第1話
私の朝は12時から始まる。ぼさぼさの髪を無造作に結んだまま階下に降り朝食、もとい昼食を作る。冷凍されているご飯を適当に温めると卵をかけ、醤油をくるくると回しかける。一瞬で作れる私の得意料理、卵かけ御飯だ。
テレビをつけるとお昼のワイドショーをやっていた。卵かけご飯をかきこみながら手元の携帯をチェックする。もちろん今朝も、誰からも連絡はなしだ。
食べ終わった食器は手早く洗って食器棚に突っ込む。父も、母も仕事にいっていて、この家には自分一人しかいない。
いや。
厳密に言うと一人ではない。私は2階を見上げる。私の部屋の正面、廊下を挟んだ反対側の部屋には常に鍵がかかっている。
兄の部屋だ。
私の3つ上の兄は、まだ私が中学生のころからずっと部屋に引きこもっている。高校を途中で退学し、大学にも行かず職にもつかず食事と風呂の時以外は部屋から出てこない。食事と風呂、といっても私たちと同じ時間には行動しない。深夜、みんなが寝静まったころを見計らって部屋を出ているのをドアの開閉する音で察した。
まともに兄と顔を合わせたのは10年近く前か。
そんな年季の入ったひきこもり(しかもオタクだ。私が昔アニメにハマっていたのは完全にこの人のせいだと思っている。)がこの家にいることなどあまり考えたくもないので普段はいないことにしている。友達にも一人っ子で通している。将来結婚相手が来たらどうするのかという不安はあることにはあるが、少なくとも22年の人生で彼氏と名のつくものは一度もできたことがないので今のところ問題がない。
「いってきまーす。」
なので、いないことにしている兄に対していってくるなんて言う必要はないのだけれど、家を出る時に無言で出るのもちょっと寂しいのでつい2階まで聞こえる大声でいってきますを言ってしまう。
5分もかからずにちゃっちゃとメイクした顔。その辺に落ちていた服を適当に組み合わせて着てきた自分はなんて女子力が低いのだろうといつも思う。大学のキャンパスにいる女の子たちを見ているとキラキラしていてまるで自分とは違う生き物のようだ。
電車を2本乗り継いで大学へとたどり着く。今日は夏休みで本来なら休みのはずだったのだが、急遽ゼミが入ったことにより行かなくてはいけなくなってしまった。就活も終わり、あとはゼミに出て卒論を書けば無事卒業ができる。暇、というわけではないけれど忙しいというわけでもない。そんな、大学4年生の夏だった。
「伊藤さん、久しぶり〜」
ゼミ室に行くとそこには私以外全員が既に来ていた。全部で8人。女子は2人。
私以外の女子である渡辺香苗は女子力を凝縮したような女子で、穏やかで気配り上手、優しくて美人、服もメイクのセンスも抜群にいいという神みたいな女性だった。私とは正反対。
「伊藤さん、今日ゼミのあと空いてる?」
「んー、多分」
「このあとビアガーデン行こうよってみんなと話してたの。ここの8人で。よかったら来ない?」
そういうイベントを企画する力があるのも彼女だった。きっと他の6人の男子は渡辺香苗目当てで飲み会に行くんだろうな、と思ったものの空いてることをほのめかしてしまった以上断る理由が思いつかなかった。
「わかった、行く。」
「よかった!やっぱり女の子が来てくれると嬉しいな。じゃあゼミ終わったら部屋に残っててね。」
私はそんな彼女に対して愛想笑いを浮かべながら、他の男子たちをじっと観察する。男子は男子同士で固まって携帯片手に意味のない会話にいそしんでいる。しかし、どの男子も私達の会話が気になっているようで、ちらちらとこちらの様子をうかがってはそのことが私達にバレないようにすぐに目線を戻していた。私は席に座るとため息をつきたくなる気持ちを抑え込んだ。そうこうしているうちに先生が到着し、ゼミが始まった。
ビアガーデンは都会の雑踏の中に紛れて佇んでいた。夏だけ限定でオープンしているらしい、と誰かが言う。店内には自分たちと同じような大学生グループがいくつも賑やかに団欒していた。賑やかというか、どっちかといえば騒がしいの方か。
私たちのグループも始めは静かだったものの何杯も酒を飲むうちにテンションが上がってきて、ちょっとしたことでも笑い転げたり手を叩いたりしていた。
「はいはーい、俺、報告することがありまーす!」
一人の男子が手をあげる。
「とうとう彼女ができました!」
阿鼻叫喚、まるでお祭りのよう。ある者は騒ぎたて、ある者は無理やり酒を飲まそうとし、ある者は彼女の素性を聞こうと躍起になっていた。私は一人、傍観者のようになっていて、ただ黙ってビールを飲んでいた。苦かった。
「伊藤さんってさ」
気づけば隣には渡辺香苗がいた。綺麗な色をしたカクテルなんかを手に持っている。
「なんか、冷めてるよね。達観してるというか、なんだかすごく大人って感じがする。」
「大人…?私が?」
「そう。伊藤さんが一緒だと、こんなしょうもないことで騒いでる私たちがまるで子供のように見えるときがあるの。」
「…それはきっと」
どうでもいいと思っているから。人生なんて、現実なんてつまらないものだって思っているから。生きることに興味がないから。
そんなことは口が裂けてもいえなかった。律儀に言葉の続きを待っている彼女に対し、曖昧に笑って見せた。彼女は私にとって、とても眩しい。
「ねえねえ香苗さん、山本果歩って子知ってる?こいつ今気になってるらしいんだけどさ。」
男子たちはそういった話題に夢中のようだ。渡辺香苗がいなくなって、私は一人でビールを飲んだ。
帰り道。
私は少しふらふらしながら最寄駅で降り、路地裏を歩いていた。路地裏を歩いたのは単純に時間短縮のためだ。東京の西部。東京都、と言ってはいるが東京感はほとんどなく地方となんら変わらない、そんな場所。
夜遅くになるとあまり人も外を出歩かなくなり、暗い夜道は現在自分一人しか歩いていない。変質者に襲われるかも、といった思いが一瞬頭をよぎったがこんな容姿の女を襲うようなやつなんていないか、とやや自虐気味に笑った。
その時だった。
何かが足元で光ったような気がした。普段より大げさな身振りでしゃがんでその物体を拾い上げる。泥がついていて汚れてはいるがそれがなんだかはすぐにわかった。ステッキだ。杖だ。星の形をしたプラスチックが棒の先についている。
子供のおもちゃ、それもお菓子のおまけについてくるようなちゃっちいやつだった。こんなもの、たとえ100円で売られていたって買わないだろう。私は持っていたティッシュで泥を拭き取ると携帯のライトを杖に当てた。
見れば見るほど安っぽいつくりが目立つ代物だった。ピンク色をした棒の先に黄色の星。幼児がクレヨンでお絵かきをした魔法のステッキ、そんな印象を受けるほど雑で単純な作りをしていた。サイズはちょうど持っているシャープペンと同じくらい。
私はそのステッキを自分の鞄の中にしまった。持って帰ることにした理由は特にない。単純に、ここに置いておいてもゴミになるだけだろうと思ったのと、ちょっとした気まぐれだった。足早に路地裏を通り抜けるといくつかの道を曲がり、自分の住む一軒家へとたどり着いた。
「ただいまー」
行きとは対照的に小声でただいまと言う。家の中は暗く、人の起きている気配はなかった。0時すぎ、父も母も既に寝ている時間だ。
足音を立てないよう細心の注意を払いながら二階にある自室へと進む。部屋に入るとそのままベットに倒れこんだ。化粧も落とさないといけないし服だって着替えないといけない。風呂にも入って歯磨きをして...
めんどくさいな、と思った。どうせ明日の予定など何もない。全部明日でいいや。全部どうでもいい...
私はそのままベットの上で目を閉じた。
「君は、この世界が正しいと思うかい?」
唐突に耳の奥で声が聞こえた。私は目を開ける。
目覚めた私の目には何の光も入ってこなかった。真っ暗闇。
そうか、夜だから暗いんだ。何故か分からないけどそう思い、納得する。
「こんな世界壊れてしまえばいいと、そう思ったことはないかい?」
また、先ほどと同じ声が頭の中に響いた。男性とも女性ともとれる中性的な声だった。私は声がどこから聞こえてくるのか確かめようとして顔を左右に向けた。しかしそこには漆黒の闇が広がるだけだった。誰の姿も見えない。
「あの人がいなければ世界は平和になるのに、とか、あれさえなければ世界は平和になるのに、とか思ったことはないかい?」
私はもう声の主を突き止めるのをやめた。代わりに返事をする。
「別に、世界が平和になろうが崩壊しようが興味ない。」
世界なんてどうでもいい。自分の人生だってどうでもいい。興味ない。ずっとそう思ってきた。今日だって、渡辺香苗に対してそう言いたかった。結局言えなかったけれど。
ここに来てもまだそれを言わせるのか。
しかし、声の主はこう言った。
「それは君の本心じゃないなあ。」
私は口を開こうとした。しかし、私が言うより先に向こうが畳み掛けるようにこう言った。
「君の昔の夢はなんだっけ?世界を救いたいんじゃなかったか?興味ないって自分で自分に言い聞かせているみたいだけど、本当は興味なくなんてないんだろ?自分の手でこの腐った世界を変えたい。陳腐な表現だけど今だってそう思っているはずだよ。」
もはや私は一言もしゃべらなかった。黙って、目の前の深い暗闇をにらんだ。
「おや、図星かい?」
「別に」
「素直じゃないなあ。君は勝手にこの世界を高望みして、だけど特別な日常なんてものは全くなくて、そのせいでふて腐れて、この世界に希望なんて持たないなんて自己を正当化して、逃げた。本当に弱いよな、君は。でもさ、そんな君だけど他の人間よりはずっと素質があると思ったわけよ。だからこうしてわざわざ来てやったのさ。」
闇が、一層深くなった気がした。目の前が急速に薄れていく。めまいを起こしているのだ、と気づいたときにはもう私の体は半分倒れ掛かっていた。
「特別になりたいんだろ?叶えてやるよ、君の願い。」
その声がぼんやりと頭の奥に響いた。
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