

「気質の吹いてくる方向よ。結び目には隙間があってね、そこから隙間風みたいに気質が流れ込むのよ……御守神社で結界の波動を感じたのと同じ要領で流れを読めるはずよ。けど、この異界の中に討魔士が何人いて、どこから見ているかは分からないわ。注意だけは怠らないで。私の動きを見て学ぶことも大切だけど、貴方が私と同じように動き、経験し、実感を得る方が大切よ」

 癒衣の言葉はもっともであるが故に重かった。自ら進んで戦場に入り込んだ実感が湧いてくる。

 修夜は佐藤の死に様を今になって思い出していた。脳裏に映るのは破裂する自分の頭であったが。

「分かった」

 そう言って頷く修夜の顔を癒衣は真剣に見つめている。彼女は修夜の覚悟を見ようとしていた。

 道を抜ければ外は戦場である。敵の数も分からず、異界の情報もない。分からない場所を分からないなりに進んで、目的を達成しなければならない。修夜にいたっては、姿すら見られてはならないという厳しい条件付きであった。

 生半可な気持で達成できる仕事ではない。二人が真剣に事に当たって、初めて達成の可能を見出せるだろう。

 ——この緊張感が最後まで持ってくれれば良いんだけど。

 癒衣はそう願うしかなかった。


 影の落ちる道を二人は進んだ。会話はなく、空気は重苦しく、息が詰まりそうになる。

 どこから敵が襲ってくるか分からない不安は修夜の神経をすり減らした。しかし、そればかりが自分の神経をすり減らしている訳ではないだろうと彼は感じていた。黙って歩く癒衣の背を見ているだけで、この異界にいる事実を責められているような気がしていた。

 癒衣が怒ることは想定内であったが、実際に怒られるとやはり気が挫けた。どうにか謝ろうとも思ったが、状況はそれを許さなかった。癒衣の言ったとおり、今は目の前のことだけを考えなければならない。前の失敗を蒸し返すような話をすれば、余計に怒られるだけろう。

 修夜は申し訳ない気持をグッと呑み込んで口を固く閉じた。しかし、口が閉じると出口を失った言葉は頭の中で渦を巻き、意識をかき回し始めた。そうして癒衣に対する言葉に動かされた意識は、少年の好むと好まざるに関わらず、このような状況にあるにも関わらず癒衣個人へと向けられた。

 修夜の脳裏には、初めて見た癒衣の苛烈な目が浮かんでいた。

 癒衣に対する印象を決定づけたあの目。修夜の中では佐藤の死よりもインパクトが大きく、今でも鮮明に思い出せた。

 死の際にあっても闘争心を失わず、敵の死を願う。その考えは理解できないではない。しかし、そこまで思い詰めさせる理由は謎であった。

 未来か、それとも過去か。

 修夜は首を振った。癒衣は明らかに孤独であり、後に続く物はなにもない。そんな彼女に見据える未来があろうはずがない。まだ癒衣と出会って一日と経っていないが、彼女の孤独を察するのは容易かった。

 人を寄せ付けず、向こうから近付いてくるのは敵ばかり。そんな状況で他人との繋がりを求めるのは不可能だろう。

 だとしたら彼女は過去のために生きているのだろうか。

 ——だが、何のために? 過去は過去で、今を生きる理由にはならないんじゃないか?

 修夜は言葉を失った。過去のために生きようとしているのは自分とて同じであった。


 癒衣は交差点を見て足を止めた。道を横切るのはこれで四度目で、今のところはなにも起きていない。

 周囲には討魔士の気配はなく、気質の流れにも乱れはない。

 しかし、だからといってこの交差点が安全である言う証明にはならない。

 癒衣は建物の角に立ち、四方の道を順々に見た。

 正面の道は緩やかにカーブして先が見通せない。左手の道は百メートルほど先に異界の壁が見える。右手の道は少なく見積もっても一キロ以上先まで真っ直ぐな道が続いていた。

 どの道も歪な壁に挟まれている。壁には無数の窪みがあり、落ちる影がその奥を隠している。

 行動を開始して優に三十分は経っただろう。討魔士は姿を見せず、どこで動いているのかも分からない。

 戦場の霧はいまだ深く立ちこめて、中にいる者を惑わせる。

 彼女はこの状況に不安を抱いたが、討魔士も同じように不安を抱いているだろうと考えいた。

 異界に変化が起こったことで力関係は互角の状態に変わった。内部構造が変わったことで情報はゼロになり、強制的に移動させられたことで体勢もバラバラになった。討魔士は癒衣と仲間を一度に見失い、自分達の支配下にあった異界が手を離れたのだ。心的な衝撃は小さくはないはずだ。

 後は討魔士達がどれだけアクシデントに強いかに掛かっていた。それによって自分達に与えられる時間が変わってくるのだが、敵の数や強さまでは想像しようもなかった。

 見た限りでは、付近に怪しい影はなかった。

 ——ここは大丈夫そうね。

 癒衣は角から頭を出したまま、足に力を入れて駆ける体勢を取った。

「……なぁ癒衣?」

「んっ?」

 地を蹴って跳ぼうとした直前、修夜が声をかけてきた。滅多に聞かない、弱々しい口調に思わず癒衣は振り返った。

 遠くでターンと言う音が響いた。

 振り向いた癒衣の髭を何かが掠めた。次の瞬間、耳を劈く衝撃音と共に地面が震えた。

 癒衣は無我夢中で角から顔を引っ込めて、十字路から飛び退いた。

「……」

 二人は言葉も忘れ、息を殺して十字路を注視した。しかし、第二波、第三波は来なかった。

 癒衣の心臓の動悸は早鐘を打ち、事が全て終わった今更になって激しく警告を鳴らしている。

 何かが起こる前と後では景色は寸分の違いもない。今の出来事が夢幻とでも十字路が言っているようであった。しかし、耳の中で反響する、歪んだ衝撃音は確かに十字路で何かが起こったことを示していた。

「攻撃……だよな? けど、一体何だったんだ?」

「分からないわ」癒衣は攻撃直前に見た通りの景色を思い返しながら言った。

 見通しの良い、長い通りを挟むようしてそびえる建物群。無数の窪みとバルコニー。通り全体に落ちる、邪悪を隠す深い影。

 姿を隠す場所は無数にあった。ただ、癒衣も自分が安全だと思える程度には確認していた。

 何が起こったのかは今の段階では絶対に分からないだろうと癒衣は確信していた。

 インが絡むと途端に物事は複雑化する。不可能と思われるあらゆる可能性が目の前に突き出される。受け側はそれらを考慮し、小さな事実を積み重ね、相手の手の内を暴く必要があった。

「……ただ、討魔士が私達を見つけた以上、これまでみたいに悠長に進むわけには行かないわ。多少の危険は覚悟で、先を急ぐわよ」

 討魔士に囲まれるような事態は避けなければならなかった。包囲されたが最後、戦わずして逃げる道は潰える。

 よしんば戦ったとしても癒衣だけであれば大した問題ではなかった。彼女には霧凪から逃げると言う手段が残されているのだ。

 しかし、修夜は違う。

 癒衣は修夜の存在が露顕したかが気掛かりであった。少年の存在が知られたところで状況が劇的に変化するわけではないが、異界を抜けた後の事を考えると気が気でなかった。彼の今後がどうなるか手に取るように分かるだけにその不安は強い。

 修夜は意外と冷静であった。彼は黙って癒衣の言葉に耳を傾け、目の前の事態を受け止めているように見える。癒衣にはその態度が歯がゆくもあり、頼もしくもあった。

「……俺の姿も見られたと考えても良いのか?」

「それは……」心を見透かされたような鋭い問いに癒衣は言葉に詰まった。

「可能性はなきにしもあらずと言ったところよ。貴方に対して攻撃がなかった理由も不明だし」

 理由はいくらでも考えられる。伏し目勝ちに話す癒衣の言葉は弱々しく、顔には心の内にある不安がそのまま浮かんでいた。

「まぁいいさ。今は目の前のことに集中しようぜ。そんな顔してたんじゃ、ここから抜け出すことも出来ねえよ」

 修夜が力強く微笑んだ。癒衣に全幅の信頼を寄せている。笑顔からはそんな心情が読み取れた。

「……そうよね、ごめんなさい」癒衣は思わず修夜の目から顔を逸らした。

 だがその仕草、その言葉とは裏腹に癒衣の顔には力強さが戻っていた。

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