第一話:四月十二日:部外者

 木々はなぎ倒され、原形を留めない程に破壊されている物も見受けられる。地面はえぐられてそこら中に土や岩が飛散している。ちろちろと小さな火も踊っており、空気は焦げ臭い。

 ここで何が起こっているのだろう。少年は不安をかき立てる光景に戦きながら、破壊の痕跡を辿って林の奥へと進んだ。

 奥へ進むと土埃は濃くなり、血と汗とが混じった土臭さが充満している。倒れた木々の上にはその死を悼むように月明かりが注いでいる。中空に浮く土埃が光に照らされて空気そのものが輝いているように見えた。

 見るも無惨な光景を目の当たりにして少年は恐ろしくなり、とんでもない物の後を追っていたのではないかと後悔の念が沸々と湧いてきた。しかしここまで着て引き返すような正確でもなかった。彼は意を決して先へと進む。

 不意に空気が重苦しくなった。息が詰まるような熱気が立ち込めている。少年は思わず「うっ」と唸って後ずさった。

 厚くてゴツゴツした靴底を通して堅い感触が足の裏に伝わる。足下からミシッ、ボキン。と、予想より遙かに大きな音が林の中に響いた。


 闇に木の枝が折れる音が響いた。細木を折るような小さな音だったが、戦いを始めさせるには十分だった。

 先に動いたのは癒衣の影達であった。影は草を踏み、音を立てて、各々の目的の為に走った。

「発!」

 佐藤は草が立てる音を聞いて即座にその方向を指さして術を発動させた。

 指の先から雷がほとばしり、その先に倒れた木の残骸を撃った。雷を帯びた木は白く光り、バチバチと放電音を放ち始める。佐藤が左腕を正面に向けると振ると帯電した木から雷が迸り右隣の木に触手を伸ばして、同じように帯電させた。

 帯電した木と木の間では放電現象が起こり、不気味な音を立てている。まるで電流のバリケードであった。

 佐藤の目に癒衣の影が映った。直撃コースを走るそれは、放電する空間を避けることなく突っ込んできた。バチッと音がして光が瞬く。影は一瞬にしてその身を霧と散らして空に還った。

 ——囮か。

 佐藤はハッとしたように影の消えた場所を見た。癒衣が物質を実体化できるとは知らなかったので少しばかり驚いた。そんな彼に更に揺さぶりをかけるように左右から草を踏む小さな足音が響いた。

 佐藤は正面を向いた左手を右に向けてた。次いで頭上に弧を描くように左腕を動かす。綺麗な電弧でんこが空中に描かれ、放電で辺りを白く照らした。バリケードは正面と左右、そして彼の頭上まで覆っていた。

 水が低いところに落ちるように霊力が止めどなく術に流れた。霊力が流れる左手は熱くなり、反対に身体は体力と共に気力が抜け冷たくなる。疲労感が全身を襲い、意識が飛びそうになった。

 雷の術は強力無比だが維持するための霊力が途切れれば消える。戦いが長引けば長引くほど佐藤が不利になるが、彼はお構いなしに「増」と唱えて雷に送る霊力を増した。

 雷の強さが増し光と音は激しさを増す。同時に身体から抜ける霊力の量も激増した。放電は槍のように鋭く、長くなり、左右の音の主を突き刺したが、叫び声はなく耳を劈くような破裂音がしだけだった。

 ——これも囮か?

 その時、佐藤は背後に冷たい視線を感じた。彼は振り返ってバリケードを背後まで伸ばした。佐藤の目の端にはその向こうから駆けてくる影が映った。それは背を低くし、草のない地面を選んで蹴り、音もなく襲ってきた。佐藤は今度こそ本物だと確信した。

「増!」

 佐藤の言葉と共に雷は更に明るさを増して放電音は腹に響くような重低音に変わった。帯電した木々は電圧に耐えられず火花と煙を吐き出す。雷光は暗がりにいた影を映し出した。

「クソがっ!」

 真っ黒な瞳を輝かせた真っ黒な猫の影がそこにいた。佐藤は堪えきれずに大声で怒鳴った。又もや裏を掻かれた。しかしその事を後悔している時間はなかった。彼の耳は地を蹴る僅かな音を敏感に捉えていた。

 ——正面か!

 最も厚いバリケードが張ってある正面を突破するとでも言うのか。雷は易々と越せる物ではないと言う自信と、癒衣なら可能かも知れないという不安で佐藤の胃は収縮しキリキリと痛んだ。

「増っ!」

 叫びにも似た声が木霊する。両肩に重しが乗っかかったような猛烈な疲労が彼を襲う。雷は膨れあがり辺りを昼間のように明るく照らし出した。

 癒衣は止まることなく、頭からバリケードのに飛び込んだ。全身を黒い影で覆い、そこからは幾本もの黒い帯が出て地面に繋がっている。

 癒衣が雷に触れると光が激しく明滅し、空気をこすり合わせたような音が響いた。しかし彼女は無事であった。帯はアース線の変わりとなって癒衣に電気が流れるのを阻止した。

 佐藤は雷の中を通ってくる癒衣を見ていたが、身体は動かせなかった。腕を動かせば雷もそれに従って動く。しかし正面には雷を動かせる余地は残ってはいない。この狭い空間に雷を動かせば隣接する雷と交差し逆流が起こり術者を身を焼いた。

 癒衣が眼前に迫ってきていた。佐藤は全神経を右手に集中して彼女が一線を越えるのを待った。異変に気付いて対処するその前に癒衣を死が襲うその一線を。

 距離は二メートルを切っていた。そして一瞬と呼ばれる合間に距離は一メートル半を割った。気付けば佐藤は右手の拳を開いていた。


 目の前が真っ白い光に包まれたかと思うと地を震わせる大爆発が起こった。灼熱の炎は周囲三メートルを一瞬にして飲み込み、掻き消した。木も、土も、石も関係なくあとには灰燼かいじんだけが残る。放出された熱波で木は燃え、大きくその腰を曲げた。地面に落ちた残骸はロケット花火のように煙の尾を引いてすっ飛んでいった。

 硬くて熱い音と空気に身体を強かに打たれて少年は転倒した。彼の頭上を無数の残骸が飛んで行く。下腹部に響いてくるような音がのたうち回っている。空には濛々もうもうと黒煙が昇り、怪しげに揺れる赤やオレンジの光が辺りを照らしている。

「何が起こったんだ?」

 少年は背を起こし、炎の被害を免れた倒木の影に隠れて爆心地を見た。周囲の炎に照らされたその場所はどこよりも明るい。

 男が立っていた。炎よりも真っ赤な光を両肩から昇らせる男が立っていた。八方から炎の明かりに照らされて真っ白に見えるはずなのに、少年の目にはその男の回りが林のどこよりも暗く見えた。


 グワングワンと言う頭が揺れているような酷い耳鳴りがしていた。土煙が凪いだ空気にもたれかかり浮かんでいる。雷は爆発に霊力が割り振られた時点で持続不可になり消え失せた。後に残ったのは鉛のように重い身体と、疲弊しきった精神だった。

「……やったか?」

 衝撃で跡形もなくはじけ飛んだのであればそれでいいが、死んだと言う確証を得られるまでは気は抜けない。佐藤はスーツの内ポケットから術符を取り出して親指と人差し指で端をつまんで僅かに残っていた霊力を送った。

 両面に描かれた回路に光が走り、呪符が切れて無数の紙切れになり、風もないのクルクルと舞い、長さ二十センチ程度の何の装飾もない短刀に変化して佐藤の手の中に納まった。

 術を使うだけの霊力は残されていなかった。拳銃でもあれば良いのだが、荷物を用意した時点では必要になるとは思ってもみなかった。出だしから失敗したな。と、佐藤は過去の己を恨んだ。

 佐藤は腰を屈め、神経質な顔で周囲に目配せをした。疲労と緊張で濁った目はどぎつく輝いている。しかしそこにいるのは悪鬼でも狂人でもなく、疲労してなお仕事を果たそうとする一人の男である。

 彼は判定が出る直前の空気が嫌いだった。どちらが勝者でもおかしくはないような均衡した状態が最も嫌いだった。負けるかも知れない。その思いが胸に浮かび、その先が現実の物になるのかも知れないのが怖いのだ。

 ——いた。

 土煙が落ち着き、視界が晴れかかったその時、彼は地に伏せる癒衣を発見した。

 焦げて炭化しているように見えたが、夜の闇が見せた錯覚だった。癒衣は酷くただれているが炭化はしておりらず、手足がないのは上に見えている右側だけだった。

 ——死んでいるのか?

 佐藤は動かなかった。表面的な事象だけを見て迂闊に動くべきではなかった。

 刀を握る手を楽にして息を整える。体勢はそのままで、目は腹の辺りを注視した。癒衣の腹は微かに動いていた。浅いが、確かに呼吸をしていた。

 死の淵を彷徨さまよっているのか、彷徨っている振りをしているだけなのだろうか。癒衣ならやりかねないと佐藤は思った。

 何の恨みか執念か癒衣は五十年も姿を眩ませずにいた。討魔士を殺してその存在をアピールをして生きていた。その結果がここにあるが、ひっそりと隠れて生きていれば癒衣の生き様は大きく変わったであろう事は想像に難くなかった。

 あえて地獄を進ませたその原動力は死を前にしても少しも力を失うことはない。むしろ死ぬからこそ、思いは一層強くなるのではないか。死ぬのであれば討魔士を一人でも多く殺す。そう行った破滅的な思考に陥ってなんの疑問があろうか。

 ——面倒な事になったな。

 霊力を出し切ってしまったのが悔やまれた。火球の一つでも打てたらこんなに悩むこともなかった。そう考えると佐藤は急に手の中の短刀を憎らしく感じた。

 しかしこうして眺めているわけにもいかなかった。一か八かは彼の好みではなかったが、始めた仕事はどんな形にせよ終わらせなければならない。佐藤は踏み出そうと足に力を入れた。しかし足音は彼の思ってみなかった方向から聞こえてきた。


 ——どうすればいいんだ?

 少年は男の背を見ながら自問した。そして追いかけてきたことを今になって少しだけ後悔した。彼が望んだのは見通しの利く未来であって複雑な現在ではなかった。目の前の現実は自分が置かれた現在ををより複雑化させそうな予感を漂わせていた。

 男は少年の見ている目の前で刀を作りだし、幽鬼のような顔をして何かを探していた。その動きにつられて少年は男の回りに目配せし、影を見つけた。

 少年は土塊かと思ったが、土煙の中で薄ら輝く紅色の光を見て生物だと悟った。同時に、男が何を探してていて、何をしようかと思っているのかを少年は理解した。

 男から立ち上る光が赤黒く変色すると少年の不吉な予感は現実味を帯びてきた。

 土煙が途切れて隠されていた生き物の姿が露わになった。焼けただれて一目では分からなかったが猫のようであった。身体半分は焼けて跡形もないが、地面に埋もれかかった半身からそれと分かった。

 地面に半分埋まった顔についた目は見開かれて闇の中で爛々らんらんと輝いている。少年はその目を見て薄ら寒くなった。ここは殺し合いの終着地点なのだと息を呑んだ。

 ——このままだとあの猫は殺される。

 状況を見るとそれは確実だ。猫の目を見ているともう一つの可能性も捨てきれなかったが、希望的な観測と言わざるを得ない。鋼鉄の意志だけで絶望的な状況がひっくり返る事はないのだ。

 ——拙いな。このまま黙っていると勝手に選択肢が潰えるぞ? あの男が友好的とも限らないし……。

 少年は男に対しても猫に対しても深い関心を抱いていなかった。彼は二人の立場よりも自分の身の上を心配していた。傷つき倒れる猫に対して同情心を抱かなかった訳ではない。しかし、満身創痍まんしんそういの身で辛うじて立っている男を見ていると、否が応でも尊敬の念を湧いてきた。

 全力を出して猫に勝利したのだ。一歩間違えれば男が倒れていた可能性もあるのだ。目の前にあるのは死力を尽くした戦いの結果であって一方的な暴力ではない。そんな二人を見ているとどちらか一方に無条件に肩入れすることなどは出来なかった。

 ただ、二人が何者で勝敗がどうだったによせ、少年には全く関係のないことだ。彼から見れば二人はこの八方塞がりはっぽうふさがりの状況を脱するためのチケットでしかない。気にかけるべきは二人の立場ではなくて、どちらが自分にとって好都合なチケットであるかと言うことだけだった。

 片方が当たりならそれでよし、両方とも外れならまた別のチケットを探すだけだ。しかし目の前で一枚のチケットが破られようとしているのは見過ごせなかった。少年は勢いよく起ち上がり、男に向かってか歩き始めた。


「おい、そこのアンタ! 猫にとどめ刺すのはちょっとばかし待ってくれないか」

「……誰だてめえは。俺に何の用だ?」

 不意に声を掛けられ佐藤の心臓は跳ね上がったが、疲労がその心の機微きびを隠した。彼はそのままの体勢で、半ば怒鳴るように尋ねた。姿をハッキリと見たいと思ったがすぐ前に癒衣がいることを考慮すると振り向く事は出来なかった。

 ——声を掛けたって事はまだ殺すつもりじゃねえんだろう……泥棒猫か、それとも霧凪きりなぎ討魔士とうましか? どちらにせよ今は敵対するのは拙いな。

 霊力は回復しておらず、体力もギリギリ。今の状態で戦うのは無理な話だった。佐藤は下手に敵対して殺されるよりも話し合いで解決できないものかと思案した。目的は癒衣の死なのだから手柄をくれてやっても惜しくはなかった。

「別に誰でもねえよ。用ってのはその猫だ……アンタの勝ちは決まったんだ。命まで取ることはねえだろ?」林の静けさをも押し返す、凜として透き通った声だ。

怪異かいいを殺すなってのか? 馬鹿を言え。俺の仕事はこいつを殺すことだ。勝ち負けがどうのとかそう言う問題じゃない」

「それは悪いことをしたな。だが俺も人生が掛かってんだ。ハイそうですかとはいかんのさ」その口調は穏やかだが、力強さがあった。

 ぞっとする言葉だ。一瞬、佐藤は胸に圧迫感を覚えた。ガキが口にする一生のお願いじゃあるまいし、そう簡単に人生と言う言葉は出てこないだろう。

 ——この男は癒衣ゆいのなんなんだ?

 佐藤は嫌な予感がした。考えてもみなかった第三の可能性が急浮上して存在感を増してきた。癒衣ばかりに気を取られている場合ではない。もっと大きな危険が後ろから差し迫ってきている。彼は癒衣から視線を外し、肩越しに男を見た。

 視界の端に人の姿を捕らえる。佐藤より背が高く、髪は白く輝いている。薄明かりの下で深いキャメル色のジャケットだけが妙に目立って見えた。

 ——白髪? いや、だが声の調子はジジイじゃなかった。ガキだ。

「一先ず武器を降ろして冷静になってくれ。俺はアンタを傷付けたいわけじゃない」

 今時、映画でも聞かないような安っぽい台詞だと佐藤は思った。口調だけは相変わらずだが、端々からは強い意志と拒むのを認めない頑なさが見え隠れしている。その言葉は勧告ではなく命令であった。

 男の口調と疲労とが相まって佐藤はいよいよ腹立たしくなってきた。会社の命令で霧凪きりなぎに赴き、正当な手続きを踏んで活動しているのだ。そこには何の落ち度もなく止められる謂われはない。また、社会的観点からも推奨されるべきは佐藤であって止めに入った男ではなかった。

 社会秩序を乱し、人に仇をなす怪異は殺せ。それが社会正義であり討魔士が存在する唯一の理由だ。

 堪らず佐藤は身体の向きを変えて男を睨み付けた。癒衣に構っていられる状況でもなく、また瀕死の癒衣よりも男の方が遙かに危険だと判断した。

 男の背は百八十センチ前後で、肩の盛り上がりは服の下にある筋肉質で屈強な肉体を端的に現している。キャメル色のシングルライダースを羽織り、その下には白色のカジュアルなシャツを着ている。黒色のデニムに黒色のブーツは男が影の中から浮き出ているように錯覚させる。

 髪は拠る年月から来る白とは比べものにならないほどに濃く、真珠の様に輝いている。顔の半分はすだれのように垂らされた長い前髪で隠されているが、顔の半分を見ればその顔貌がんぼうを知るには十分だ。佐藤が思った以上に男は若かく、美しかった。

 二十歳にも満たない男は佐藤の目から見ても非常に優れていた。眉目秀麗びもくしゅうれいで男らしいが、同時にどこか色気があった。照る月の魔術か、破壊された土地の呪いか。佐藤の心はざわついた。美しさよりも思うよりも不気味さが際だった。

 佐藤は気付いてしまった。闇に中でも輝く、癒衣と同じ黄金色の瞳を。

 人ならざる者。泥棒猫でも霧凪の討魔士でもない、あってはならない第三の可能性が現実となった。

 本能がけたたましい警報を上げた。危機感が押し寄せて身体を突き動かす。佐藤の身体は手に持った刀を敵に首めがけて振るっていた。

 身体が成すべき事をしていた最中、頭はやや遅れて理解した事を言語化していた。

 敵を殺さなければ死ぬ。

 少年の目が大きく見開かれた。驚きに彩られその瞳に自分が映っている事を佐藤は見ていたが、少年が本当に見ている物には気付けなかった。

 スイカを叩きつぶしたような鈍い音が響いた。堅い頭蓋骨は簡単に砕け、中からは柔らかい肉と液体が弾けた。飛び散った肉のほとんどは衝撃で横に飛んだが、一部は少年の上に降りかかった。

 少年は咄嗟とっさに手で防いだが、防ぎきれるようなものでもなく、ジャケットにはクランベリーの果汁を垂らしたようなシミが出来た。

 唐突に置物を奪われた首は接合部分を世に晒し、胴体へと伸びる穴からはヒュゥと言う得も言われぬ物悲しげな音が一つした。佐藤の——佐藤だった——身体は糸の切られた操り人形のように崩れ落ちた。

 林の中はこれまでにないほどの静寂で満ちた。誰も何も言わなかった。少年は惚けたように佐藤の頭があった空間を見て、癒衣は残った目で立ち尽くす少年を睨んでいた。


 目の前で人が死んだというのに言葉が出なかった。夢幻ゆめまぼろしかその類いにしか感じられないが、手に残った肉の暖かさや感触、こびりついた血は明らかに現実であった。

 彼は手について血や肉片を拭った。しかし男の死はベットリと、心に奥底にまで染みついて拭い取れる物ではなかった。目を瞑れば男の頭が弾けた瞬間がフラッシュバックのように闇夜から浮かんできたが、二度、三度と深呼吸をして落ち着きが戻ってくるに連れてその光景は悪夢の如く闇の中に呑み込まれて現れなくなった。

 まともな精神状態であれば死に対する反応も違ったであろうが、周囲の状況が夢と現実のと境目を曖昧にしていた。男の死と言う社会的な事象も絹を一枚隔てたように輪郭がぼやけ、現実的な『重さ』がまるで感じられなかった。

 少年は癒衣と呼ばれた猫を見た。真っ黒いだけに見える猫はゼエゼエと苦しそうに呼吸をしている。

 やや時間をおいて少年は口を開いたが、すぐにつぐんだ。なにも殺すことはなかったのに。そう非難しようとしたが、男の言葉が思い出されて喉に詰まった。

『俺の仕事はこいつを殺すことだ。勝ち負けがどうのとかそう言う問題じゃない』

 殺すことを前提とした戦いと言うことだ。殺すこともなかった。と、言う言葉はあまりにも他人事然として無責任に感じられた。あのタイミングで自分が声を掛けなければ結果が百八十度変わっていただろう事実も彼の心を重くした。

 俺があの男を殺し、この猫を生かしたのだ。誰かを頼りたかっただけなのに、結果として噛み合っていた歯車を狂わせて命の責任を追うことになった。少年は双肩そうけんに二入の命がのし掛かってきたような重苦しさを感じたが、嘆いている時間はなかった。

 頼れる者は猫ばかりなのである。その猫も生き延びたとは言えないような状況だ。少年は死体を避けて、猫の側で片膝を立ててかがんだ。

「大丈夫か?」

 大丈夫な訳がないと思ったが、それ以上の言葉が思い浮かばなかった。

 ——そもそも、俺はこいつに何がしてやれるんだ?

 自分の事ばかりで猫の様態について気を回していなかったが、少し考えれば分かることである。彼には猫に対してやれることは一つもないのだ。少年の背筋を冷たい物が滑り落ちた。

 しばしの沈黙。少年は猫の目を真っ直ぐに見ていた。その姿はまるで猫が返事をするのを当たり前のように待っているふうにも見えた。少年を見つめ返す猫の目は死を前にしても強さも失わず、激しい敵意が込められている。ただの猫が見せるにはあまりにも気高く、そして意固地だ。

「傷、深いんじゃないか?」

 少年は手を差し出した。それでどうにかなるものでもなかったが、猫のテリトリーに少しでも入り込みたかった。しかし彼の思惑とは逆に、猫の目は鋭さを増して、身体から放たれる光の帯はより赤黒く変色する。まるで傷から流れる鮮血が空に昇っているようだ。

「……じゃ、ない……わよ」

 少年は猫の気持ちが昂ぶるのと平行して指先に気色の悪い疼きを感じた。思わず手を引っ込めそうになったが、意思の力で押さえつけた。理性はそれを愚かだと嘲ったが、同時にそれが正しいとも言っていた。

「……近寄るんじゃないわよ!」

 猫の悲痛な叫び声と共に、差し出してた手の人差し指の先で光がきらめき、軽い衝撃が伝わってきた。

 斬られた! しかし人差し指に痛みは感じなかった。少年ポカンと口を開けて指先と猫を交互に見返した。

 男の頭を木っ端微塵に吹き飛ばしたモノに違いないない。しかし指先が同じようになくならなかったのは、運ではなく猫の優しさだろう。

 少年は安堵したのと同時に猫に対して深い情を感じた。死を目前にして己を律し、見ず知らずの他人に甘えず、思いやりすらかけた。最期まで自我を通そうとするその愚かなまでの気高に少年は心打たれたのだ。

「済まない……だが今はそんなことを言っている場合じゃないだろ?」

「ほっとき……なさい」

 血混じりの咳をしながらも猫は怒った口調で返す。言葉に力はなく、目はどんよりとして虚ろだ。瞳の奥には今だきらりと光る殺意があるが、直にそれも濁るだろう。朦朧もうろうとして今にも途切れそうな意識を気力だけで辛うじてつなぎ止め、命を削って口を動かしている姿は見ていて痛々しかった。

「……絶対に放っておかない。だから病院へ連れて行かせてくれ」

 少年はグイと猫の側まで顔を寄せてに目を見た。二人の顔は拳一つ分の空きがあるかないかのところまで接近している。彼も死に物狂いであった。態度を軟化させるには自らの命を供物くもつとして覚悟を示すしかないと腹を決めた。その決断力は性格もあるだろうが、自分に何もないという捨て鉢な考えがあったのも事実だ。

 猫の目が俄に大きく——注視しなければ判らないほどに僅かだが——見開かれた。その目は「とんでもない馬鹿が目の前にいた」の一言をありありと語っていた。狂気と紙一重の覚悟。その不合理が同じく不合理に捕らわれた猫の心に驚きと共に届いた瞬間だった。


「なんでよ……」癒衣ゆいは呆けたように呟いた。

 割の合わない努力で辛うじて保っているに過ぎない頭でも、少年の行動が非合理的である事はわかった。既に警告はした。目の前の少年はそれを理解していないのだろうか。それとも理解した上でそうしないと高をくくっているのだろうか。自分は死なないと思っているからだろうか。

 取り留めのない考えが浮かんだが、すぐにどうでも良くなった。聞いてどうなる問題でもないのだから、最後まで聞いてあの世への土産話にでもすれば良いと思った。

 癒衣は自らの死を認めてしまった。僅かに残っていた生きる希望は失せて、死を迎え入れる安らぎに取って代わられた。もはや生きるために必要なものは出尽くしていた。痛みは遠く、身体が酷く冷えた。意識は恍惚こうこつとして、おかしさすら感じていた。彼女の顔には微かな、それでいて人をゾッとさせるような血まみれの笑みが浮かんでいた。

「身勝手な話だが。アンタなら俺を助けられると思ったからだ」

「あは、馬鹿ね」癒衣はまた弱々しく笑った。

 死にゆく者に未来を託す。無茶な要求だが、癒衣は心惹かれるものがあった。死んでしまった者の為に生きた猫の最期にふさわしい、愚かな願いではなかろうか。

「……いいわ。お礼に助けてあげる」そう言って顔を歪ませると癒衣の意識は唐突に闇に中に落ちた。


 猫の全身から力が抜けて地面に伏せった。少年は猫が死んだのだと早とちりしたが、どうやら緊張の糸が切れてそのまま失神したようだった。彼は火傷した半身に触れないよう猫を抱きかかえた。

「何がアンタを突き動かしているんだ?」少年は傷だらけの猫を見て呟いた。

 男を殺したあの行動は本能に根ざしたものではなく、もっと人間的な負の感情が猫を突き動かしているようにしか思えなかった。

「……いや、今はそれよりも病院だ。町が近いんだ……病院の一つや二つあるだろう」

 少年は気を取り直し、残骸が倒れた戦場跡を迂回して来た道を戻った。

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