第二話:四月十三日:世界変転
古さと新しさが混在する月下坂町を離れると景色は一気に近代化を果たす。黄金町や季音町は低層住宅がひしめき合って狭っ苦しいが密度に相応しい活気があった。
風杜町まで来ると町はまた違った顔を見せる。道は広く家々の並びは整然として家屋の形も揃えたように一緒である。低層住宅は低層住宅の区画に納まり、高層住宅は高層住宅だけで固まって建てられている。一つの街区を一つの方針に沿ってデザインし、作り上げたようであった。
町を歩いている間、癒衣は討魔士に見つからずに生きる知識や技術を話し伝えた。
霧凪市の地理関係、霧凪の討魔士の特徴や見回りの経路、危険な場所と安全な場所と言った、霧凪に限定した地域情報。人々に紛れ、目立たない為の立ち居振る舞いと言った全般的な知識。討魔士の見分け方に、見つかった場合の対処方法と言った専門的な知識と彼女の話は多義に渡っていた。
癒衣の説明は簡潔であったが、彼女の理解をそのまま言葉にしているので、聞いただけでは理解しづらい部分が散見した。しかし、修夜は何度か質問を繰り返して彼女の伝えようとしている事を理解するに至った。
癒衣にしても修夜にしても我慢と忍耐を要する時間であった。
ただ、幸いなことに修夜も癒衣も馬鹿ではなかった。初めこそ
そうして修夜は乾いた地面が水を吸うかの如く癒衣の教えを吸収した。癒衣はその事が誇らしくあったが、理由を思うと手放しには喜べない部分があった。
下地が修夜の理解を助けているのだ。一を聞いて十を知ると言うが、修夜の理解は十を知って二十を思い出すと言った具合で、知識が知識を呼び覚ましているようであった。今となってはそれが何に根ざしているのかは分からないが、記憶を失う前の修夜は、身を隠すと言う行為が身近であったのではなかろうかと癒衣は思った。
どんな過去を背負っているのだろうか。過去を思い出すことが本当に良いことなのだろうか。思い出した後に何が待っているのだろうか。癒衣は修夜の将来について心配せずにはおられなかったが、口に出すことはしなかった。
口に出せば一時的な道連れと言う、今の関係が変わってしまう切っ掛けになりかねなかった。私には関係のないこと。その立場を崩すべきではない事を彼女は理解していた。
「ここは夕日通りって言ってね、討魔士との繋がりが強い店が並んでいるのよ」
通りが一望できる商店街の入り口に立って癒衣が言った。道幅三メートルほどの細い通りの両側には店がひしめき合っている。古めかしい雑貨屋に、古びた不動産屋に戸口が小さくて専門的な雰囲気の薬屋と言った、近寄りがたい門構えの店もあれば、強い日差しが似合いそうな南仏風な白壁のカフェに、落ち着いた雰囲気の小料理屋、開けっ広げで外にまで物を陳列したアクセサリー屋と言った店もあった。
人通りは多くはないが、極端に少ないわけでもない。中央をの真昼通りと比べて大きな違いがあるわけではなかった。
ごく普通の商店街。表と裏の境界であると聞かされた今でもそれ以上の感想は浮かんでは来なかった。もっとも、一目見て分かるようでは擬態としては失格なのだろうが。
「通りでも見てきたら?」
「癒衣はどうするんだい?」
足を止めて立ち並ぶ店を順々に見ていると、癒衣が背を押すようなことを言ったので修夜は思わず聞き返した。何かおかしいことを言っていた訳ではないが、彼女の言い方に引っかかる物があった。
「ここで待っているわ。私と一緒にいるところを見咎められても面倒なだけよ」
「……そうだな。それじゃ、ちょっと見てくるわ」
商店街なら見咎められる可能性も高いだろ。討魔士でなくても店の人間から伝え漏れる可能性もあるのだ。修夜は納得したように頷き、彼女の言葉に従って通りを見て回ることにした。
杉山、高橋、香田の三人は商店街を中心に癒衣を探していた。
杉山と高橋はそれぞれ商店街外周を、香田は商店街内部を見て回っていた。誰か一人が癒衣を発見した時点で連絡が入る手はずになっているが、二時間探した今でも誰からも連絡はなかった。
別の場所を探した方が良いのでないか。そんな疑問が香田の胸に浮かんだが、他に癒衣の現れそうな場所を知っているわけではなかった。癒衣と言う化け猫は霧凪ではちょっとした有名人だったが、いざ探そうとなると、手がかりとなる情報は全くといって良いほどなかった。
商店街の中央を走る真昼通りの人の流れは緩やかである。あと二時間もすれば昼休みの会社員やらが雪崩れ込んでざわつくだろう。シャッター街が取り沙汰される昨今だが、この風杜商店街はこの町に力強く根を張って生きている。
香田はその活気に誇りではなく苦手意識を抱くことが多かった。それは何も人混みが苦手だからと言うだけではないだろう。
人の流れを外れて夕日通りに通じる路地に入った。路地は一日の僅かな時間しか日が射さず、昼間でもヒンヤリしている。その中を通ると香田の気持ちは自然と切り替わった。
香田が出たところは夕日通りの中程であった。真昼通り比べると人通りも少なくて見通しが良い。彼女はそれとなく目を動かして通りの様子を見た。この二時間ほどでもう飽きるほど繰り返した動作であったが、今回だけは違った。
香田の視界の端に白い塊が入った。突然の事に彼女の心臓は一瞬だけ強く跳ねた。
香田は探していることを悟られまいと、自然な足取りで正面にあったアクセサリー屋の展示品のところまで行った。彼女は僅かに腰を屈め、陳列してある商品を見る振りをして目だけを動かして癒衣を見た。
商店街の入り口。住宅街に通じる横断歩道を背にして、三毛猫が三つ指をついて座っていた。その顔を見たとき、視線と視線とがかち合って思わず香田は固まってしまった。
——気付かれている?
手の平にじわりと汗が滲む。
香田の見ている前で癒衣はわざとらしく、ツイと身体を翻し、悠々とした足取りで商店街の外へと歩き出した。その姿を見た香田は思い出したかのように動き出した。
タッ。と、地を蹴る音がして修夜は思わず振り返った。
黒色のスーツを着た女の走る背が見えた。しかし、修夜の目を奪ったのはその女ではなかった。彼女の背のずっと先、商店街の入り口の方では癒衣が今まさに建物の影に消えるところであった。
——癒衣の奴どこに行くつもりなんだ?
修夜は怪訝そうに消える癒衣を眺めていた。通りの中を女が走り抜ける。人々は一瞬だけその女を見たが、またすぐに別のことに目を向ける。それは修夜も同じであった。
通りの入り口に着くと、女は癒衣の後を追うように角を曲がって行った。その姿を見た修夜の目が鈍い光を放った。彼は癒衣が異動した理由が分かったような気がした。
——あの女は
修夜は素早く周囲に目配せをし、怪しい人影がないのを確認して駆け足で二人の後を追った。
討魔士が町に出ていることは商店街に近付いてからすぐに気付いた。昼の賑やかさに惑わされそうになるが、商店街の空気は朝方のそれとは違って空気は不穏であった。
商店街に戻ってきた瞬間から、癒衣は討魔士の気配を探りつつ、修夜を自分の傍から離れさせるタイミングを見計らっていた。
後ろを見れば討魔士の若い女が後を追ってきていた。ここまで堂々と町の中で動くところを見ると、霧凪の討魔士と考えて間違いはないだろう。
昨晩の一件を受けて霧凪の社が動き出したのだ。管轄で討魔士殺しが発生したのだから当然だろう。その事を考えると癒衣の顔には自然と渋面が浮かんだ。身の危険を察知すれば尻尾を巻くって町を離れるのが常であったが、今は霧凪を離れられない理由があった。
商店街を離れて住宅街の中を走っていると突然、前方の十字路に男が現れる。坊主頭にがっしりとした体躯。細い目は射貫くように癒衣を睨んでいた。即座に討魔士だと看破した癒衣は近くにあった横道に入った。
癒衣が逃げ込んだ幅一メートル半ばかりの細い道の先にあったのは、高さ数十メートルもあろうかという壁であった。壁は三方を取り囲んで袋小路を作っている。抜け道があると思っていた癒衣は突然の異変に混乱して足を止めたが、それが幻覚だと理解して正気を取り戻すのも早かった。
癒衣は幻覚の向こう側にあるはずの家の屋根に飛び移ろうと地を蹴った。彼女の身体は飛鳥のように空を舞うかと思われたが、そうではなかった。飛び上がった癒衣の身体はそのまま中空に吸い込まれるように消えてしまった。
跡には球形に波打つ波紋だけがだけが広がっていた。
「……上手くいったな」
杉山と香田が路地に入ってきた。辺りの景色は癒衣が目にした袋小路ではなく、家と家に挟まれた細い路地に戻っていた。
二人は癒衣が消えた場所に足を踏み入れると、癒衣を呑み込んだ異空間の入り口が揺らいで中空に波紋が生じた。更に一歩進めると杉山の身体は音もな空中に吸い込まれて消えてしまった。杉山に続いて香田もまた同じように消えてしまった。後には何の変哲もない路地、そして塀の角で息を殺して見ていた人影だけが残った。
二人組の男女が姿を消したのを見届けてから修夜はその場所に駆け寄った。数メートル先にはまた道路がある。左右の家は窓を閉じきっていて家の中に人がいるかは定かではなかった。
どこにでもあるただの路地だが、この場所で三人が消えた。おかしな事は朝方に十分体験したつもりだったが、馴れたと思うと更にと更におかしな事が起こるものだ。しかも今度は御守神社と違って悪意に塗れていると来ている。
昨日の一件が原因だろうが、今となっては何もかもが遅かった。今は討魔士を殺したことを悔やむよりも、癒衣の手助けをすることが大事だ。修夜は暗闇の中で物を探すようにして、手を前に突き出して慎重に先へと進んだ。
何歩か歩くと、指先に微かに冷たい物が触れた。波のない水面に粉雪が積もって幕を張った薄氷のように脆いそれは、指を押せば押しただけ彼の指を呑み込んだ。
触れた指を中心にして中空に波紋が広がる。接触面が大きくなるほど波紋は大きくなり、ホワイトノイズのような耳障りな音を立てた。波紋の向こうにある指は不透明な膜を通したようにボンヤリとしか見えない。
目に見えない薄い壁あって、別の空間と空間とを区切っているのだ。修夜は消えかけた自分の指先を見て思った。
何があるかは知らないが、癒衣や討魔士がこの先にいる以上、進む以外の選択肢はなかった。
自分がこの中に入れば彼女はいい顔をしないだろう。修夜の脳裏に怒気を帯びた癒衣の顔が思い浮かんだ。
癒衣は自分が面倒毎に巻き込まれることを良しとしない。今後の事を考えれば癒衣が全面的に正しいことは修夜も分かっていた。しかしそれでも、癒衣が面倒毎に巻き込まれているのに自分だけが安全な場所にいると言う状況を受け入れることは出来なかった。
癒衣が自分の為に何かをしてくれるのであれば、自分もまた癒衣のために何かをするべきである。修夜はそう思っていた。
修夜は意を決してエイとその壁を潜り抜けた。
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