第一話:四月十二日:孤独
林を抜け、広場を通り抜けると眼下に町の姿が見えてきた。暗く、林ばかりが目立つその町の姿を一瞥して少年はすぐに視線を足下に向けた。そうして丘を出たときに広がっている光景について考えないことにした。
丘を降りている途中から、猫のうめき声は聞こえなくなった。手の平に伝わる心臓の
黄泉路を下っているようだ。この丘を降りたとき、猫の命は尽きるのではないか。俺が死へと連れて行っているのではないか。少年はそんな恐れを抱いたが、心配とは裏腹に丘を降りても猫は死にはしなかった。
状況だけが転げ落ちるように悪くなっていった。広い道路に出ることは出たが、遠目に家々の明かりは見えるだけで他には何もない。最も手近な家も数百メートル先にあり、周囲には、二人の助けになるものは何一つないと言うのが実際のところだ。
あの民家に駆け込んでどうなるものか。焼け焦げた猫を助けて欲しいと必死になって
少年は何か助けになるものはないかと周囲を見渡した。右には真っ直ぐに道が続いており、左には少し先に交差点がある。彼は一瞬だけ迷って選択肢の増える左を選んだ。
四方に道が延びる交差点には情報があふれていた。真っ暗で人気のない家屋、高いところに掲げられている青地の看板。そして四隅に立てられた色とりどりの広告である。彼は広告に目を向けた。
六枚しかない広告はそれが手の中にある最後のカードにも見える。切り札の一枚でも残っていれば良いんだが。そんな心持ちで少年は上から順々に広告を見た。
人形問屋……美容院……歯科。
看板を一枚読み進める毎に少年の心はざわついた。思わず目を背けたくなったが四枚目を見た瞬間、彼の表情は今までにないほどに明るくなった。
「三キロ先……動物病院」
角の取れた字でハッキリとそう描かれていた。看板には矢印もあり、少年は何も言わずにその方に向かった。
道は明らかに町から離れた方へ伸びていた。登り勾配はきつくなり、周囲の林は深くなった。目の前に延びる道は今いる場所よりも暗い。今いる場所は来た道よりも暗い。
この先にきっと病院がある。その思いだけが少年を突き動かしていたが、この先に本当に病院があるのだろうかという疑念が気泡のように水面に浮かんでは弾けた。
目的を果たせないまま無情にも時間だけが過ぎて行く。
猫は息をしているのか分からないほどに衰弱し、心臓の鼓動も厚い壁を隔てたように遠くに感じた。希望と命がいっぺんに手の中から零れて落ちて行くようだった。
「あぁ、くそっ! 病院はまだなのかっ?」行き場のない焦りと怒りが口を突いて出た。
「まだ死ぬには早すぎるだろ! 必ず病院に連れて行ってやるかなら!」
誰も聞くことのない言葉が周囲の林に込まれるうに消えた。道は遙か先へと続き、闇は深く広がる。街灯りだけが空虚な希望の光の如く道を照らしていた。
夢を見ていた。もう何十年も昔の夢を。
追われることのない世界。幸福感に満ちあふれた生活。大切な人の温もり。その時代のその場所には全てが満ち足りていた。
癒衣は気付けば家の前にいた。大和塀に開けっぴろげの門構え。家へと続く石畳のアプローチ、その奥に構えるのは木製二階建ての古めかしい日本家屋。木の壁に瓦屋根。入り口を見下ろすようにして開く二階の窓。一歩門を入ればそこからは開放的な縁側と、その前に広がる小綺麗な家庭菜園がっている。
紛れもなくあの懐かしき我が家であった。
どうしてこんな場所にいるのだろうか。そんな疑問は湧いては来なかった。いつものように遊び終わって帰ってきたのだ。彼女は門を抜けて一目散に庭へと向かった。この時間であれば
庭を見るとそこは金色にも近い、輝くようなオレンジ色に染まっていた。
真っ赤に燃えるような庭の角にある菜園では、水を滴らせて宝石のように輝く夏野菜が
うずくまって野菜の手入れをする東馬の影法師は長く伸びて癒衣の足下まで届いている。彼の足下にはザルがあり、その中には収穫したばかりのナスやキュウリ、トマトが盛られていた。
今夜もそれをつまみに一杯引っかけるのだろうか。野菜ばかりで健康的なのは良いが、最近は深酒が過ぎるので足し引きゼロどころかマイナスだ。自分もそれに荷担している手前、偉いことは言えないが。癒衣は影を避けて東馬の足下へ駆け寄った。
「ただいま!」癒衣はそう言って彼の足に頬をすりつけた。
東馬は振り向きもせず、ただ黙々と庭いじりをしていた。
いつもなら笑顔を見せてくれるのにどうしたのだろう。癒衣は眉を
その顔を見た瞬間、癒衣の心に深い影が射した。
——どうしてそんな顔をしているの?
尋ねようにも言葉が喉に詰まって声が出せなかった。
気付けば庭は真っ暗になっていた。音はなく、風はなく、空は、家はなく、庭はなく、ただ東馬と癒衣だけがその場所に取り残されている。
癒衣は身震いするような肌寒さを感じた。夏の夕暮れの気怠い暑さは何処かへ消えて心まで冷たくなるような寒さが彼女を包んでいた。気付けば彼女目は潤み、顔は恐怖で歪み、身体はがくがくと震えていた。
どうして何も言ってくれないの?
どうしていつもみたいに笑ってくれないの?
どうしていつもみたいに撫でてくれないの?
どうして? どうして?
癒衣は何も言わない東馬の顔を食い入るように見つめたが、彼は癒衣には目もくれず、しゃがんだ状態で固まっていた。ただその口元だけが僅かに動いていた。
——なにが言いたいの?
耳をそばだてて東馬の言葉を聞こうとする。その声は蚊が鳴くように小さく、遠く、容易には聞き取れない。彼女は前足を突いて東馬の口元に耳を近づけた。
『め……ま……』
当麻の声とは思えない重くて侘しげな声だ。彼女は思わず耳を塞ぎたくなったが、意に反して身体は動かなかった。
『ま…………め………を』
声は徐々に大きく、鮮明になって行く。癒衣は背筋が凍り付きそうなほど恐ろしくなったが、もはや世界に轟くその声を遠ざける事など不可能であった。
空間が大きく揺れて辺りにヒビが走る。幾筋もの細いヒビからは強い光が漏れて周囲の闇を払う。光の奥からは美しい鈴の音色が響いていた。初めは小さく、囁くような音であったが、やがて声と合わさって身体を震わせる旋律となった。
『めをさま……せ……目……を覚……』
声の調子は高くなっていく。若く、良く通る、どことなく若い頃の東馬の声を思わせた。声が明瞭になるに連れて東馬の姿も光の中に呑み込まれた。光に溢れた真っ白の世界の中に癒衣だけが取り残された。
——おねがい! 私を置いてかないで!
癒衣は背を伸ばし消えかかった東馬の顔に自分の顔を近づけた。
目の前にある大きく、力強く口から言葉が放たれた。
『目を覚ませ』
言葉を理解した瞬間、癒衣は吹き飛ばされるような衝撃に打たれ、意識もろとも光に呑み込まれて消えた。
腕の中で命の灯火が、今、消えた。
手に伝わった伝わってきた心臓の鼓動もない。耳を澄ませば辛うじて聞こえていた吐息もない。服は出尽くして固まった血が泥のように着いている。その上には出がらしのような肉の塊が乗っていた。猫が生きていたという証が手の中に残った。
——間に合わなかった?
少年は深い林に囲まれた道の途中で月を仰ぎ見て呆然と呟いた。
「なぁおい……まだ早すぎるだろ」
その言葉が尽きようとしている命に対してなのか、まだ目覚めて間もない自分に牙をむく絶望に対してなのか分からない。偶然にも出会い、無一物だった自分に世界との一つの繋がりが出来た。それを足掛かりにより多くの繋がりができると彼は予感していた。
その予感は外されるためだけの
名前も知らず、まともに話しすらしていないのに、心に傷だけ残して終わってしまうのだろうか。
「違うだろ……目を開けてくれよ……ここが始まりであって終わりじゃないだろ!」
そう。それで良いはずがなかった。少年にとってこの出会いは始まりの第一歩でなければならなかった。
「こんなところで死んじまってもしょうがねえだろ……あと少しで病院に着くんだ。 お前を助けてやれるんだ! もう少しばかり生きててくれたっていいじゃねえか!」
愛憎が混じった激情が黒煙を吐き出す炎となって身を焦がす。どうしたら良いのかという疑問と、どうしようもないという事実がせめぎ合ってギチギチと少年の頭を締め付ける。
「もうちょっとがんばってくれよ! 俺だって絶対に約束を守ってやる! お前だってまだやることはあるんだろが! ここで死ぬために生きていた訳じゃねえんだろ! だからあんなにもなって敵を殺したんだろうが! それでお前が死んでどうする……無駄死にじゃねえか……」
叱咤しているのか懇願しているのか少年にも分からなかった。言葉尻は弱くなり、最後には何の言葉も出なくなった。
如何に呼びかけようとも猫は一言も返さない。ただ安らかに、その手の中で眠っている。少年は無力感にがくりと肩を落とした。見開いた両目は視点も定まらず揺れていた。
——俺はコイツの事を守れなかったのか?
助けようとすること自体がおこがましい。あんな怪我を負った猫を背負ってどうするつもりだったんだ? あそこで安らかに死なせてやれば良かったんだ! 動かして痛みを与える必要なんてなかったんだ!
心の声は少年を責めるように高笑いをあげた。
——その通りだ。だが俺はどうしてもこいつを助けたいんだ。
そうかい。なら助ければ良いじゃねえか。それで、どうやって助けるんだ?
——分からない……俺にはそんな力はない。第一てめえの名前だって覚えていねえんだ。そんな男が何を知ってるってんだ?
ああその通りだ。でもそれでいいのか?
「いや、駄目だ」少年は心の声を吐き捨てるように呟いた。
風が吹き荒び、木々が揺さぶられる。周囲にポツポツと光りの気泡が浮かび上がった。
「試しもしないでどうして出来ないと分かる?」
自分に言い聞かせるように力強い言葉だ。呼応するように絶望に塗られていた顔に急に力強さが戻る。黄金色の目は怪しく輝き始めた。
少年は猫が見せた不思議な力を思い出していた。何もないところに何かを出現させるその力。それと同じ力があれば手の中の猫を救えるのではないか。愚にも付かない可能性を真剣に考え始めていた。
見ることが出来るのであれば真似ることも出来るのではなかろうか。幼稚で短絡的な考えだったが否定するだけの材料もなかった。全ては可能性に満ちているのだ。彼は目を固く閉じいて猫が力を見せた瞬間の事を思った。
記憶に残る光の線はぼんやりと霞んで頭の中に浮かんでいた。その光を分析するように思い返していると、やがて光の線は徐々に巨大化して細部までを彼の前に現した。
細い線に見えたそれは、実際は無数の小さな光の粒子が集まり、結びついて出来た塊であった。無限とも思えるその繋がりを眺めている内に少年は不思議な浮遊感を覚えた。まるで肉体そのものが光の集合体の中へと落ちて行っているようだった。
少年は驚いて目を開いた。林に囲われた寂しげな道路に薄暗い林。手の中で死んだ猫が飛び込んできたが、それだけではなかった。空間には光が満ちあふれ、得も言われぬ美しい音色がどこからともなく流れていた。
——どうなっているんだ?
意識の中の景色が現実に現れたようだ。彼は首をかしげたが、光や音に包まれいると、そんな疑問は吹き飛んだ。少年は理由も分からずうれしくなって光と音に身を任せた。そうしていると自我は徐々に薄れて、自分が世界と一つになったような奇妙な、それでいて心地よい感覚を覚えた。
自分が世界の一つになったのか、はたまた世界が自分の一つになったは分からない。そこには完璧な調和があった。調和の取れた世界では全てが一つであり、同時に個であった。少年は自分であると同時に林を構成する木であり、その中に息づく命であり、林を支える大地であり、空を吹く風であった。
ただ猫だけが輝く世界で灰色をしていたが。中に小さな光を宿して止まっていた。
——この光を全身に行き渡らせれば猫は目覚めるだろう。
考えずとも正しい答えが頭に浮かんできた。この場では見ることは理解することと同義であった。
猫の頭に手を触れると、乾いて固まったかさぶたの下には柔らかい肉が感じられた。猫の身体の内にあった光が俄に強く輝き彼の手のひらを刺激した。
ピリピリとした感覚は手の平から腕へ登り、最後には頭に達した。ムズかゆいが不快ではないその刺激は意識の中で形を作り始める。初めはぼんやりと、やがて肉が付いてミャーと鳴き、黄金色に輝く目を少年に向けた。
弓のようにしなやかな身体にバランス取れた三毛。艶めかしく動く長い尻尾に鋭い爪。紛れもなく手の中にある猫の生前の姿であった。頭の中に生まれた猫は愛らしい動きを見せると、思い出したかのようにヒョイと彼の頭を抜け出して手の中に納まった。
猫と猫とが重なると、肉体の欠けていた部位——治すべき部位が露わになった。
——この部分を付け足してやれば良いんだ。
少年は満足げに頷こうとしたが、不意の頭痛で変な表情を浮かべてしまった。小さな棘の塊が震えているような痛みだが、直に大きくなる種類の痛みだ。少年の脳裏に嫌な予感が浮かんだ。このまま続ければどうなるものかと今更ながら恐ろしくなった。しかし悦楽にも似たこの状況を止められるものでもなかった。
「……やるか」
少年は猫の傷に手を撫でた。頭痛は更に激しくなり、痛み胸を降りて、猫に触れている手まで達したが、彼は歯を食いしばって腕を動かした。
彼の手の動きに合わせて周囲の光が強く輝き、空間が大きく揺れてた。何もない空間に無数のヒビが走り、あっという間に大きな裂け目になった。虚無に通じる真っ白な裂け目の奥からは、得も言われぬ美しい鈴の音が天まで届かんばかりの大きな音で鳴り響く。
彼の手が触れた次の瞬間には火傷は消えて、艶やかな毛が現れた。それはまるで、火傷柄の布が取り払われているようにも見えた。
猫の身体が治るに連れて、少年を襲う痛みは激しさを増した。頭から手にかけて燃えるように熱くなり、苛烈な痛みが断続的に続いた。痛みに耐えかねて意識は途切れ途切れになる。瞬間的な記憶も定まらず、目の前にある景色が、過去の記憶なのか、目にしている現実なのかも分からなくなっていた。
壊れた意識はどこからともなく、不思議な記憶を浮かび上がらせた。はるか遠い昔に感じた幸せや悲しみと言った刹那の感情であり、いつどこで起こったかも分からぬ事柄や、名前も顔も知らぬ人物の言葉に対する印象と言った抽象的なものであった。しかし、その有象無象の過去のその中に一つだけ燦然と輝く、到底無視する事などできない響きがあった。
その音は一度聞けば二度と忘れ得ないほどに力強く少年の心に残った。
——あぁこれが俺の名前なのだ。
少年——修夜はそれを理解した瞬間、歓喜に打ち震えて思わず叫び出しそうになったが、喉から出るのは聞くに堪えない、人の物とは思えない叫びであった。
猫の傷が完治した瞬間に、痛みが彼の耐えられる限界を超えた。撫でていた手は衝撃で弾かれたように猫の身体から離れた。
——終わった。
修夜は安堵の表情を浮かべようとしたが、絶望的とも思える疲労感がその身を襲い遮った。全身から力が抜けて、彼は膝から崩れ落ちた。腰は砕けて頭から地面に落ちそうになったが猫のことを潰すまいと反射的に手を突いて堪えた。
彼は唖然として下を向いていた。目も口も力なく開いている。しかし疲労の度合いに比べて息が乱れるわけでもなく、汗をかいている訳でもなかった。ただひたすらに、途方もなく身体と意識が怠かった。
——俺は何をしていたんだ?
今や修夜を包んでいた一体感や
「……なんだったんだ?」
高揚と疲労。一夜の夢で天国と地獄とを味わったようだった。
「いや、今はその事はいい……とにかく猫が助かったのだから何だっていい……」
夢のようであったとしても起こったことは確かだ。その証拠に傷の癒えた猫は腕の中で丸まって静かに寝息を立てていた。少年はその顔をみてほっと胸をなで下ろした。自分が正しいことをしたように思えた。
癒衣が目を開くとそこには、寂しげな東馬の顔ではなくて安堵した見ず知らずの少年の顔があった。東馬がいない事が癒衣は不思議でならなかったが、すぐに状況が飲み込めた。
——懐かしい夢を見たのね。
全ては夢の出来事だった。時は巻き戻ることはなく、過去は過去のままであった。
癒衣は目を細めて夢に見た景色を思い返す。もう何年も夢に見ることも、思い出すこともなかった昔の記憶だ。懐かしさと切なさが胸にこみ上げてきたが、そんな甘い一時も早春の風が彼女を現実に戻すまでだった。
癒衣は訝しげに周囲を見回した。
林に挟まれた車道が延び、街灯が自分達を照らしていた。
——どうしてこんな場所にいるのかしら。この少年は何者かしら。
全く記憶にないその場所とその顔に癒衣は戸惑い、居心地の悪さを感じた。
「降ろしてくれるかしら?」
そう願う癒衣の声は戸惑いを隠すかのように無機質であった。
修夜もまた戸惑いながら猫に言われたとおりに彼女を地面へと降ろした。
戸惑った猫と戸惑った人は時に視線をかち合わせ、時に視線を逸らして黙りこくっていた。
——この子供はなんなの?
癒衣は記憶と照合するようにまじまじと修夜の顔を観察した。堀の深い顔に筋の通った高い鼻はギリシャ彫刻を思わせる。頭髪は絹糸のように白く輝き、瞳は癒衣と同じ黄金色に輝いていた。猫も思わず唸るような眉目秀麗の少年ではあるが、癒衣はそれよりも哀れみを先に覚えた。
彼もまた自分と同じ世界の住人なのだ。人ではなく
どんな理由かは分からないが、この少年が自分を生かしたのだろう。死をねじ曲げて生へと転化させたのだ。そう思うと癒衣は背筋が冷たくなった。化け物め。と、自分が討魔士から向けられる言葉が自然と浮かんできた。
肉体の再構成に、体力や霊力の回復を含む即効性の治癒術なんてものは人間一人の力で行える代物ではないのだ。しかし何の因果か知らぬが生き残ってしまったのだ。あの場所に行くの——いけるのであれば——はもう少し後のことになるだろ。今は過去に浸っているよりもこれからのことを考えるべきであった。
「……行く当てはあるの?」
「いや。今は特に目標はない……出来るなら町へ行きたいとは思っているが」
「それなら商店街まで行きましょう。早く場所を離れるわよ」
癒衣はそれだけ言うと早足で歩き出した。修夜は肩をすくめて彼女の後を着いていった。
二つの影が薄暗い住宅街の中を音もなく走っていた。片側に林を抱く登り斜面のその道は家々が軒を連ねていると言うのにうら寂しい感じがした。街灯はジーと音を立て、門前の明かりもどこか恐縮しているように暗い。雨戸は閉じられて窓から落ちる光もない。
空気は今だ何も知らぬ、眠たげな夜の臭いに包まれている。霧凪の討魔士はまだ事に気付いていないとだろう。そうでなければ辺りにこんな落ち着いた空気が流れているはずがなかった。癒衣は逃げるだけの時間があることを感謝した。
修夜は黙って癒衣の後を走っていた。思考は散漫として、めまぐるしく変わる状況を眺めているだけで精一杯だった。内心では自己紹介すらさせない癒衣の態度に不満を抱いていた。しかしそれでも黙ってついて行くのは、嘘偽りのない真剣な表情を見たからだ。それだけで修夜は今していることが自分達にとって最も必要なことなのだと信じられた。
町の雰囲気がだいぶ明るくなったとき、癒衣は足を遅めた。彼女は慎重に周囲に目配せをした後、振り返って修夜を見た。二人の目がかち合うとまた奇妙な沈黙が一瞬だけ二人の間を流れた。
「貴方の名前は?」
「修夜だ」
「私は癒衣。霧凪には何しに?」
視線も言葉も探り探りで妙にぎこちない。互いに相手を信じようという努力は見らるがいまいち実ってはいなかった。
「あぁ、いや……気付いたらこの霧凪とやらにいたんだ。俺は自分の過去を何一つ覚えていない状態で御守神社の横の森で目が覚めた。それから人の多い繁華街を目指して歩いている途中で君ら二人を見かけたんで後を追った。それからは君も知っての通りだ」
「記憶喪失? 嘘でしょ……」
癒衣は愕然とした。予想が音を立てて崩れて、瓦礫の下から嫌な予感が芽吹いた。
「いや。残念ながら本当だ」
「私は討魔士を殺した後のことを良く覚えていないの。良かったら何があったのか教えてくれる?」
「覚えていない? あの約束も忘れたってのかい? 君を助ける対価として俺を助けてくれるとそう約束したんだぜ」
嫌な予感の的中率はべらぼうに高い。癒衣はうぅんと唸ると何か考え込むように頭を垂れた。
「少しだけ考えさせてもらえるかしら?」
「ああ。もちろんだとも」
修夜はそれで思い出してくれる物だと期待のまなざしを向けた。癒衣はまた振り返って商店街を目指して歩き始めた。
癒衣も少年の言葉が嘘だとは思わなかったが、だからと言って鵜呑みにはしたくはなかった。主に気持の問題だが、唯唯諾諾として従うのと、自分もそう言ったと確信を持って約束を果たすのとでその心持ちは大きく違う。少なくとも不満の矛先を相手に向けられなくなる。
討魔士の靴のかかとは癒衣の目に焼き付いていた。背を向いたと知って無心で爪を放った。頭の位置も判らなければ、距離も当てずっぽうであった。一矢報いるというその執念だけが念頭にあった。
記憶では確かに討魔士は倒れたが、その後の記憶は曖昧だった。目的を果たした満足感から緊張の糸が途切れて、意識は暗がりへと落ちた。ただ、よくよく思えばその時に心動かされたような気もした。自分は何を感じたのか。癒衣は死の瞬間に思いを馳せた。
怒りと喜びがそこにはあった。死の際にあって解き放たれた原色の感情に触れると癒衣の記憶はありありとその光景を現した。
『身勝手な話だが。あんたなら俺を助けられると思ったからだ』
『……いいわ。お礼に助けてあげる』
癒衣はいよいよ困ったことになったと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。たった一言で交わされた約束は果たされたのだ。
次は自分が約束を守る順番であったが癒衣は乗り気ではなかった。修夜を助けること自体にはなんの不満もないが、自分の置かれた立場を考えると約束を守るが果たして良いことなのだろうか考えずにはおられなかった。
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