第一話:四月十二日:森の中

 重なり合って伸びる枝葉を掻き分け、低木を飛び越し少年は逃げた。しかしどこまで行ってもそこには森閑しんかんとした闇が広がっていた。空に浮かぶ月は常い同じ場所で輝き、執拗しつように彼の跡を追った。

 彼は狂ったように叫び、走り続けた。声は彼の耳に届く間もなく木々の合間に満ちる闇の中へと吸い込まれる。いつしか少年は自分が叫んでいるか、黙っているのか、先に進んでいるか、後に戻っているのか判断できなくなった。

 どれだけ走った頃だろうか、幾度も繰り返したように目の前の低木を飛び越すと急に足下が軽くなった。投げ出された両足は空を切り、身体はバランスを崩して地面に打ち付けられた。

「くそっ! 何なんだ?」

 目の前には白くて硬い地面が横たわり、辺りがこれまでにないほどに明るかった。森を抜けたのか? 一瞬、期待に胸躍らせたがそこは依然として深い森であった。

 少年は身体を持ち上げて辺りを見回した。他より一段低いところにあって左右には道が続いている。頭上には木々の枝がなく、森と森との間に川のように伸びる夜空が見えていた。少年が倒れているのは道に敷かれている大きな飛び石の上であった。

「道に出られた! これで森を抜けられる!」少年は歓喜に叫んだ。

 しかし喜びもつかの間であった。少年はすぐに喜びも忘れて目の前に現れた悩ましい二択に悩み始めた。一方が無限に広がる絶望を思わせる森の中に続く事を思うと喜びよりも不安が勝った。

 森の中に進む事だけは絶対に避けたかった。少年は森に充満する恐怖と孤独に曝されてまともでいられる自信がなかった。

「どっちが外に通じているんだ?」

 少年は左右に伸びる道に答えを求めるように何度も見比べた。どちらも同じような闇の中へと進んでおり違いを見出せない。かくなる上は勢いで選ぶ以外に方法はなかったが少年には出来なかった。森への恐怖が彼の意思をへし折って足を止めさせていた。

「……どっちだ……どっちへ行けばいい」

 わらにもすがる思いで少年は一心に道の先に広がる闇を見つめた。目が慣れてぼんやりと闇が晴れてきたが違いの分からぬ森が広がるだけであった。

 少年は立ち尽くしていたが、切っ掛けは唐突に訪れた。なんの前触れもなく、暖かく甘い香りする春風が道を通り抜けた。風は少年の頬を撫で、髪を弄び、背を押すように強く吹いた。

 少年は不思議と心が軽くなった気がした。風が止んだとき心は決まっていた。彼は風の吹いたその方向へと進もうとそう決めた。僅か数秒にも満たない風が彼の背負い込んでいた荷を取り去ってあまつさえ道まで示したのだ。

 ——まるで悪い夢から覚めたようだな。

 少年は今までにないほどに落ち着いている事を実感していた。意識は冴えて、清流のように淀みなく動いている。風が全てを変えたのだ。事実は別として彼にはそうとしか考えられなかった。

「いけるところまで行ってみるとしよう。駄目だったら戻ればいい。どうせ時間はあるんだ……」

 少年はそれをひとまずの結論として、頭を働かせるではなく身体を動かすことに決めた。


 道に敷かれた飛び石は途切れることなく続いていた。こんな深い森の中だというの土を被った様子はなく、日頃から磨かれているかのように表面は綺麗だ。無限回廊に迷い込んだような錯覚が起きるが、心には不安や恐怖と言った感情は少しも湧いてこなかった。それどころか彼は目の前に広がる闇の希望すら見いだしていた。

 先に進むに連れて獣道に変わっていったが、彼は歩みを止めなかった。道の荒れ具合とは裏腹に森林の密度が薄まっていたからだ。幹の太い木々は少なくなり、変わって幹の細い、若い木々が目立つようになった。肌に感じる空気も幾ばくか暖かくなり、明るくなっていた。

 じきに森を抜けるだろう。そう考えると足取りも軽くなった。

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