第一話:四月十二日:霧凪の人々
木はなぎ倒され地面は掘り返されている。炎は
「これは酷いねぇ。林がめちゃくちゃだよ。一体誰がこれを片付ける思ってんだ」片山は林を一望してため息をついた。
「まったくだ……この忙しい時期によくもまぁこれだけやってくれたよ。ま、もう死んじまって文句も言えねえが」平本は地に伏せる頭のない死体を見て抑揚のない声で言った。
この惨状を見つけたのは半ば偶然であった。
まだ生々しい傷痕は戦闘が終わってまだ間もないことを示している。血も乾いなく、肌も生々しい死体の具合から見て三十分も経過していなさそうであった。
「コイツもよくやってくれるよ。よりによって
片山は太鼓腹を抱え込むようにしゃがんで地面の土をつまんでパラパラと落とした。土は火に当たってすっかり乾燥しており砂のようだった。
「ああ。ふざけているにもほどがある。だが、コイツがそれを知っていたとも思えん……だがそれよりも、このことが関知できなかった情報部の体勢の方が問題だ。今回は別で揺らぎが発生したから良かったが、場合によっては一般人の目に触れる可能性もあったんだ」
「わかってるって。けどここは澱みが発生しないよう結界が張っているし、監視するには広すぎるんだよ。僕らとしても限られた予算とルールでできる限りのことはやっていんだよ……今回のような非常事態に対しての対策がおろそかになっていたのは認めるけど」
「わかってる。そもそもなんで頭領は東京の討魔士の活動なんか認めたんだ?」
「さぁねぇ。相手が大社ってのもあったし、標的が化け猫だからねえ。頭領としてもそれほど大事にならないと思ったんじゃないかな?」
「その結果がこれか」平本は軽くため息をついた。彼には今回の事が後々まで尾を引く事になると予想していた。
「所属する討魔士が死んだって事は光矢からまた討魔士が派遣されてくるぞ。化け猫はまだ生きているんだからな。次は確実に断ってもらわんと困る。少なくとも一月、二月くらい先までな」
「その間にあの化け猫がどこなに行ってくれていればいいんだけど。あぁ一番良いのは化け猫退治の許可が下りることだけど。不確定分子は早めに処理した方が楽だよ」
語尾を強める平本に同意するように片山も頷いた。彼も今回の決定は誤りだったと考えていた。
「活動を自粛しているとはいえ、目立つ化け猫を生かしておく理由はねえ筈なんだが……方針にそぐわない行為をしたと言う前例を作りたくないんだろう。一つルール違反を犯せばそこからたがが外れる」
「大事の前の小事とも言うしね……さ、それよりも現場検証を始めよう。光矢を突っぱねる資料にもなるかもしれないし」そう言う片山の言葉には希望の一つも込められていなかった。化け猫に殺された記録は光矢を焚き付ける事はあっても気持ちを削ぐようなことはないだろう。
片山はハンドバッグから一枚の呪符とペンを出した。呪符は日本紙幣ほど大きさでビッシリと細かい文様が描かれている。特徴的なのは三つの、横に並んだ空白だ。彼は左端からそれぞれ「現在」「六十分」「十メートル」と書き入れた。その意味するところは『呪符を中心とした直径十メートルの範囲の過去を術の発動から六十分前までを再現する』と言う物だ。
呪符に霊力を流すと文様が輝いて円形の結界が展開され、中は淡く光る粒子で満たされ、薄らと靄がかかったようになった。二人の立っている場所に粒子が寄り集まって靄の人が現れ、片山と平本の仕草を逆再生するように動き始めた。
「俺達が来る前まで進めてくれ」
「了解……順序、早送り。速度、五倍速。時間、三十分前まで」
片山がそう言うと結界の中が僅かに揺れて、靄の人は後ろ向きに歩いて結界の境界に触れて消えた。しばしの間、結界内には何も現れず空間だけが小刻みに震えていた。
結界の内部ではその場所に通じる縁を遡って過去の出来事を再現していた。しばらくすると二人の間に靄の猫が運ばれてきた。宙に浮いた盆にでも乗せられているかのように外から現れて佐藤の足下近くに降ろされた。癒衣はその足で去ったと思っていた二人は言葉を失った。
「これはこれは……不思議だねえ」
「どうなっているんだ?」
「どうだろう……分からないや。今は取りあえず討魔士が死ぬところまで見届けよう。速度、等速」
「こいつは背後から襲われたのか……」平本はそう言って調書を書き始めた。彼は目だけをぎょろぎょろと動かしてそこ読み取れる情報をできる限り紙に写す。瞬く間に文字と図が紙に現れる。その手捌きは驚くほど早く、機械のようの正確だ。
「口を動かしているな……独り言か?」
猫の口のあたりがモゴモゴと動いているがそこから喋っていることを割り出すのは不可能だ。靄はあくまで縁に沿って全体的な流れを再現するものであって肉体を細かな動きまでは再現してくれない。
佐藤の死体に被さるように靄の人型が現れた。佐藤を模した靄の人型は糸に引っ張られるように持ち上がり、破壊された頭部がヌッと現れた。癒衣に背を向けて、手を振り上げた格好で立っている。それを見た二人は更に混乱した。
「……何をしているんだこいつは?」
「止めを刺す直前に背後から攻撃があってそれに対処しようと思ったのかな? そうして振り向いて化け猫に背を見せた瞬間にバッサリと……」片山は人差し指で首を切るジェスチャーをした。
佐藤は緩慢な動作で化け猫の方に向き直った。その顔は僅かに背を向いていたがすぐに正面に戻った。
「この速度じゃ背後からの攻撃でもなさそうだな」
「まるで後ろから声を掛けられたみたいだ」
「…………だがそこに誰もいない」たっぷりとした沈黙の後、平本は言った。
彼も片山と同じ考えだったが、映っていない人間の存在を肯定することは出来なかった。
「この呪符は縁を辿って過去の出来事をトレースするだけのものだよ。痕跡を残さなかった人間の事までは分からないさ」
「だがそうなると事は更に複雑になるぞ。痕跡を隠せる誰かがここにいて、余所から来た討魔士を殺したんだ。討魔士が仕事をし損じただけとは話がまるで違ってくる。そしてその第一容疑者は
「……情報部は朝一で全員のアリバイを確認するよ」
「そうしてくれ……調書の方は終わった。遺体を運ぶぞ」
「長谷君の方に連絡は良いのかい?」
「何もなければ先に帰るとは伝えてあるから必要ない」
「分かった。それじゃ僕は偽装結界を張るから死体を頼むよ」
平本はバッグからビニールの遺体袋と取り出して死体の横に地面に広げた。灰色をした厚手のビニール袋は口が大きく、チャックは液や臭いが漏れないように二重構造になっている。彼は長谷の遺体を袋に入れると傍らに膝をついて、遺体の胸の辺りに手をそっと置いた。
遺体の首から幾本もの光の糸が伸びる。菌糸のよう伸びて地上を這うその光は闇の中に落ちている、細かく砕かれた頭部の肉片を掴んで、また元のように縮んだ。一分足らずで遺体袋の中には頭部の残骸が積まれていた。
「お先」
「お疲れさま。また社で」
平本は遺体袋を肩に担ぎ林を出た。広場はいつもと変わりなく、林の中の惨状がまるで嘘のようであったが。肩に掛かる重みは真実の重みだ。真実以外にもその重さに荷担しているだろうと彼は思った。
もう三時間もすれば朝日が昇る。そうしたら今回の事件が社中に知れ渡る。その時に強硬派が活気付く事は考えずとも分かった。
——先に釘を刺しておかなければ……だがこの状況で皆が従うだろうか。
討魔士殺しが仲間の仕業とは平本は思っていなかった。しかし光矢はそうは見ないだろう。よしんば自分達の主張が受け入れられたとしても、犯人は誰だという話しになってくる。その時、判りませんとは口が裂けても言えない。
嫌疑をかけられた人間は反発するし、嫌疑が晴れたら晴れたで犯人捜しを希望するだろう。討魔士を殺した何者かが自分達のテリトリーで動き回っているのだからその流れになるのは当然だが。
その声が大きくなれば事態の沈静化は難しくなる。いっそ大々的に犯人捜しが出来れば
長谷が現場検証に向かった場所は気質の大きな揺れの震源地である。何もないわけがないのだ。
何が起こったかは全く見当がつかなかった。現場検証をしようにも気質が不安定で、時間の連続性も破綻していたので現場検証用の呪符も役に立たなかった。辛うじて分かったことと言えば僅か十分か二十分ほど前まで化け猫がいた事だけだ。長谷には
癒衣は二週間ほど前にどこからともなく霧凪市に現れた。現れた。と、言っても何をするわけでもなかった。
長谷に言わせればそれは癒衣を認めたと同意義であった。
活動を自粛は一月か二月後に来る大事に焦点を合わせて準備を整えると為である。その中には当然、癒衣のような不確定要素の排除と言った能動的な活動も含まれるべきであった。
実際、長谷はその事を上司に進言していた。上司の回答は彼の期待を裏切るものだったが。伝え聞くところによると頭領は癒衣に手を出す必要はないと明言したのだ。
今回の一件で方針は変わる。しかし長谷はその事に優越感を覚えるよりもこれからの事に危機感を覚えた。
早いところ癒衣を排除して霧凪に安定をもたらす他に道はない。しかし、そう決意した長谷の心は落ち着かなかった。癒衣よりも質の悪い存在が霧の中で
——この場所にいると気分が悪くなるな。
長谷はあれこれと悩むのことを止めて仕事に戻った。
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