白路行

郁良月

第一話:四月十二日:闇夜にて

 目が覚めると遮断されていた情報が雪崩のように流れ込んで来た。

 湿り気を帯びた地面の感触に土の匂い。枝葉が風に揺れ擦れあう林のざわめき。木々の間から零れる月の柔らかい光。釘でも刺さっているかのような鋭い頭痛。深い霧に包まれたように朦朧とする意識。全身に走るギチギチと絞られるように痛み。冷えて固まった鉛のように重たくて冷たい身体。そう言った雑多な情報が目覚めて間もない少年を乱暴に、そして容赦ようしゃなく揺さぶった。

 少年の意識は激流に浮かぶ小枝のように呑み込まれ、投げ出され、そして一気に現実と言う大海に押し流された。そして彼はスイッチでも入れられたかのように唐突に両目を開いた。

 目に映る世界は薄い絹を通して見たようにぼやけていた。視界には緑と茶色と黒の三色が三本線が一面に映っていたが、しばらく眺めているとそれが月明かりに照らされた名も知らぬ雑草と折り重なった枯れ葉である事が判ってきた。

 雑草の先には闇に浮かぶように幹の太い木々が並んでいる。目だけを動かして、木の伸びる先を追うとそこには濃い緑のこずえと悶えるような濃藍こいあいの夜空があった。

「……美しい」少年は思わず感嘆かんたんの声を漏らした。

 世界中の国々から集めた様々な青タイルで描いたような夜空は目覚めて間もない少年の心を一瞬でとりこにした。

 黒青の世界を魅入られたように眺め|揺蕩っているうちに、練乳のような余韻はいつとなく薄れて辺りはひっそりと静まりかえってしまった。現実が音もなく彼の背筋を撫でた。

 ——ここはどこだ?

 少年は目だけを動かして自分を包む空間を見回した。

 背を優し包む若草と落ち葉。早春か晩秋を思わせる葉の少ない枝と深い緑の葉。眺めていれば落ちてしまいそうな夜空。場所も名も知らぬ深い森の中であった。

 ——どうしてこんなところに?

 何かがおかしかった。彼は首だけで頭を持ち上げて自分の姿を見た。

 襟のないヌメ革のシングルライダースジャケットに厚手の白いシャツ。下は擦れた黒色のジーンズにジャケットと黒いブーツを履いていた。袖から見えている腕はゴツゴツして硬そうだったが、汚れてはいない。

 少年は怖々と手を上げてゆっくりと顔を撫でた。

 目があり、鼻があり、口がある。頬はスベスベとしていて弾力があり、触った感じ血色は良さそうだ。

 髪は絹のようにサラサラとして指通りが良い。もてあそんんでみると髪の色は月の光も透き通る程に白かった。

 ——これが俺の髪? 本当にそうだっただろうか。

 少年はゆっくりと背を起こした。身体は放置された機械のように重かった。両腕を動かすと筋肉は悲鳴を上げ、骨と骨とが互いに削り合っているのではないかと思うほど関節の動きは鈍かった。

 しかし痛みは悪いばかりではなかった。鋭い痛みが少年の鈍った意識を嫌でも覚醒させてくれた。肉体が持ち上がる毎に、目の高さが高くなり視界が広くなる毎に、意識もまたはっきりしてきた。

 四方には木々が幾重もの層になって闇の奥底まで続いている。この場所に通じる道はなく、彼のいる二メートルばかりの空間が森になることを拒んだかのようにぽっかりと空いていた。

「ここはどこだ? 俺はなんでこんなところにいるんだ……」

 深い森に囲まれたその場所に見覚えはなかった。自分の足で来たのか、連れてこられたのかも記憶にない。

 ——どうして俺はこんな場所で倒れていたんだ? ここに来るまで何をしていたんだ?

 過去の意識を向けると心がざわついた。

 ——何も思い出せない。俺はこんな場所に来た記憶はないぞ。どうやってこの場所に来たんだ?

 額に一筋の冷たいものが流れた。少年は思わず息を呑み込んだ。

 ——意識を失うまで俺は何をしていたんだ?

 思い出せなかった。そんな事はあり得ない。と、否定してみたが、いくら考えようと過去は思い出されなかった。

「……俺は……俺は……」

 心がざわめき闇が一層濃くなる。呼吸は乱れ荒くなる。次に口から出る言葉を考えるのが恐ろしかった。内心では言ってしまえば楽なるという破滅的な誘惑と、口に出したら最後だという理性が激しいせめぎ合いをしていた。彼はやがて死ぬかと思うほど喘ぎだし、視界は焦点を失った。

「……俺は誰なんだ?」

 その言葉が意外な程にすんなりと口から出て森へと消えた。腹の底に溜まっていた恐怖は言葉と共に外に抜けて静まりかえった。

 ——俺はこんな人間を知らない。 白い髪に見覚えもないし顔も分からない。

 いくら考えても少年には自分という人間が何者か分からなかった。どれだけ思い出そうとしても過去は浮かんでは来ない。過去の思い出はいま目の前に広がる深い森と夜空だけであった。

 彼はしばし呆然として辺りを見回していたが、思い出したかのように着ている服のポケットに手を突っ込んだ。しかしジャケットのポケットにもジーンズのポケットにも、靴の中にも持ち物一つ発見し得なかった。

 頭の中が真っ白になった。未知の世界。未知の自分。その事実が心を蝕みボロボロと彼の世界が崩した。少年は足下が崩れて無限の空間を音もなく、どこまでも落ちて行くような錯覚を覚えた。内臓はキュウと萎縮いしゅくし、中からドロッとした恐怖をにじませた。

 不意に木々の合間を縫って一陣の夜風が吹いた。枝葉がざわめき、驚いた鳥たちが叫びにも似た声を上げて空に飛び立つ。

 瞬間的に心臓は跳ね上がり、少年は声にならない声をあげて逃げ出した。

 それは闇夜に目を光らせる怪鳥の鳴き声にも、錆びた大きな機械がだす金属音にも似た甲高い叫び声であった。

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