第二話:四月十三日:謎
水色の空には薄い綿を伸ばしたような薄雲が模様のように浮かんでいる。柔らかい朝日が地上に降り注いでいるが空気は冷たく、風が吹くと思わず首をすくめたくなるほどだ。人の往来は穏やかでいかにも朝と言う感じがした。厚手のコートやジャンパーが目立つところを見ると四月も半ばだが、霧凪に春が訪れるのはまだ先のようであった。
癒衣は正面のり口が一望できる路地に座って修夜が現れるのを待っていた。
昨晩は生きる術を教えると言ったが、今のところ何を教えて良いのか決まっていなかった。技術を伝えるという行為は癒衣の長い人生の中でも初めての経験であった。彼女の立ち位置は常に誰かの横か、後ろであって前ではなかった。しかも、それはだいぶ昔のことで、今ではひとりぼっちだ。
自分が知っている知識且つ、修夜に必要な事。ただしインを除く。と言う条件では、彼女が予想すたよりも大分教えられることが少なかった。パッと思いつくのが安全と危険の見分け方。逃走術。身を隠すのに適した場所の三つである。
他に何があるだろうか。癒衣が知恵を絞って首をかしげると不意にぐぅ腹が鳴った。昨日からまともに食事をしていなかったことが今になって思い出された。
——そういやあの子のご飯はどうすればいいのかしら。
猫であれば飯を食うのも寝床を見つけるのは簡単だが、人は飯を食うのにも、寝るのにも銭がかかる。しかし彼女が知っている銭稼ぎと言えばたかが知れている。討魔士の仕事に、ゆすりとたかり、それに盗みだ。なんにせよ危険な手段に変わりはない。人間が合法的に銭を稼ぐ方法なんて知らなかった。
——ま、どうにかなるでしょう。
食べられる小動物や野草は意外と多いのだ。
——あの顔なら野生動物を獲るよりパトロンを獲る方がずっと簡単でしょうけど、それは趣味じゃぁないわね。
なんと下らない事を考えたのだろう。と、癒衣は苦笑いを浮かべ、また商店街に目を向けた。
人の往来を見ていると癒衣はその内に白い頭を見つけた。周りより頭一つ抜けた少年の姿は癒衣のいる路地からでも目立って見えた。身長は百七十後半と言ったところだろうか。年齢は恐らくは見た目からして十六から十八歳。その年の頃の東馬と比べると随分と背が高い。東馬の方が大人びていたように記憶していたが、普通の子供ではない事ではどちらも同じであった。
そんな事を考えながらじろじろと修夜を見ていると、癒衣は彼の表情が何処か浮かない様子であることに気付いた。空腹か。それとも寝不足か。癒衣は朝日の加減で影がちらつく彼の顔から内心をくみ取ろうとした。
「おはよう」
人の波を抜けて修夜が路地に入ってきた。路地に注ぐ日の光が彼に遮られて辺りがほんの少し薄暗くなる。
「おはよ。浮かない顔ね」
「ん……ちょっとな」
「どうかしたの? よく眠られなかったのしら?」
「そうだが、ちょっと違うな」修夜は言い辛そうに首をかしげて答えた。
「……複雑そうね。場所を移動しましょうか。商店街で猫とに相談なんて怪しまれるだけよ」
癒衣は修夜の背後に目をやった。日の光に照らされた長方形の空間を人々が行き交う。彼らがこの路地裏に目を向けることはないだろうが、何事も注意をして損はない。また、これは癒衣の持論ではあったが、相談という物は時と場所を選ぶのだ。この場所は相談にふさわしくはなかった。
風杜公園は朝日に青々と輝いていた。公園の中を通る遊歩道を人々が商店街を目指してソロソロと歩いている。二人は歩道からやや離れた見晴らしの良いベンチに座り、細い列を作る人々を暫し眺めていた。
修夜は自分達に気を向ける者がいるか見ていたが、誰も目を向けるようなことはなかった。人々は正面を見て黙々と歩いているばかりだ。中には手に持ったカラフルな板を一心に見つけるか、紐のついた耳栓で耳を塞いで意識を内に向けている者も見受けられた。
彼らは目的を持って歩いているのだろう。昨日と同じ道を辿り、昨日と同じ場所を目指しているのだ。修夜にはそれがうらやましく思えた。
「それで、何があったのかしら?」
人々を眺めていた修夜の気を自分に向けさせるように癒衣が言った。
「悪い悪い。つってもそんな大げさなことじゃねえんだ。昨日、別れてからまったく腹も空かないし、眠気もないんだ。トイレにも行きたいとかそんな欲求もない。緊張や興奮で意識が昂ぶっていると言っても限度があるだろう?」
「そうねぇ……訓練によって食事や睡眠、諸々の生理現象を抑えることは可能よ。体内で必要な栄養素を作り出せるようになったり、食事以外の方法で外世界から栄養素を取ったり……数瞬の眠りで数時間分の効能を得るってことも出来なくはないわ」
「それじゃ、俺の身体もそう言う状態にあるってのか?」
「そうは言ってないわ。あくまで一例よ。後は半気質的な状態ね。霊体を実体化させて肉体を再現していると眠ったり食べたりする必要がないそうよ。人間のように見えるけど、中身は肉と骨ではなくて手で掬えそうなほど濃厚な気質エネルギーだからね」
「……化け物じゃないか」
「半気質生命体。そう言った生態系に属する立派な生き物。肉体を持った生物が全てじゃないのわ。この世界には肉体を持った物質的な生物と肉体を持たない気質的な生物。そしてその中間に位置する生物が混在しているの」癒衣は子供をしかるように首を横に振りながら言った。
「それで、俺はどっちに当てはまるんだ?」
「さぁ? 指先を切って血が出れば肉体があるって言って良いでしょうね……試してみる?」
癒衣の鋭い目を見て修夜は答えに窮した。彼もその事を知っておいた方が良いとは思ったが、今すぐに試す勇気は発揮できなかった。目の前のことで既に困惑していると言うのに、更に困惑する情報を上乗せするような行為は願い下げだ。
「……癒衣はやっぱり試した方が良いと思うか?」
「ええ。後に回す理由はないわ」恐る恐る聞く修夜に対して癒衣は毅然として答える。
その答えに修夜は困ったように唸った。
変えようのない事実の上に存在してる分際で、その事実を知ることを恐れるとはどういう心持ちなのだろう。と、癒衣はあきれたように目を細めた。癒衣も人間の心についてはだいぶ知っているつもりであったが、人々がよく口にする「知るのが怖い」と言う気持はどうしても理解できなかった。
「何を恐れているのかは知らないけど、事実を事実として受け入れることが大事よ」
「そうかも知れないけど、もしかしたら俺は俺が考えているような存在とは全く違うって事かも知れないんだろ?」
「正味半日の記憶しかないのに、その上にどんな自分像を作り上げたって言うのよ。何を知ったって崩れるものは大した物じゃないでしょうに。今は想像の自分像を守ることより、今の自分を認識する方が大事なんじゃない?」
「……まぁそうだけど」
「貴方は人間ではないと言うことに恐れや嫌悪感を抱いているようだけど、怪異なんてのは所詮は大昔にどこかの誰かが作った評価の内の一つよ。人間はどこまで言っても人間で、猫はどこまで言っても猫に変わりはないわ。その上で自分が何者か決めるのは当人の心一つで、誰かがそう言ったからじゃないわ」
「けど半気質生命体は明らかに人間じゃないだろう? だって肉体がないんだぜ?」
「下らない偏見ね……貴方が人間の何を知っているって言うの? 既に表性人と裏性人って言う二種類の人間がいるのにどうして半気質生命体が人間じゃないだなんて言えるのかしら。一応、半気質生命体も裏性生物……つまり、大きく分ければ理性人も気質生命体も同じ裏性生物ってことね。なんであれ人間は人間よ。そんなことより一個人といて自分が誇れるか否かを考えなさい。人間にだって唾棄すべき悪人もいるし、怪異にだって仏様みたいな人はいるわ。なんであるかより、どうあるか。それが大事なの。分かった?」癒衣が語気も強く言った。
癒衣にそこまで言われるといよいよ拒否は無理だと悟ったと見えて修夜は口をへの字に曲げて目を伏せった。癒衣はそんな修夜の顔を期待混じりの目で見つめていた。
「そうだな……その通りだ。悪かったな。グズグズ言って」
「いいのよ。言いたくなる気持は分からないでもないわ」
「それじゃ、一つ試してくれねえか?」
修夜は前に右手の人差し指を突き出した。癒衣がカミソリのように薄く、細い刃を想像すると差し出した人差し指の膨らんだ部分に音もなく一筋の切れ込みが入った。その奥にには光を呑み込むような漆黒が広がっており、その闇の中には虹色の光彩を放つ無数の点が浮かんでいた。二人は細い切れ口から覗く大宇宙にも似た景色を前に思わず息を呑んだ。
「血は……流れないな。半気質生命体である証拠と思って良いのかい?」
「ええ。痛みはどう?」
「いや、ない」修夜は親指の腹で傷を摩りながら言った。
指先がこすれるようなくすぐったい感覚はあるが痛みはない。切り口が開いたその瞬間にも痛みらしい痛みは感じなかった。彼は親指のつま先で傷口をめくろうと切り口に爪を立てたが、傷は彼の意に反して左右から押されるようにピタリと閉じてしまった。傷痕はなく、切られる前の指先が残った。
「痛覚もないのね」
「それは良いことなのか? それとも悪いことなのか?」
「どうなのかしら。痛みで守るべき肉体もないんだから、別に良いことなんじゃない?」
「随分と投げやりに言ってくれるじゃないか」修夜がムッとして言った。
「貴方が不都合を感じなければ良いことだと思うわ。それよりも今は貴方の存在がどうやって維持されているかよ。食欲もない、眠気もない、痛覚もない。正直、それは些細な問題だわ」
些細な問題だと一蹴する癒衣の顔を修夜は諦めたような面持ちで眺めていた。気持を慮るつもりはまるでないらしい。だが、ここまで言い切られると逆に心地よいという倒錯的な快感や、その通りだと納得してしまう不可思議な説得力があるのも事実であった。
「どうやって維持しているか。か……肉体を持った生物と同じ方法で良いんじゃないか? 食欲の有無と実際に飯を食うことは違うだろう。何か食えば存在を維持するための栄養がとれる気もするが」
「そうねぇ……けど、外見だけを実体化した箱にその機能が備わっているかは疑わしいわ。どこまで忠実に人間の肉体を再現しているかは分からないけど、指の傷を見た限りではそこまで忠実には人間の肉体を再現していなさそうじゃない?」
「そうだな。皮膚の下がああなってるのを見た限りじゃ」
「ええ。だから私は二つの可能性があると思ってるの」
「また二つかい」修夜は肩をすくめる。
「細かく突き詰めれば何十通りにもなるけど、聞きたくはないでしょう?」癒衣はそんな少年をなだめるように優しい口調で答えた。
「ごもっとも。それで、その大きく分けてて二つある可能性ってのは?」
「外部から気質を取り込んで霊力に転換して動力に使っているか、内にため込んだ霊力を動力に使っているかよ」
「前者ならよし、後者なら最悪だな」
修夜はフンと気炎混じりに言った。前者であれば失った分は補充できるが、後者であればいずれ底をつく。その時にどうなるかは修夜にはなんとなく想像がついた。身体を維持するだけのエネルギーがなくなれば死ぬだけだ。
「そうね。現状では貴方がどっちなのかは分からないし、調べようもないわ」
「こればかしは調べる方法がないのか……それで、俺は元々肉体を持っていたと思うか? それとも、生まれた瞬間から半気質的な存在だったのか?」
「私は貴方は元々は肉体を持って生まれたと思うの。だって、空腹や眠気がない事を変だと感じるは、それがあって当然だと感じていたからでしょう?」
元々持たない感覚が存在しない事実に疑問を抱くことはないだろう。知っているからこそ、持っていたからこそ、失うことで猛烈な痛みを伴う喪失感を覚えるのだ。その痛みは記憶喪失とて消し去ることは出来ない。例え忘れたとしてもそれは空虚な感覚として心に残り続けるだろう。
「それもそうだな。って事は俺は記憶の他にも、肉体を取り戻さなきゃならないのか?」修夜が面倒くさそうに言った。
「そういうことになるしょうね。方針としては……昨日の繰り返しになるけど、インを使わないことね。ただ普通に生きているだけなら、そんなに霊力を消耗することはないでしょうから」
「命の期限はどれくらいだと思う?」
「……相当に長い気がするわ。昨晩の術の後でこれだけピンピンしているんだもの。まぁ、記憶を取り戻すまでに霊力が尽きることは絶対にあり得ないと思っておけば良いわよ」
一変して真面目な表情を見せた修夜の問いを受け、癒衣は考えるように視線を中空に移した。癒衣の瞳は彼女だけに見える何かを眺めているように輝いている。そうして暫し視線を泳がした後、彼女はまた不意に正面を向き直って言った。
「曖昧だな……しかし、終わりの見えない目標だけが勝手に積み上がっていくな。記憶に肉体。普通はどっちかだろう?」
「普通はどっちもないのよ」修夜の軽口に癒衣もまた軽口で返した。そんな癒衣に修夜はそれはそうだと言いたげに微笑んで見せた。
「さて、本日一番目の課題は終わったわけだ。次はどうする?」
「話す前まではお金の稼ぎ方とか、盗み方でも教えようと思っていたけど必要はなさそうね。なんたって生きるのにお金が必要な身体をしていないんだから。だったら、御守神社にでも行ってみない? 初めに目覚めた現場だし、昨晩は見落としたなにかがを見つけられるかも知れないわ」
「そうしよう」修夜はそう言ってウンと勢いよく起ち上がった。
癒衣を先頭にして二人は人の流れに乗って公園沿いの道を駅に向かって歩いた。公園に表面を向ける店はまだ閉まっているが、中からは活気が感じられた。もうあと何時間かすれば店も開き、この通りは華やぐのだろうか。修夜はシャッターが上がり、人で溢れる通りのことを想像した。
人の流れ込む駅舎を抜けて、人の流れに逆らってしばらく歩くとやがて人の姿は少なくなった。入り組むように広がる住宅街を抜けると、広い道路にぶつかった。そこまで来ると辺りには家もまばらで、鬱蒼とした林が目立つ、閑静な郊外の町は初めて癒衣を見たその場所に間違いはなかった。
そこからは修夜が先頭に立って癒衣を案内する形となった。幹線道路を道なりに真っ直ぐ進み、住人しかその存在を知らないであろう支線に曲がると集落にぶつかる。昨晩は闇夜で家の形などほとんど見えなかったが、家はどれもそこそこに新しく、小綺麗であった。集落の奥へと進むとやがてひっそりと佇む鳥居が見えてきた。
「これが御守神社とやらね」癒衣は煤けた鳥居を一睨みした。
まっすぐな丸太で組まれた、朱を塗っていない素木鳥居は高さが三メートルほどでただ素朴の一言が似合う。青々とした葉を茂らす枝は鳥居にもたれかかり、今にも呑み込んでしまいそうなほどだ。柱の間には急勾配の階段が壁のように見えている。階段の上に伸びる枝葉なく、鬱蒼として陰気な鳥居とは違って日の光にキラキラと輝いていた。
「……本当にここなの?」
「ああ、階段の上に広がる森のどこかだ。どうかしたか?」
「この鳥居の奥から気質の大きな波を感じるのよ」
「波? なんだいそりゃ?」
「気質の波……波動よ。結界や異界と言った世界と世界を区切る境界線が発するの」
そう言う癒衣の耳にはドォォォ、ドォォォと地下の奥深くから響く巨人の鼓動にも似た低い振動が聞こえていた。結界の壁の厚さに応じて音は大きく、強くなる。これだけの重さの音を出すのはどれだけ巨大な壁なのか癒衣には想像もつかなかった。その音の中にいると癒衣の足も震え来るようだった。その奥にあるものを想うと空恐ろしくなった。
「私も曰く付きの神社仏閣はいくつも見たけこんな音をだす結界を張っているのは初めてよ。こんな馬鹿みたいな結界を張る事なんてそうないわ」
「そうかい。だが俺にはよく分からんのだ」修夜は首をかしげた。
「そうよねぇ。一つどんなものか試してみる?」癒衣も彼と同じように首をかしげて目を細めた。
「いいのかい? それってインだろう?」
「ええ。基礎だけどね……これくらいの事は出来なきゃ、討魔士から逃げも隠れるできやしないから」
修夜は昨晩のことは忘れていないぞと笑って見せた。癒衣は少しばかり照れくさそうに、確信を持った目でそう言った。
癒衣にとっても悩ましい決断であった。
インを意識しない。癒衣は今もそれが修夜にとって最良の選択であると信じていた。しかし逃げるのには誰よりも相手を先に見つける必要がある。隠れるのには見える人間の目を知る必要がある。それはインを知らなければ出来ないことであった。
「結局のところ、インを知らなきゃ生きていけないのよ……でも、そんなに多くを教えるつもりはないわよ」
「分かってるさ。誰かを殴っちまったら終わりなんだろう」
「ふふ。分かった風なことを言うじゃない」
「まぁな」
「目を閉じて、腕を前に出して、意識を静めなさい」
「分かった」修夜は癒衣に言われた通り右手を突き出して目を閉じた。
癒衣は頭部に霊力を集中させる。すると気質の流れが可視化された。修夜の肉体は色白の薄らとした靄に包まれている。そこから幾本もの糸のような細い筋が天に向かって流れ落ちている。修夜を包む靄や立ち上る白糸は霊体に触れて感化された周囲の気質であった。一般にはこれを霊気と呼んだ。
彼が二度、三度と深呼吸すると流れる霊気がピタリと止まる。霊気の色は薄まって見えるか見えないかの境地にある。霊体が静まりそのエネルギーが周囲の気質に伝わりづらくなった結果であった。上手いものね。と、癒衣誇らしいような、それでいて恐ろしいような複雑な気分になった。霊体を静めるのにも知識や訓練が必要だ。やれと言われてハイそうですかとできる物ではない。
「突き出した手の平に集中して。何かが押していることを意識するの。肉体で覚えている感覚は霊体の感覚にも転化しやすいわ」
「分かった」そう言って修夜は手の平に神経を集中させた。
そうしていると手の中を流れる血液の動きがやけに大きくなってきた。微弱な電気を流されたようなジンジンとした感覚が皮膚の内側をゆっくりと這い回る。次第にその感覚も遠くなると、手の平の感覚は急に外の刺激に過敏になり、吹いているのかいないのかも分からないような空気の流れが嫌に大きく感じられた。
その衝撃はやにわに彼の手を押した。余韻の長い、重く大きな鐘の響きにも似た衝撃は手の平をグゥゥゥと押して突き抜けていった。修夜は思わず「アッ」と声を上げて目を見開いた。
「どう? 感じられた?」癒衣はおかしそうにと訊ねた。
「ああ……すごかった。大きな壁が手の平を押しているような感じだ」修夜は自分の手をまじまじと見ながら答えた。
「ええ。その振動が止めどなく神社の奥から響いているの」
「癒衣はずっとこれを感じているのか?」
たった一度の経験であったが、修夜は今でも手が震えているような錯覚が続いていた。これを断続的に感じて入れば遅かれ早かれ気が触れるのではないか。そんな恐れが彼の内にあった。
「ええ。でも恐らく貴方ほど大きくは感じていないわ。感覚は鈍くも、鋭くも出来るのよ。感覚を受ける面積を小さくしたり、間に厚い壁をこしらえたりして。手の前に厚い板を思い描いてみなさいな。そうして波の勢いを殺すのよ……取りあえず今は先に進みましょう」
癒衣はもう気質の波が気にならなくなったのは、先の重々しい歩みとは打って変わって数段飛ばしで階段を上り始めた。修夜はちょっとの間、手の平を見ていたが、癒衣の姿が瞬く間に頂上付近に消えたので、駆け足で後を追った。
頂上はひっそりとしていたが寂しさはなかった。石畳の道が真っ直ぐに拝殿に伸びている。重々しい黒色の瓦を冠した白木の拝殿は朝日の下でも浮かれることなくどっしりとその場所に建っている。空気は清々しく、町特有の脂臭さはない。風もなく深い緑色の林はシンとしていた。
癒衣は難しい顔をして辺りの臭いを嗅いだり、隙間を覗いたりとせわしく働いている。修夜は彼女を横目に自分が出た場所へ真っ直ぐ向かった。森と広場の境界はどこも同じような景色だったが、初めて見た建物の姿形を思い出せばそこがどこら辺にあるかはすぐに分かった。
修夜は広場と森の縁に立って森の中を覗いた。樹冠に出来た僅かな小さな穴を通った朝日が幾筋もの光の帯となって薄暗い森の中へ差し込んでいる。朝だというのに森は昨晩と同じように暗い。彼は気付いたら渋面をつくっていた。昨晩の恐怖が思い出させるように彼の背筋を一撫でしたのだ。
「どうかした?」
「どうもしない。昨日はこの辺りから森を抜けたんだ」
「そう。なにかあった?」修夜は振り返って答えると癒衣は低木の下からのぞき込むように森の中を見た。
「嫌な思い出が少し。癒衣こそどうしたんだ? さっきから忙しそうに」
「微かに霊力が漂ってたのよ。多分、神社の関係者でしょうね。地面を掃いた形跡もあったし」
「よく見ているな」
「ええ。生き残るためにも……波動の発信源はこの先のようね」
霊体を振るわせる波はこれまでにないほどに強くなっている。深い森の奥からドォォォ、ドォォォと響くその音を聞いていると癒衣の毛は恐ろしさのあまりに総毛立った。そんなことはないとは分かっていたが、振動で木々がそよがないのが不思議なくらいだ。
「入ってみるかい? 毒を食らわば皿までだ」
「……ええ」
二人は目を見合わせてうなずき、森へと入っていった。
朝露を吸ってシットリとした落ち葉を踏んで、夕暮れのように薄暗い森の中を二人は進んだ。濃い緑の葉を茂らせる背の高い常緑樹に、白い肌をした広葉樹が入り乱れて脇道だらけのトンネルを作る。枝と枝との間にはツタが垂れ下がり木々と木々とをつなぎ合わせている。
鳥がばさばさと羽音を立てて飛び去り、どこからともなくさえずりが聞こえてくる。羽虫はスポットライトのような光線の中で踊り、柱を描いていた。町の音は遠くなり、飽和するような静けさが辺りに響き渡る。
がさ、がさ。と、足音だけが耳に届く。二人の間に会話はない。癒衣は道なき道をその目で見ているかの如く迷いなく、真っ直ぐに進む。修夜はきょろきょろと物珍しげに辺りを見回し、時折、思い出したかのように癒衣の震える尻尾を見て彼女がそこにいることを確認した。
「迷わせてくれるわね……どうやら幻惑で道を偽装しているようだわ。全然、先に進めない」二十分ほど歩いたところで癒衣が立ち止まり、悔しそうに言った。
「どういうことだ?」
「波が来る方を目指しているんだけど、突然に波が来る方向が変わるのよ」
「このまま歩いていても、発生源には近づけねえってことか」
「そういうこと」
「それじゃ戻ろうぜ。俺も自分が起きた場所なんて覚えてねえし、このまま先に進んでも得るものは少なそうだ。それに、道あったってことはどこ別に入り口があるんだろうさ」
修夜が覚えているのは真っ暗な森とその中を通る道だけだ。列に並べられた大きな自然石は深い森の中にあってなお表面はツルツルとしていて綺麗だった。誰かが何処かの入り口を通ってあの道を掃いているのだろう。
「道ねぇ。でもその道を通って出たところがあそこなんでしょう?」
「そうだが……途中から道が途切れたのか、間違えたのかは今じゃもう分からんよ」
真っ暗で足下なんかほとんど見えなかったからな。と、修夜。癒衣も「そうかもね」と、興味なさ下に変事をして、きびすを返した。
行きは時間だけが掛かったが、帰りは嫌みなほど短かった。歩き出してすぐに二人は拝殿のある頂の広場に戻っていた。癒衣はウンと背伸びをしてやにわに後ろ足で首をの辺り掻いて、一息つくと不機嫌そうにあくびをかみ殺した。
「なんなのかしらね……ここは」
強固な結界に森を通る謎の道。霧凪社か常円に関わりのある施設だと考えるのが普通だが、癒衣にはそうは思えなかった。どうにもこの神社は討魔士の匂いがしないのだ。その事実がまた一層怪しさを引き立てていた。他にこう言った施設に関わり合いのある組織と言えば有象無象の秘密組織と癒衣の中では相場が決まっていたが、霧凪社の目と鼻の先でそんな組織が存続していられるとは考えられなかった
結局、癒衣はその施設についてあれこれと考えるのを止めた。
二人はなんとなくの気持ち悪さを感じつつ、神社の階段を降り始めた。階段の中間地点。踊り場まで到着すると癒衣は視線を感じて足を止めた。見ると踊り場の横から細い土の道が奥に伸びていた。こんな場所に道があっただろうか。癒衣は小首をかしげた。行きは周囲の景色よりも波に気取られており、道の左右にはサツキツツジらしき低木が茂っているので一目ではそうと分からないようになっているので、見落としても不思議はないが、結界の一件もあって、来たときにはなかったのではと疑いたくなる。
「こんなところに道があったのか」癒衣の顔の向く方を見て修夜が言った。
修夜もいまこの瞬間に初めてその道を認識したのだ。癒衣の中でますます神社に対する印象が悪くなった。長々とこの場所に止まっても良いことはなさそうだ。何に関連する施設であったとしても、怪異にとっていプラスになる事は絶対にないだろう。
「……取り立てて気にすることもないでしょう。行きましょう」癒衣は道を睨んでそう言った。
そうすることで道の奥から視線を向けた人物を見られるような気がしたが、既にそこに人の気配はなかった。何も感じることのなかった修夜は、森の奥へと続く道を睨む癒衣を不思議そうに見ていたが、すぐに興味を失って階段を降り始めた。癒衣もその後に続いて階段を降りていった。
神社の境内を抜けると疲労が押し寄せてきた。ここで知ったことをどう処理するかを考えるだけで癒衣は頭が痛くなった。修夜と神社との間に何かしら関係があるのかないのか。何故、修夜はこの場所で倒れていたのか。謎は今だ何一つ解明していない。たその上、修夜が倒れていたと言っているその場所には、容易に近づけないと言う謎ばかり呼ぶ事実だけが追加された。
あの結界の奥に入り込める存在。修夜をどうにか出来る存在。そんな途方もない者が存在したとして、何故あの場所に彼を放置したのだろう。何もかもが癒衣が想像できる範囲から遠く離れていた。
「何も分からなかったわね……」
「それが分かっただけよしとしようぜ。この周りには何があるんだい?」残念そうな癒衣とは裏腹に修夜は特に気にした様子はなかった。癒衣はその態度を見て少しばかり苛ついた。これではどちらの問題か分かった物ではない。
「藍夜町に月下坂町。藍夜町は討魔士町で足を踏み入れるのは危険よ。月下坂町は時に見る物もないわ」
「それじゃいっそのこと藍夜町にでも行ってみないか? なにかしら得るものでもあるんじゃないか?」
「馬鹿言うんじゃないわよ。失う物の方が多いわ。来た道とは反対の道を行きましょう。この町に留まるなら地理を知っておくことは大事よ」良いこと考えたと言わんばかりの修夜の案を一蹴して癒衣は先に歩き出した。
幹線道路に戻り、近くにあった交差点を商店街とは反対方向に曲がるとやがて山腹を通る緩やかな坂道へと出た。この辺りの道はどこもそうだが家屋は少なく、空き地や林が目立つ。しかし、周りに何もないからと言っても道路は粗末なものではなく、広い路側帯もある二車線の道路は車がバンバンと走り去る。
道は片側に林があり、もう片側は狭い土地にパズルのピースのような田んぼが広がっている。朝日は暖かく、若いウグイスのぐぜり鳴きが風に乗ってどこからともなく運ばれてくる。そんな状況に身を置いていると何のために歩いているのか今ひとつ分からなくなってくる。
こうして朝からフラフラと何もせずに生活するのも悪ないような気にもなった。腹も減らなきゃ眠りもしない。日がな一日と何もせずいても不都合はないのだ。だとしたら何のために記憶を取り戻す必要があるのだろう。その考えが退廃的だとは修夜も分かってはいたが、過去を取り戻したいと言う動機が薄い事には変わりはなかった。
修夜は過去に対する執着心がやけに薄かった。前述の通り生きていく上でなんの不都合もないという事実もあったが、早くも今の状況に意識が適応し始めていた。修夜はその事を不安に思う反面、事実を事実として甘受していた。癒衣と言う隣人の存在が彼を寛容にさせていた。それが良いことなのか、悪いことなのかはっきりする事はないだろう。
やがて二人の左手に、森に抱かれるようにして建つ、白色の大きな建物が現れた。四階建てでL字型の建物は片側が迫り出している。道路との境界には背の高い柱のような看板があり、緑地の背景に白文字で霧凪病院と書かれている。道路と建物の間には緩い坂の道と広い駐車場があった。深い緑色を背景に悠然と建っているその建物は、別の場所から切り取って持ってきたかのように周囲から浮いていた。
修夜は建物を見た瞬間、なんとも言葉にし辛い、薄らと空気に練り込まれた化学薬品的な匂いに思わず顔をしかめた。
「なんだいここは」
「病院だけど、どうしたってのよ?」
質問と言うよりは責めているような、嫌悪感や不快感やらを籠めた修夜の声に癒衣は訝しげに視線を向けた。
「いや。どうにもこの薬品臭い空気が鼻についてな」
「薬品?」
修夜にそう言われて癒衣は辺りの匂いを嗅いだ。しかし、彼の言うような薬品臭さはなく、どちらかと言えば土や草の匂いが勝っていた。病院のすぐ前だからそのような匂いがしてもおかしくはないが、自分達の立っている場所から建物の入り口まで三、四十メートル近くあるのだからその間で院内の匂いは他に紛れそうなものだ。
「気のせいじゃない?」
「気のせい? この匂いを感じないのか?」
癒衣の言葉に修夜は苛立ちを見せた。修夜は一層強くなる薬品臭に不快感に苛立ちを募らせていた。また、彼の怒りの原因は他にもあった。建物から放たれる嫌悪感を催させる饐えた気配が感情を逆なでしていた。
「ちょっと私には感じないわね……もう行きましょう。貴方少し変よ」
怒りの矛先が無理解な自分なのか、彼だけが感じているであろう薬品臭に対してなのかは癒衣には判断がつかなかった。しかし、修夜がこれだけ取り乱したように感情を露わにする状況は不自然に思えた。また一つ謎が増えたわね。と、彼女はため息をついた。
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