第一話:四月十二日:癒衣と修夜

 町の景色は修夜しゅうやの期待感を高めるように賑やかになって行く。町を覆っていた木々はやがて庭に納まり、やがて庭もなくなった。代わりに家が地上を覆った。古い町並みは新しい町並みへと変化する。広い土地にずっしりと構えていた古い家々が姿を消して行く変わりに、形が似通った家がひしめき合うようになった。

 やがて駅が目の前に現れた。風杜駅かざもりと描かれた看板を掲げたその建物は、線路を跨ぐようにして駅舎が建てられていた。

 駅舎を通り抜けると目の前は商店街であった。正面には赤色のレンガを敷き詰めた遊歩道が伸びており、向こう端まで台形のガス灯を模した街灯が何本も立っていた。道に表を向ける建物の正面はガラス張りであったり、店内を覗ける広い窓があったりと多様であるが、ほとんどは明かりを落としていた。

「ところで癒衣ゆいさんよ、どこまで行くつもりなんだ?」

「商店街の横にある公園よ。そこなら見晴らしも良いし木に遮られて人目に付かないわ」

「……町中でも安全に気を配らなきゃならないもんなのか?」

「何があるか分からないからね。用心に越したことはないわ」癒衣は討魔士のことを思い出して不愉快そうに顔をゆがめた。

「住みづらい町だな」

「直に慣れるわよ」

 慣れるなんて言ってるが麻痺しただけじゃないのか? 修夜はそう言い返そうとしたが止めた。

 会話は途切れて二人はまた黙って歩き始めた。しかし目的地は近くにあり、沈黙も短いものだったが。

 細い路地を抜けると広い芝生の公園が現れた。公園を挟んだ向かい側には真っ直ぐに伸びた針葉樹が並んでおり、その背後には家々が立ち並んでいた。二人の足下からは素っ気もないコンクリートの遊歩道が緩やかな弧を描きながら奥の住宅街まで伸びていた。

 幾本もの街灯が公園を照らしていた。癒衣はその光を避けるよう奥へと進んだ。

 心地のよい公園の中心部を抜けて、たどり着いたのは公園の角であった。日当たりが悪いのか空気は湿っており、置いてあったベンチの表面はしっとりとしていて冷たい。

 よりによってここか。と、修夜は広い公園を一望してなんとも言えない表情を浮かべた。

 修夜が辺りを見回しているのを横目に、癒衣はベンチの上に飛び乗った。彼女は三つ指を突いて長い尾を身体に巻き付けるようにして座った。目は真っ直ぐに修夜の方を向き、閉じた口元にピンと立った耳は彼女が既に聞く準備をすっかり整えていることを現していた。

 修夜はその姿を見て申し訳なくなり、急いでベンチに腰掛けた。

「……それじゃさっきの続きからでいいかい?」

「ええ。お願い」

「……俺は数時間前に御守神社みもりじんじゃの森で目覚めたんだ。記憶はなく、どうしようもないから、取りあえず人の多い繁華街を目指した。その途中に二人を見かけたから後を追った。俺が追いついた時、男が君に止めを刺そうとしていたから制止したんだ……そして君が男を殺した。その後に約束を交わした」

「約束を交わした後はどうなったの?」

「君を助けるために病院を目指したんだよ。けど病院にはたどり着けなかった。あの道路で君の心臓は止まったんだ。俺はなんとか君を助ける方法はないか悩んで……この後はあやふやだけど、その時に急に頭が軽くなったのかな。それで俺は奇妙な一体感に包まれた。後は意識と言うよりも流れだったよ。何をすれば良いのか理解して、それを実行した。いまじゃそれしか覚えていない」

「……俄には信じがたいけど、信じない道理はないわね。それで、貴方が望むことは?」

「俺の希望は記憶を取り戻すことだ。君に望むことは俺が記憶を取り戻すための手助けだ」

「それで貴方はこの町で生活をして、この町で何かを見つけようと。そう言うのね?」

 そう言った黙る癒衣の目はどこか物憂げであったが、修夜は気付くことはなかった。彼は癒衣の物わかりの良さに喜んでいるだけだった。

「ご推察の通り」

「本当に何一つ持ち物はもっていなかったの?」

「何も。服はよく調べたが埃一つ入ってなかった」

「おかしな話ね。怪我もなさそうだし……」癒衣は修夜の姿を二度三度と見た。

 革のジャケットに黒色のデニムのジーンズに黒いブーツ。服にも靴にもシミやほつれ一つ見当たらない。目覚めたばかりの人間の言う調べたなど信じるには足りないが、確かに着ている服は奇妙なほど綺麗であった。

「ああ。あんなところに捨てておいて、殺すわけでもなく、服をはぎ取るわけでもない。本当に不思議だよ……記憶を取られたってんなら別だけど」

「それも一つの可能性よ……考えても分からない事についてあれこれと推測するのは止しましょう。理由があるならそのうち判明するわ。今はこれからの事を話すべきよ」

「賛成だ……それで、何を話そうって言うんだ?」

「貴方を助けるに当たっての方針と、この社会についてかしらね。約束した手前申し訳ないけど、私は貴方の記憶が戻るまで付き合うことは出来ないわ。一週間や二週間で確実に治るのなら兎も角、十年も二十年も付き合いきれないもの。だから私は、貴方がこの世界で一人で生き、一人で目的を果たせるだけ知恵と力を可能な限り伝授しようと思っているの」

「……だいぶ厳しいな。それでやることは終わりか?」

「言いたいことは分かるけど、おんぶにだっこじゃ猫の手には余るもの。私には記憶喪失の治し方も分からないし、知っている知人もいないわ。冷たい言い方だけど貴方の記憶喪失について私が主体になって動いてどうなる問題でもないと思うの。だって貴方の過去を知らないんだもの」

 癒衣の突き放すような言葉を聞いて修夜は考え込むように目を伏せた。彼女の言葉は修夜の期待に添えるものではなかったが、かと言って交渉するだけの具体的な希望が修夜の中にあるわけでもなかった。

 なんとなく良い感じに助けて欲しい。彼の希望がと言えば精々そんなところだ。

「あぁ。違いない」しばし反論を考えていたが、反論できないと悟ったのか諦めたように言った。彼女の言うとおり、過去を知らぬ者同士が手を繋いで歩いてもゴールにはたどり着けない。

「悪いわね。あまり力になれなくて」

「いや、十分だ。それで、教えるってもどこから始めるんだ?」

「そうねぇ……あぁそうだ。その前に貴方が私を治した方法だけど、どうやったかは覚えている?」

「朧気には。けど、しようと思ってできたわけじゃない」

「それでも良いから教えてちょうだい」

「わかった。俺はあのとき君の身体の中に光を見たんだ。その光に手で触れると頭の中に君の姿が浮かび上がった。それを見ながら実際の身体に触れると傷が癒えて失った肉体が元に戻ったんだ。それだけだよ。後はもの凄い疲労感に見舞われた、疲労が続いたのは一分かそこらだったと思う」

「そう……恐らくはだけど貴方が見た光は私の霊体で、貴方はそこから私の肉体の情報を得たんじゃないかしら。肉体を治癒した方法は分からないけど、ただの治癒術ちゆじゅつじゃないことは確かね。悩んだ末にその現象が起こったって事は恐らくは、インの順性に属する力が働いたのかしら」

「そうかい……ところで、そんなことが出来るインってのはなんだい?」

 癒衣は納得したように頷いたが、修夜には彼女の言っていることはまるで理解できなかった。ただ、インと言う完全に意味不明な単語だけが頭に残った。

「インってのは意識で世界を操る能力よ。生物には二種類のタイプがあってね。一つがインを使えない表性生物ひょうせいせいぶつ、もう一つがインを使える私達のような裏性生物りせいせいぶつ。インにはこれまた二つの系統があるの。一つは心象を基盤とする順性じゅんせい、そして言葉を基盤とする変性へんせいよ」

「俺はそのインを使うことが出来るのか?」

「ええ、確実に。でも教えるつもりはないわ」少年が期待のまなざしを向けてきたので癒衣は冷たく答えた。

「使えればかなり便利だし、生存能力も向上すると思うんだが?」

「便利だし、生存能力も上がることも否定はしないわ。けど使うことによって世界は貴方の生存能力を遙かに超えた悪意と危害をもたらすわ。その結果、目的を果たすことが難しくなるどころか道半ばで死ぬかも知れないわね。ええ……知ること、使えること、実際に使うことは全く次元の違う話しだという私も分かっている。けれど人は知れば使うの。貴方がどれだけ聡明で思慮深いかは関係なくこれは事実よ。知ってしまった以上、使わないという選択肢はあり得ないの」

「……俺が誘惑に負ける人間だとでも?」

 彼女の言葉が余程不満と見えて少年は眉間にしわを寄せて癒衣を睨んだ。

「貴方が。ではなくて誰もが。この世界じゃインや私達のような怪異かいい、もっと言えば討魔士なんかも存在しないってことになっているの。その嘘を暴くような真似をすれば死を持って償わされるのよ。更に悪いことに私達のような怪異はこの世界じゃ害悪としか思われていないわ。インなんか使ってるところを見られて目を付けられたら死ぬまで追いかけられるわよ」

「そうかい。で、何で俺まで怪異にされているんだ? 俺はどこからどう見ても人間だろ?」お前のような猫と一緒にするな。と、言いたげに修夜は訊ねた。

「怪異は別に猫や人で区別している訳じゃないの。怪異は良性の存在として常円とこまどかと言う組織に認定されなかった裏性生物。あくまで社会的な地位よ……常円が良性であると判を押せば社会の味方である討魔士とうまし、それ以外は全て社会の敵である怪異って風にね」

「どうやってそんな事を?」

「常円は裏性人が生まれるのを予知して、生まれた瞬間に取り上げて判断していると言ったら驚くかしら?」

「もちろん。だが出来るんだったらそうするだろう……出来るんだったらな。そうしないと世界で子供が生まれる度に嘘がばれる危険がある。それは取り締まる方にしてみれば悪夢だろうよ。だがどうやって? 子供を取り上げた後はどうするんだ?」

「未来予知をする誰かが見張っているわ。何年も先から生まれる裏性人のリストは出来ているでしょうね……それに取り上げる必要のある子供の数はそれほど多くはないの。裏性生物が生まれる割合は非常に低いし、取り上げるのはあくまで事情を知ってはならない表性人から生まれた裏性人の子だけよ。取り上げた後の記憶の改ざんも、記録の改ざんも難しものじゃないわ……取り上げた子供は専用の児童養護施設で育てられて、六歳から遅くても二十歳くらいの年齢で社会に戻されるの。戻されると言っても業界から足を洗えるわけじゃないけどね。あくまで実地訓練的な扱いよ」

「なるほど、人については分かったが君のような猫とか動物はどうするんだ?」

「基本的にほったらかしよ。何かしでかせばその時に殺されることになるでしょうね。結局のところ、何が起こっても最終的には嘘や記憶や事実の改ざんをする事で世界の整合性は保たれるわ。多少のアクシデントがあった方が常円としても自分達の存在意義をアピールできるでしょうし」

「だったら俺も常円に登録されているじゃないのか? 未来予知だって出来るんだ……記憶喪失の人間の身元を調べるのだって無理じゃないだろう?」

「一理あるけど、賛同は出来ないわね。貴方の事が常円に記録されてるとは思えないもの」

「だが生まれた裏性人はすべからく常円で管理されているんだろ?」

「ええ。常円の目と手が届く範囲でね。見る術があれば隠す術もあるのよ……貴方の力は尋常じゃないわ。規格外の存在に対する常円の選択は常に三つよ。殺す。能力を封じる。首に縄をつけるのね。なんにせよ常円が貴方を知っていれば今目の前にいるのは私じゃないのは確かよ」

「……それなら俺はなんなんだ?」

「わからないわよ。ただ、記憶喪失であんなところに倒れていたって事は貴方の保護者がそうせざるを得ない状況に追い込まれたって事も考えられるわ。何にせよ早とちりして失敗するよりは、もう少し状況を見てから動いた方が良いでしょ? どうせ記憶を取り戻す以外にやることはないだから」

「……了解。君の考えに従うよ。インは学ばない、使わない。常円には接触しない」不満げに修夜は頷いた。癒衣の提案はなんの面白みもなかったが、納得せざるを得ない合理性があった。

「ええ。不満はあるでしょうけどね」

 無知や失敗が許されるのであれば癒衣もこう頭ごなしに言うことはなかったが、この世界では一度の失敗で二度と正常な道に戻ることが出来なくなる事もざらだ。落ちた先にあるのは死ぬまで終わることのない逃亡生活である。癒衣は修夜にそんな人生を歩ませるつもりはなかった。

 どこまでそれを理解したかのかは癒衣は修夜の顔からは完全には読み取れなかった。表情には僅かに不服の色があるが、その目は何かを考えているように鋭い光を放っていた。今の話を考え、理解しようとしているのだと思いたかった。

 何か最後に一言でも慰みの言葉をかけるべきか癒衣は迷った。昔は頭ではなくて心の内からやるべき事が浮かんできたような気がするが、今では何が人間らしいことか考えてもよく分からなくなっていた。

「……夜が明けたら商店街の正面入り口で会いましょう」

「おい、どこ行くんだ?」

「どこかよ。私といても貴方のためにはならないもの」

「……俺も信用がねえな。まあいいさ、六時頃に入り口でいいかい?」

「構いやしないわよ」そう言うと癒衣はベンチから地面に飛び降りて商店街の方に姿を消した。

「そうだ、私のことは癒衣で良いわ」

「癒衣だな……なら俺のことは修夜と、そう呼んでくれ」

 闇の向こうから癒衣の声が響いた。修夜はその方向を見たが姿は認められなかった。彼はしばらく闇を見ていたが、やがて視線を足下に落とした。

「ちぇ、なんて冷てえ奴だ。けど一人で考える時間が必要なのも確かだ……明日からどうするかな。記憶喪失だけでも大変なのになんでこんなにややこしいんだ」

 少年は不満たらたらの様子で吐き捨てるように愚痴を言っていたが、直に黙りこくって深い思考の海へと意識を投げ出した。


 修夜と離れて癒衣は月を見ていた。顔には悲喜交々と言った複雑な表情が浮かんでいる。

 彼女はこの出会いが二人にとって好ましい結果をもたらさないことを予感していた。今日の一件で、今まで癒衣の事を見過ごしていた霧凪の討魔士が態度を厳しくするのは明らかだ。次に追っ手の討魔士が来る時期は想像も出来なかったが、光矢が本気になった以上は、これまで通り二週に一度や一月に一度と言った頻度ではなくなるだろう。

 修夜が自分といればそのようなそう言った討魔士に目を付けられる。

 今すぐにでも修夜と縁を切るべきであった。このまま霧凪を離れてしまえば霧凪の討魔士も修夜も跡を追ってはこないだろう。彼らは霧凪に用があるのであって癒衣に用があるわけではない。だが癒衣には出来なかった。

 誰かが側にいるというその誘惑。五十年の孤独の後に現れたその甘美な感覚は到底抗えるものではない。これはもはや阿片や麻薬に快楽であった。浸っている時間が延びれば伸びるほど離れがたくなる。

 「……救いようがないわね」

 言葉こそ厳しいが口調はどこか熱っぽくて軽かった。

 彼女は心の片隅で明日の朝を楽しみにしている自分を諫めつつもその衝動を楽しんでいた。

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