第一話:四月十二日:夜の姿

 六畳ばかりの応接間は行き詰まるような深閑に包まれていた。

 時を留める重しでもあるかのように大きく、厚ぼったいマホガニーのテーブル。手もつけられず置かれた湯飲みの水面は鏡のように天井の灯りを映している。テーブルを挟むよう置かれた上品なソファーには二人の男が差し向かって座っていた。

 上座にいる初老の男は背筋を真っ直ぐに伸ばし黙っている。その顔は岩のように頑なにも、絹のようでに柔和にも見えた。

 嫌な顔だ。一目見たときから佐藤は初老の男が何を考えているのか読めないでいた。

 討魔士とうましをやっていれば少なからずそんな顔つきになるがこの男は特に重症だ。長いこと闇の中で息を殺して、そうして最後には自分の感情をも殺してしまったのだろう。男は決してそうだとは言わないだろうが、顔に深く刻まれたシワの一つ一つが雄弁に語っていた。

 佐藤は目の前の男から目を外して「ええ、それではこれで」と、軽い会釈をしてソファから起ち上がった。厚手の柔らかいカーペットを通しでも、下にある厚く堅いコンクリートの感触が足に伝わる。

 佐藤の正面にいた初老の男も席を立つ。二人が立つのを見計らった様に音もなく、一つしかない扉が開いて若い——出迎えにも現れた二十五歳くらいの——男が顔を覗かせ、お帰りはこちらですとでも言いたげに軽く笑みを浮かべた。

「……くれぐれも、目立たぬよう願い申します」

 佐藤がドアをくぐると初老の男が厳かに言った。佐藤は「この地を騒がせるような事は致しません」と振り向きもせずそう答えるとドアが音もなく閉まった。

 部屋を出ると一面コンクリートの廊下であった。長さは十メートルほどあり、今の扉を含めて六つの扉があった。表札もなく、どこにつながっているかはわからないが、佐藤は知りたくもなかった。

 ——ここは怪異かいいの腹の中だな。こことは言わずどこのやしろでもそうだが。

 佐藤は前を歩く男の後頭部を見ながら思った。自分はこの男の気持ち一つで殺される場所に立っている。社同士の関係がある以上、そんな暴挙が起こるはずはないが、出来るか否かで言えば確実に出来ることだ。

 ——社の空気がやたらぴりぴりしている気がするな。

 霧凪きりなぎで活動する事に対して霧凪社きりなぎやしろがなかなか首を振らなかったという事前情報から来る先入観と思いたかったが、得体の知れない、肌を刺すような緊張感は決し思い過ごしなどではなかった。

「……ちょいと聞きたいんだが、この町でなんかあんのかい?」

「ええ。ちょっとした」長い沈黙の後、男がそう答えた。

 そこには立ち入った事は聞くなと言う無言の、そしてあからさまな圧力があったのは言うまでもない。佐藤はその態度が気に障ったが言い返すのは藪蛇やぶへびだと思い黙った。

 階段を登ると料亭か旅館を思わせる広く明るい廊下に出た。地下の光景から想像も及ばない立派な作りだ。珪藻土けいそうどの壁にオリーブ色の柱。床は壁に合わせるように明るい木が敷かれていた。ただ、空気だけは地下だろうが一階だろうが変わりはしなかった。そこは依然として怪異の腹の中だった。

「庭先までお送りします」男が玄関の扉を開きながら言った。

 佐藤は返事をせず、靴を履いて、男が開いた扉をくぐって庭へ出た。

 庭には一面に玉砂利が敷いており、歩く度にジャリジャリと音が鳴る。大きな石や松などの庭木は一本もなく隠れる場所は一つもなかった。時代錯誤のふざけた基地だと佐藤は思った。社同士の抗争なんて昔の話だ。

「……霧凪から早く離れることですね」佐藤が屋敷を出る直前、酷く不遜な事を青年が言った。

「忠告痛み入る」佐藤は顔色も一つ変えずそう言った。


 家を出るとそこは高級住宅街の路地であった。道幅は広く、街灯は真新しく目も眩むように明るい。真向かいの家は古めかしい洋風建築で、二階部分には背の高い窓ガラスがまるで佐藤を見下ろすようについていた。

 この家も霧凪社の所有物だろう。佐藤はそのガラスの向こうから冷たい目が自分見ているような気がした。

 早いところこの場所から立ち去った方が良さそうだった。佐藤は早足でその場を後にした。

 

 霧凪社を後にした佐藤は住宅と駅前の商店街の間にある草原のような公園の中に来ていた。彼は辺りに人がいない事を確認すると右手の親指と人差し指で短い毛が入ったビニール袋をはさみ、袋に耳打ちするように呪文を唱えた。

けん、我は癒衣ゆいを求める。我は手中のえにしにより汝の場所を求めん」

 呪文を唱え終わると袋の中の毛は風の吹かれたように微かに揺らいで毛先で商店街を指した。

「近いな……商店街の中なのか?」佐藤は目の前にある商店街を一瞥した。


 公園に正面を向けて軒を連ねる店は灯りを落としているが、そこには昼間の活気が残り香のようにあった。ガス灯を模した逆さ台形の街灯が人もいない遊歩道をオレンジ色の灯りで照らしている。深い夜の静寂の下で眠るその町の景観は何処か十九世紀かそれ以前の時代のロンドンを思わせた。

 冷たい夜風が吹いたが毛はその風とはまったく無関係に、電圧を加えられた水晶振動子すいしょうしんどうしの様に小刻みに震えている。佐藤は身を切るような風の冷たさに思わずため息をついた。東京を中心にして関東一帯で活動する彼にとっては北国の寒さは堪えた。

 商商店街の入り口にはアーチがあり、そこの看板には『風杜商店街かざもりしょうてんがい』と書かれていた。彼は街灯の灯りを避けるように薄暗い路地に入った。

 手元の毛は今や垂直に立ち、弾けんばかりに震えていた。

 ——近いな。百メートルの範囲内いると考えて良いだろう。

 佐藤は右手の輪を崩して印を解いた。震える毛がピタリと止まる。彼はそれを乱暴にスーツの内ポケットに仕舞い、印を解いたばかりの右手でまた印を切った。

 流れるように動く指は最後には中指と親指で輪を描き、その輪の中から淡く光る一筋の煙が湧いて出た。煙は風もないのに一方向に揺らぎ、二十センチばかりの帯を描いていた。これあ近距離用の探査術たんさじゅつで、指の動きだけで発動させることが可能であった。

 佐藤はたなびく煙の尾の向いている方角を睨んだ。雨風に晒されて薄汚れた壁があり、その上を見れば店舗の二階部分が壁のように立ち塞がり、屋根と屋根の僅かな隙間からは川のような夜空が覗いていた。

 佐藤は手早く周囲の気配を探り、辺りに人がいないことを探った。

 いくつかの気配が周囲に存在している。寝ている者、落ち着いている者、酔っている者。そう言った油断した人間の気配だった。路地には監視カメラもなく、この瞬間、この世界には佐藤の存在を見ている者は誰一人としていない。

 ——戦いの始まりだ。

 佐藤は屋根と屋根の間に見える夜空を見て凄みのある笑みを浮かべた。

「顕、我は汝、風を求む。汝は我を空へと引き上げる者なり」

 佐藤が左手で印を切って呪文を唱えると、周囲の空間が滲んだような明かりを放つ。軽く膝を曲げ、垂直にジャンプすると佐藤の身体は風に舞い上げられたように高く飛び上がり、屋根の上へと躍り出た。

 商店街には高い建物もなく視界が大きく開ける。屋根の連なりはうねる海面のようで、灯台の如く輝く駅舎まで続いていた。佐藤は手の中の煙が棚引く方向へ跳ぶ。

 トン、トン。と、大粒の雨が屋根を打つような音を立て佐藤は跳んだ。屋根の上に着地した後は必ず背を低くし、月明かりで影が歩道に落ちないよう注意した。

 進む毎に煙は濃く短く。煙はいつの間にか斜め下に垂れていた。

 ——近い。後十メートル弱、二軒先の路地か。

 佐藤は目を細め、息を殺し、霊体れいたいを小さくして不活性な状態に移行させた。

 癒衣の詮索能力がどれほどの物かは情報になかったが、この先は薄氷の上を歩くように進まなければ即座に関知されるだろう。化け猫は人より遙かに感覚が鋭い。その上、癒衣は五十年も討魔士から逃れ続けた実績があった。

 佐藤は癒衣の討伐依頼書を思い出した。それは彼が所属する光矢社こうややしろが今より五十年も前に常円とこまどかに出した依頼書であった。

 五十年前だがその時代には既に光矢社は東京屈指の大社おおやしろで、常円から依頼を受けることはあってもその逆はなかった。その大社が化け猫の討伐依頼をわざわざ常円に提出するというのだから奇っ怪な話だった。

 ただその依頼の背景を知る者は社にはおらず、佐藤も調べるだけの時間はなかったので理由は終ぞ闇の中だった。しかし、彼はその依頼書に光矢社が持つ底意地の悪さみたいなものを感じていた。

 化け猫みたいなすばしっこい怪異は若い討魔士でも忌諱きいする傾向にある。それに加えて癒衣の首に掛かった報酬は平均より幾らか安かった。これでは腕の立つ討魔士はまず依頼を受けない。受けるのは報酬よりも経験を積みたいと考えているような、熱心で実力もない若者ばかりだろう。

 癒衣の実力がどれほどのものかは佐藤には分からなかったが、今まで生きていると言うことはそういうことなのだろうと思った。

 殺すための依頼ではなくて生かすための依頼だ。生きて地獄を歩ませるための依頼だ。光矢がどんな理由でそんな悪意に満ちた依頼を出したのか。そんなことは佐藤にはどうでもよかったが、五十年後の今になって無関係の自分が尻ぬぐいをする羽目になったことは不満ではあった。

 ——お前がどれだけの討魔士を殺したかは知らないが、これまでのようには行かんぞ。

 佐藤は音もなく忍び寄る秋の夕暮れの如く、素早く路地へと近付いた。


 その夜はいつになく優しかった。普段は薄暗い路地裏にも春の風が吹き、月も柔らかな明かりを注いでいる。路地裏から垣間見える町は薄暗く、人通りもないが、癒衣ゆいにはこの上なく心地よく感じられた。

 彼女は空に浮かぶ月を見上げて我知らずため息をついた。こんなセンチメンタルな夜は昔を思い出す。

 ——嫌なものね。

 憎らしげに月を睨んだ。眺めていると月は精細さを増して、反対に闇は色彩を失って一色に変わった。気付けば真っ黒な軒の額縁の中には藍摺絵あいずりの月夜があった。

 癒衣の胃は思わず縮み上がった。直線の額縁を崩す、こぶのように出っ張った曲線。人工物のなかにある自然。それは紛れもなく屋根の上に立つ人の影であった。

 癒衣は弾けるように飛んで路地裏から逃げ出した。


「ちっ運の良い野郎だ!」逃げ出した癒衣を見て佐藤は思わず毒づいた。

 気配に気付いていた様子はない。恐らく偶然に上を向いて、覗いていた自分の身体を目に止めたのだ。

 佐藤は場所もわきまえず空へ飛んだ。彼の身体は夜空へと吸い込まれるように空か高く飛んだ。癒衣は背を低くして地を蹴った。彼女の身体は地に落ちる闇の中に溶け込んだ。


 商店街をジグザグに駆け、線路を飛び越すとそこは住宅街の端であった。建物の高さは不揃いで、マンションがあると思えばそのすぐ横には平屋がある。建てられた時代も形もまちまちで計画性のかけらも見受けられない。

 癒衣は屋根を蹴り、そのまま駅から離れるように駆けた。佐藤も彼女から目を離さず、影法師かげほうしの様に後を追いかけた。

 ——ここら辺の討魔士じゃぁなさそうね。

 癒衣は暗く落ち込んだ住宅街を駆けながら、肩越しに討魔士とうましを見た。

 ツーピースの地味なスーツにどこにでもいるような地味な顔。年齢は四十前後で目だけが異様に輝いている。近年ではよく見るタイプの一般的な討魔士だった。

 外見からはどこの討魔士かは分からないが、商店街の中でちょっかいを出してきたと言うことは地元の討魔士ではないだろう。

 風杜商店街かざもりしょうてんがいは社と深く関わり合いのある店が軒を連ねており非戦闘地域に指定されている筈だった。誰かから聞いたわけではないが、今まで商店街で出会った討魔士は一度たりとも彼女を襲うことはなかったので推測は正しいだろうと思われた。

 ——だとしたら殺して構いやしないわよねぇ。

 霧凪の討魔士なら後々の事を考えて逃げるところだが、何のしがらみもない外の討魔士を生かしておくつもりは毛頭なかった。その上、癒衣はいつになく気が立っている事を実感していた。

 討魔士に気付かなかった自分の愚かさも、月に昔を思っていた自分の弱さも、こんな夜に現れた討魔士も彼女をいらつかせた。

「……行くわよ」

 癒衣は弓形の爪を強く思い浮かべた。すると彼女の霊体が震え、中空に想像と寸分違わぬ霊力れいりょくの爪が出現する。霊爪れいそうは歪んだ音を立てても、勢いよく飛び出して佐藤に斬りかかった。

 霊爪が佐藤の首を着る瞬間、彼は身を翻して紙一重で避けた。空を切った霊爪は己を形作る霊力が尽きるまで飛び続けてやがて消えた。


「ふん、挨拶代わりにしちゃ随分と優しいじゃねえか」佐藤はあざ笑い、呟いた。

 癒衣の放った霊爪れいそうの出足は緩慢かんまんで動きに鋭さがなかった。牽制けんせい威嚇いかく。そう言った類いの行為だろう。その目的は倒すことではなくて敵の闘争心を燃え上がらせる事だ。

 癒衣は俺に攻撃をさせたがっている。佐藤は癒衣の心の動きが自分のことのように分かった。そう言った行為は自分でも身に覚えがあった。余程の自信家でない限り、誰でも敵の手札を見たいと思うものだ。

 イン能力の戦いとなれば知識量がものを言う。敵の能力を知って初めて戦いのスタート地点に立てる。そう言う意味では癒衣は今だ戦いのスタート地点には立てていなかった。佐藤は癒衣が順性じゅんせいの生まれで、具象化ぐしょうかと肉体強化を得意としていること知っていたが、癒衣は佐藤の能力を何一つ知らない。

 癒衣が自分の能力を知ったところで勝てるわけないと言う自信が佐藤の胸にはあった。癒衣は何年生きようが所詮は猫の化け物で、自分は人間の討魔士なのだ。絶対的な種族の差、絶対的な霊体の大きさがそこには横たわっていた。

 ——期待に応えてやってもいいが……。

 佐藤がそう思っていると癒衣の背の辺りが淡く光り、今度は先ほどの一撃とは比べものにならないほど速い霊爪が飛んできた。彼は足場を蹴って大きく攻撃を避けた。しかし癒衣はその動きに合わせるようにして更に霊爪を撃ってきた。に速く的確な軌道を描くそれは牽制ではなかった。

「ちっ、あぁそうかよ! だったらお望みの物をくれてやる……顕、汝は力。汝は我が指す敵を斬る」

 佐藤は左手の親指と人足し指で輪を作り、手のひらを下にして、残った指で癒衣を指さして呪文を唱えた。

 左手全体に描かれた術の回路が通霊つうれいして淡く光る。指の先に霊刀れいとうが現れて、音もなく癒衣を目掛けて飛んだ。癒衣は後ろを振り向くこともせず、僅かに進路を変えて霊刀を避けてみせた。霊刀はそのまま真っ直ぐ進んで道路にぶつかったり、アスファルトに浅い軽い切り傷を作り、光の露となって消えた。

はつ、三」

 佐藤がそう唱えると立て続けに三発の霊刀が放たれた。霊刀は佐藤と癒衣の中間の何もない空間で爆ぜた。癒衣が霊爪で佐藤の霊刀を打ち落としたのだ。

 霊気がぶつかり合った地点では目には見えぬ朧気な光の泡が弾け、耳には聞こえぬ得も言われぬ甲高い音色が鳴り響いた。相容れぬ霊力と霊力の衝突に伴う光と音だった。

 佐藤の攻撃を打ち落とした癒衣は手応えを感じていた。能力の発生速度は僅かに彼女の方が速かった。

 ——あの呪文……どうやら奴は変性へんせいのようね。

 癒衣の耳には風切り音に混じって佐藤の呟く呪文が届いていた。

 呪文の最初に発という宣言。それに続く口語に近い呪文は日本口語術にほんこうごじゅつの定型書式であった。ただし呪文自体はかなり短いので、所作か文字で口語術を補佐しているのだろと彼女は推測した。いかに呪文が短くとも順性には速さでは勝てないが。

 順性は思念、即ち思い描くことで世界に変化を起こす。思いで物を動かし、思いで壁を見通し、思いで時間を超える。それに比べて変性は言葉であった。言葉で物を動かし、言葉で壁を見通し、言葉で時間を超えた。意識と言葉。意識が言葉より先立つのは否定しようがない。


 町の景色は商店街と比べて寂しくなっていた。住宅の密度は薄れて、空いた空間を埋めるように雑木林や空き地、それに田畑が目立つようになる。薄暗く、街灯の光さえ闇に遮られて小さく縮こまっているように見えた。

 癒衣ゆいと佐藤は互いに一定の距離を取って先へと進んだ。二人の間では数えきれぬほどの光と音が散った。癒衣が仕掛ければお返しとばかりに佐藤が仕掛ける。それは一定のリズムに乗って町の中で響いていた。

 しかしどれだけ攻防が激しくなろうとも町は暗く、静かなままだった。戦いのすぐ真下で住民は深く眠り、何かが頭上を通ったことすら気付かない。

 霊力と霊力の衝突が起こす光と音は気質世界きしつせかいで起こる現象である。それは鍛えられた霊体の感覚器官によってのみ感知する事が可能であった。彼ら住民——そして世界中の大半の人——は霊体の存在を知らず、肉体によってのみ世界を捉えている為に気質世界の音や光を感じることは出来ない。

 二人の行く先に丘が見えた。丘は末広がりに左右に大きく広がっており実際の高さよりも低く見える。裾野には僅かな家々がこぢんまりと建つばかりで、少し視線を上に上げるそこは墨を垂らしたように真っ暗だ。


 丘は家々の屋根の向こうに僅かに頭を覗かせているだけだったが、いつの間にか圧倒的な存在感を放つようになっていた。

 ——あの場所に向かっているんだろうな……。

 逃げはするが隠れはしないと奇妙に思っていたが、なるほど元より戦うつもりでいたのか。逃げているわけではなく誘導していたということか。それを思うと佐藤は腹が立ったが、思ったほどではないのは薄々と感づいていたからだ。

 逃げるだけで身を隠しもしない。ジグザグに走っているが向かう方角は一定。いつの頃からは正面には一際暗い闇を被った丘がそびえている。それだけ不可解な要素が重なればどんな阿呆でもでも嫌でも気付くというものだ。

 丘の中に入れば戦いが始まるだろう。数分後には始まっているであろう戦いのことを考えると佐藤の気持ちは自然と引き締まった。


 癒衣は丘を見て醜い笑みを浮かべた。目の前にその巨体を横たえる丘——月下坂緑地公園つきしたさかりょくちこうえん月下坂町つきしたさかちょう藍夜町あいよちょうの間にあった丘をそのまま自然公園へと作り替えた施設だった。中には竹林や人工林、いくつもの遊歩道に休憩小屋が点在している。昼間は近隣の住人や周囲の市からも人が遊びに来るような場所であったが、夜ともなれば人の姿は失せて、公園は己の本分を思い出したかのように一時、自然へと還る。

 丘の裾野に住民がいるが林が広がる丘の頂上の音がそこまで届くことはない。何があっても誰も気付かない。月下坂自然公園はそう言った場所なのだ。もっとも、そんな場所は霧凪きりなぎには無数にある。癒衣は月下坂自然公園を選んだのは、退路として都合の良い町が近くにあったからだった。

 公園の西側一キロほど先には古めかしい屋敷町があった。広い庭に囲われた瓦葺き屋根の日本家屋が建ち並び、土道の両側には白壁と黒い木で出来た背の高い塀が建っている。

 町の名を藍夜町と言い、昔から霧凪の討魔士が住処とする討魔士町とうましちょうであった。結界を張り巡らせ鼻が付くほど清らかな空気を湛えているその中に殺気をみなぎらせた化け猫と外の討魔士が足を踏み入れれば、たちまちの内に霧凪の討魔士が集結するだろう。

 危険なのは癒衣も百も承知であったが、真っ先に目を付けられるのは化け猫ではなく外の討魔士だと彼女は確信していた。

 討魔士が重要視するのは自分達の本分よりも世間体や他の組織との関係と言った思い込みにも近い価値観である。その価値観の前には化け猫の価値など塵芥に等しい。


 丘は今や見上げないとその頂上が視界に入らないほどになっていた。丘の前を横切る道路は白いゴールラインのように輝いている。

 癒衣ゆいは地を蹴る足に更に力を入れて速度を上げた。速度に比例して視界は狭くなり、景色は後ろに引っ張られるように歪んだ。彼女の心臓は早鐘を打ち、意識からは雑念がそぎ落とされる。死の恐怖と加虐の喜悦は影を潜める。アドレナリンが過剰に分泌されて体温が上昇して、意識は戦いだけに向けられた。

 佐藤もまた後れを取らないように速度を上げた。彼もまた癒衣しか見ていなかった。

 彼らは見逃していた。道路の暗がりの中で呆然と二人の姿を見ている少年がいることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る