第一話:四月十二日:癒衣対佐藤

 公園の頂上へと続く斜面を駆け上ると視界が開けた。木々はなく野原が広がっている。野原の奥には黒い壁のように見える林があった。

 野原を横切って林に飛び込むと一瞬にして暗くなり静寂が身を寄せてきた。町独特の脂臭さは薄れて、葉や土の青臭さに変わる。心地よく眠っていた林に殺意が猛烈な勢いで伝搬して小動物達を震わせた。

 強かに踏みつけられ、蹴られる木はミシと音を立てるが耳に届く前に闇に吸い込まれるようにして消えた。この中では音も光もそう長くは保たない。

けん、汝は土。汝は我が指す敵の道を塞ぐ」絡みつくような声が静寂の奥から響いた。

 癒衣ゆいの前方に長方形の土柱が迫り出すが、彼女は木の幹を蹴って柱を横に避けた。声を聞いた後では避けるのは容易い。

「爆ぜろ!」

 土柱が爆発四散して周囲を打った。木は抉られ、折られ、ミシミシと言う粘りのある音を立てて倒れる。癒衣は自分お頭ほどもある土塊に強かに横腹を打たれてはじき飛ばされたが、身体を捻り、地を蹴って止まることなく先を進んだ。

 打たれた横腹はズキズキと痛んだが骨や内臓にはダメージはなかった。インによって骨密度や筋繊維の質量を増して肉体の硬度を高めてダメージを軽減したのだ。

 癒衣が霊爪れいそうを放てば佐藤もそれに合わせて攻撃を仕掛けた。二人の間の物はそれがなんであれは前後から飛んでくる暴力になすすべもなく破壊される。そのやりとりは町のそれよりも遙かに苛烈であった。

「顕、汝は指針。続く者を導く」

「顕、汝は炎。汝は我が命に従い生き、そして爆ぜる」佐藤は印を結んだ右手に、次いで右手に呪文を唱えた。

 彼の手から野球ボールサイズの火の玉が放たれる。火の玉はまるで目でもついているかの如く癒衣の後を追って林の中を縦横無尽に駆けた。近付く物は燃えさかり、触れた物体は灰燼と帰す。

 がむしゃらに逃げてようやく佐藤の視界から逃れられたかと思うと、用事はなくなったとばかりに火の玉は爆発をして辺りに炎を撒き散らした。粘液質の炎は木や地面に付着してそこからジワジワと中を焼いた。

 火の玉の直撃をなんとか避けられた癒衣であったが、代償は大きかった。

 僅かに擦っただけだが左足は肉は焼け焦げて骨が見えている。火傷を中心にして毛も焼けてその下の地肌が覗いていた。熱で固まったのだろうか血はそれほど流れ落ちていない。尻尾は先の方が完全になくなった。

 風に吹かれるだけで飛び上がりそうなほどに痛んだ。しかし問題は傷の具合よりもあと何度、本気で地面を蹴られるかであろう。相手は怪我を気遣って勝てるような相手ではなかった。インで強化をすればまだ使い物になるが、限界を見誤れば脚を失う事になる。そしてその限界はやってみなければ分からなかった。

 ——こんな傷を負わされたのは何年ぶりかしらね。

 ここまで酷い傷を負わされた事は数十年来であろう。それ以降、癒衣が戦った討魔士とうまし達は皆押し並べて技術的にも精神的にも未熟な半人前ばかりだった。しかし目の前の討魔士は違う。技術的にも精神的に成熟した、タフで自分を知っている討魔士だった。

 どうしてそのような討魔士が現れたのかは常円とこまどかの情報から隔絶された癒衣には知る由もないが、光矢社が本腰を入れたのだしか考えられなかった。このような討魔士が来るように仕向けたのだ。

 ——私もいよいよ年貢の納め時のようね……けどただじゃぁ死なないわよ。


 佐藤は肩で息をしながらも油断せずに周囲を見張っていた。

 身体は傷つき、服には血が滲み、乾いていない血が滴り落ちていた。額は汗でびっしょりと濡れて、心臓は破裂せんばかりに動いている。意識は少しばかり鈍くなり集中力を保つのが次第に難しくなっていった。霊体れいたいが疲労し始めた兆候である。身体を動かせば体力を消耗するのと同じように霊力を使えば霊体が消耗する。

 こんなにも苦戦するとは佐藤も思っていなかった。化け猫を相手にしていると言うよりは老練な討魔士と戦っている気分だ。圧倒されるようなパワーはないが行動の一つ一つが嫌みったらしいほど的確でそつがない。

 何度、自分の思考が読まれていると疑ったことか。佐藤は歯ぎしりをして闇を睨み付けた。

 ——五十年も逃げ延びたからってこうはならねえだろう。

 癒衣の知識や技術が経験だけで身につけられたとは佐藤には到底考えられなかった。高度な訓練を受けた討魔士。そう考える方がずっと自然だった。

 ——ずっと野良だった訳じゃねえな……恐らく業界から落ちた使い魔か何かだろう。

 ただの狩りだと思っていた仕事がいつの間にか命をかけた真剣勝負になっていた。クソみたいな仕事にクソみたいな敵。つくづく運がない。そう自嘲する佐藤の顔には見るも恐ろしげな笑みが張り付いていた。


 林は空爆でも受けたかのような凄惨な姿に変わっていた。全て被害を受けているか、受ける運命にあった。ある木は衝撃でへし折れ、ある木はずたずたに切り裂かれ、ある木は灰と化していた。地面はあちこちがひっくり返されて耕す前の畑のようになっている。

 その中で無数の音と光だけが、何処か遠い国の出し物のように儚く弾け続けた。暴力と血が練り込まれた闇とは正反対の美しさだが、この光と音を死の権化だ。

 度重なる攻防の中で癒衣ゆい討魔士とうましの能力を看破した。彼の両手には術の回路が組み込まれており、指の形と呪文で発動させる術を切り替えられた。口語術の決まり文句の一部を変えることで発動させる現象やその動作を変化させているようだった。

 二本の腕と十本の指から作ることが出来る回路の組み合わせは途方もないが戦いの中でも癒衣が見たのは精々三つか四つの術だけだった。隠し球の他にも戦いでは役に立たない、詮索系の術の回路も組み込まれているのだろう。

 重要なのは討魔士が一度に使える術は腕の数と同じ二つと言うことだ。腕一本につき術一つ。所作と口頭呪文からなる術を更に簡略化して即効性を求めた結果として生まれたスタイルだろうと癒衣は思った。それでも一定の距離を保って近づけさせないのは出足の速さでは絶対に順性じゅんせいには敵わないと分かっているからだ。

 癒衣は木陰から首を出した。十五メートルばかり先の木の陰に佐藤がいて、こちらを伺っていた。聞き耳を立てていれば荒い呼吸音すら聞こえてきそうだ。走れば一秒足らずの距離だったが、佐藤は頑としてこれより先に彼女を近づけさせなかった。この距離が佐藤が自分とまともに打ち合える距離なのだ。

 接近すれば勝てる。難しい事だが、その壁を越えてしまえば勝つのは容易い。

 ——もうどれだけ時間がったのかしらね……。

 体感的には一時間近く戦っているような気持ちだったが、実際にはまだ十分も経っていないのだろう。乱痴気騒ぎにも似た戦いの中に身も心も預けていると不思議と時間の流れが遅く感じる。

 戦いは収束に向かっていた。林は何かを待つように静まりかえっている。荒かった呼吸は落ち着きを取り戻しつつあった。この静けさは一瞬で全てを破壊して無に帰すような大きな嵐の前に訪れる静けさだ。一息ついた癒衣は戦いを終わらせるべく背を屈め痛む左足を引き摺りながら横へと移動した。

 癒衣が猫の影の姿を思い浮かべると、足下に伸びる影から真っ黒い猫が浮かび出た。

 薄い影を固めて作った猫型ねこがたは陽炎の様にぼんやりとしていて輪郭は曖昧だ。頭には黒々とした目だけが闇の中でも爛々と輝いていたが、それ以外のパーツはなく、本来、鼻と口のある部分はつるりとしていた。

 影がより固まって出来た猫。意識の中のものが霊体を通して物質世界に実体化したそれを彼女はかげと呼んでいた。

 影は少しの間、癒衣の後について歩いていたが途中で道を別って闇の中へと消えた。癒衣は同じようにして正味四体の影を作り出して林の中に放った。

 佐藤は癒衣が動き出した事に気付いていたが行動は起こさなかった。癒衣と同じく戦いの終わりが近付いていることにを予感して呼吸を整えてその時を待っていた。次に打って出るのは地面にコインが落ちるのと同じくらい些細な切っ掛けが合ってからだと決めていた。

けん、汝は雷。汝は我が指す敵を撃つ」左手に呪文を呟いた。

 ——あと一手はどうする?

 安全を考慮するのであれば、風をまとい素早く逃れられるようにするのが賢明だが、安全策を考慮して勝てるような相手ではなかった。傷ついた自分の身体を見て、佐藤は今更ながら癒衣の強さを実感していた。

 化け猫と戦っていると考えていたら負ける。四度目に術を交え、すんでの所で腕を失うのを防いだ直後に彼は癒衣を実力の対等な敵と認めていた。林に入る前にその判断を下しておけばどれだけ良かっただろうか。そうすれば木の後ろに身を隠している状況に陥ることもなかった。佐藤は悔やんで悔やみきれない思いだった。

「顕。汝は衝撃と炎。我が拳に汝を込める。拳が開かれるとき汝は出でて全てを呑み込む」佐藤は右拳に呪文を呟いた。彼は癒衣が自分の懐に飛び込んでくる物だと確信していた。それ以外の行動はこの場面にはふさわしくない。

「……」

 呪文を唱え終わり、口をつぐむとたばこの残り香がした。口の中はカラカラに乾いて舌が上あごに引っ付いた。彼は腕時計を見たい衝動をとこらえて癒衣がいる方に集中した。既に準備は出来ていた。彼らは待った。動き出すための小さな切っ掛けを。

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