第一話:四月十二日:神社にて

 森が途切れて深い濃藍こいあいの夜空が視界いっぱいに広がった。目映いばかりの月の明かりに少年は思わずよろめいた。

 目が慣れてくると周囲の様子が詳細に見えてきた。そこは三方を森に囲まれた、十メートル四方の広場であった。中には足の高い三角屋根の建物と石灯籠いしどうろう、水をなみなみと湛えた石の桶が置いてある。

 少年は建物に近付いた。窓はなく、入り口は固く閉じられている。中には人の気配はなく空洞の音が響くようだ。材木は長年の風雪でくすんでいるが見た目ほど汚れてはいない。濡れ縁に登る階段の手すりはつるりとして、手を突いても汚れなかった。

 正面の入り口は南京錠がかけられており、中を見ることは出来なかった。

 建物の正面から伸びる石畳の道を進むと下に視界が広がった。眼下では家々の明かりが輝き、線を引いたように伸びる道路の街灯が光の帯を描いていた。家と家の間には緩衝材のようなこんもりとした雑木林や何もない田畑があった。

「ようやく町に出られたな……」少年は胸をなで下ろした。

 目を皿のように丸くして町の隅々まで見渡す。町は太い道路に沿って広がっている。ここは谷間の町なのだろう二、三キロ先には家と林がこびりつくように広がる丘が見えた。丘に立つ家々はまるで点に向かって伸びる塔にようにも見えた。

 ——どれだけの人が住んでいるのだろうか。

 あまり人は住んではいなさそうだと即座に心の声が疑問に答えた。

 彼のいる場所から見える家屋の数は多く見積もっても百数戸だ。林で家々が隠れていることを加味しても、夜が明けるのを待つにはあまりにも魅力のない数だ。町の灯りは少なく、ぼんやりとしていて寂しい。

 少年が求める町はそんな陽炎のような町ではなく、無数の光と人に溢れた都市だった。人の数だけ出会いがある。住民が固定された住宅街よりも、多方面から人が集まる都市部の方が人間の種類も多様である。

「だが、どこへ向かえば良いんだ?」

 差し当たって目指すべきは都市部であったが、都市が放つ鮮烈せんれつな光は見えない。ただ、道路は途切れることなく丘の向こう側まで続いており、丘の頂上付近では住宅と住宅との間の距離も狭まっていっているように見えた。

「道に沿って進んで丘を越えるべきだろうか?」そう言って少年は階段に目を落とした。

 石造りの階段は山腹で一度折れて麓の林の中まで伸びている。灯り一つない階段は真っ暗で、見ていると深い穴にでも続いているようだ。この階段を下れば、常闇の国へと出るのではないか。馬鹿馬鹿しい考えだったが、頭からすっかり取り払うのは難しかった。

「町に出れば色々と状況は変わるだろうな……だがなんだろう、この不安は」

 新しいことに挑戦する時に感ずる期待混じりの不安のとは別のベクトルの不安が胸に渦巻いている。それが危機感だと認めるのには時間が掛かった。

 倒れていた理由は未だ不明なのだ。前後不覚だったのか、気が触れていた結果であれば良かったが、外的要因であれば問題はもっと悪くて複雑——眼下に広がる町に敵が潜んでいるかも知れないと言うことだった。敵は自分が町に戻ったことを目敏く見つけ、行動を起こすだろう。

 ——いや、だがそれもおかしいな。

 敵が自分の死を求めるのであれば、どうしてここでこうやって生きているのだろうか。着ている服は下ろし立てのように綺麗で、身体は申し分ないほどに元気だ。外敵の存在を仮定するには現在の状態は不自然に思えた。殺したいのであれば殺せばよかったのだ。

「だったら俺はどうしてあんなところで倒れていたんだ?」

 そしてまた初めの問いに戻る。

 ——やはり、内的な要因からだろうか? 荷物を何一つ持っていないと言うのが気掛かりだが、途中で落としていたとしてもおかしくはない。敵対者と言う存在があやふやになった今、理由を求めるにはそれしかないんじゃないか?

「……考えても仕方ねえ。先に進んでそれから考えよう」彼は最後に町を一瞥すると階段を降り始めた。

 一段降りる毎に町が近付いてくる。建物は大きく、細部はより鮮明に、期待と不安はより複雑に混ざり合う。階段を降りきると麓の住宅街の上を通る細い坂道に出た。

 その場所からは、生命力そのままに広がりる林と、その隙間に滑り込むように建てられた家屋群が一望できた。自然と文明が混じり合う不思議な光景だが、原寸大の家屋を見ると町に出たという実感が湧いてくる。

 ——先を進めば二度とこの場所に来ることはないだろう。

 そう思うと不思議と名残惜しい気持ちが湧いてきた。一時は恐怖した場所であったが、自分が生まれた場所には変わりない。少年は場所の名を留める物はないか探すために振り返った。

 林と町の間、階段の終端には太い丸太をくみ上げて作った門の枠組がその二本の足だけで立っている。何の連続性も必然性も感じさせないその門の名を彼は知らなかったが、町と丘を区切るための結界である事は理解できた。

 門を眺めているとその足下にある一メートルほどの黒色の石柱が目に入った。険のある天然石の片側を削いで平らにした石柱には筆の柔らかい文字で『御守神社みもりじんじゃ』と彫られていた。

「みもり……御守神社」

 口に出して読んでみたがその名に覚えはなかった。しかし一つ大きな収穫があった。文字が読めると言うことだ。少年はにんまりと、満足げな笑みを浮かべた。

「全てを忘れたって事じゃあねえんだな……この分なら言葉も通じるんじゃないか?」

 少年はハッとして口をつぐんだ。今の一言で彼は自分の内に、言葉すら通じないのではないか。と、言った不安があったことに気付かされた。

 深く、暗く、道すらない森を目の当たりにしては、ここが異国と錯覚してもおかしくはない。しかしそれにしては性急な不安であると彼も認めざるを得なかった。

「どうしてそんなことを思ったんだ? そもそも俺はここをどこだと思っているんだ? いや、何を馬鹿な事を。ここは俺の生まれた日本のはずだ。記憶喪失だからってそこまで忘れるもんか……」

 少年は忌々しげに呟いた。目の前の現実を異常と捉えている以上、基準となる正常——喪失を免れた記憶があることは明かだ。記憶その全てを失うのは記憶喪失ではなく、人間性の喪失、獣への堕落と言う物だ。

「ここはもう良い」少年はつっけんどんに言って逃げるように歩き始めた。

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