第2話

酷い頭痛で目が覚めた。時計を見ると午後の1時すぎ。起き上がって全身を見渡した私は大きくため息をついた。

自分の全身からは安い居酒屋の匂いが染みついていた。少しよれたTシャツにはいつの間にやら染みがついている。靴下を脱ぎすてながら、昨日帰ってきてそのまま寝てしまったことを思い出す。また、ため息をつく。

どうせ酷い顔をしているのだろう。鏡にはけっして目を配らず真っ先にお風呂場へと向かった。とりあえずシャワーをあびるに越したことはない。

ずんと頭が鈍く痛んだ。そこまでお酒を飲んだだろうかと考え、昨日の記憶があまり残っていないことに気づく。まあいいや、と深く考えずにシャワーを浴びた。

熱いお湯を頭からかぶるうちにだんだん冷静になってきた。今日は一日暇だし、何をしよう。そんなことを考えながら髪を洗い、脱衣所に出る。

髪を乾かし自分の部屋へ戻る途中、ふと何か大事なことを忘れているかのような錯覚に陥った。しかし、部屋へと入りゲームを手にした私は一瞬でその考えを忘れ去った。

ゲームをプレイしていると時間は飛ぶように過ぎていく。午後2時くらいから始めたゲームはそろそろ終盤にさしかかっていたが、時間のほうも午後7時をすぎていた。あと1時間もしないうちに両親が帰ってきてしまう。

何も用事のない夏休みの夕飯は自分が担当だった。ゲームのしすぎでふらふらする頭を抱えながら階段を降りキッチンへと向かう。冷蔵庫の中身を見た私は顔をしかめた。ほとんど何も残っていない。

ゼミがあったから昨日は夕飯を作っていない。そのせいで冷蔵庫にどのくらい食材が残っているのか把握できていなかった。

私は再び二階へ上がると鞄をつかみ、適当な服に着替えると外へ出かけた。近所のスーパーまでは徒歩2分。なんだかんだ住みやすい場所ではあると思っている。

スーパーに入ると野菜や肉など必要なものを手当たり次第カゴに突っこんだ。お買い得品はもちろんカゴに入れる。レジに並ぼうとしたが、ふと考えなおし引き返すとカップ麺を何個か入れた。きっと今日も我が兄は夜遅くになってから一階へ降り、冷蔵庫を漁っては何か食べられるものを探すのだろう。兄はけっして電子レンジを使わない。我が家の電子レンジは割と大きな音がするので、誰かがその音で目覚めてしまうことを警戒しているのだろう。

だから、カップ麺。冷蔵庫の中に入っていて、レンジを使わずに食べられるものなどそうないことを私はよく知っていた。

一杯になったカゴを片手に、私は再びレジへと並んだ。ピーク時は過ぎているだろうがそれでも店内は人で溢れていて、どのレジにも人が3人ぐらい並んでいる。私は一番空いてそうな列を選んで並んだ。

しかし、しばらく待っても列が進む気配がなかった。

体を左右に動かし、前の様子を覗き見る。前に並んでいるおばさんもレジの様子が気になるようで、落ち着かない素振りをしている。

何か、レジでもめているようだ。まだ若いであろう女の店員さんの困った顔がちらりと目に入った。レジの前にいるのはどんな人だろうか。前の人が邪魔になってこの位置からだとほとんど姿は見えなかった。

レジに並んでいない人達も気になるのかちらちらと横目に見ながら通り過ぎていく。このまま列が進まないようだったら並んでいるのも馬鹿らしい、他の列に行こう。私はそう思い動きかけた。

その時、スーパーの店内に金切声が響き渡った。

「どうして私の話を聞いてくれないのよ!!!」

まさに今、私の前のレジでもめている人の声だった。声から女性であることを察する。店内は一瞬で静まり返り、私の位置からはレジの店員さんの泣きそうな顔がとてもよく見えた。

「申し訳ございません。」

「謝ればいいと思ってんの!?私より若いくせに店員だからって偉そうに!あなたがミスしたんでしょ?どう責任とってくれるの!!」

「私、ミスなんて...」

「まだ言ってるの!?お客がミスしたって言ってるんだから認めなさいよ!あなたなんてね、人間としてクズよ!!」

クレームをつけている女性の声はだんだんと大きくなっていき、店内に響き渡った。他の店員が駆けつけて応対しはじめたが女性の声は収まらない。

「あれ絶対いちゃもんつけてるだけだよ。だってさっきから言ってることおかしいもん。」

「やめなさい。ああいう人には関わらないほうがいいの。変に目つけられたら怖いでしょ。」

近くにいた中学生ぐらいの歳の女の子とその母親らしき人が小声で会話をしながら通り過ぎていった。私もこの場から移動しようとしたが、地に足が生えたようになって動かない。その間にも目の前で繰り広げられる会話はヒートアップしていった。

「お客様、大変申し訳ございません。」

店長だろうか、深くお辞儀をして謝っている男の人が目に入った。他の店員も一斉にお辞儀をする。見ていられなくなって目をそらした。

少し会話を聞いていただけの私にだって分かる。これは絶対にクレーマーだ。店員さんはミスなんてしていない。

「ほんとこの店って使えない店員ばっかりね!お客のことも聞けないなんて、人としてどっかおかしいんじゃないの!?あなたたちみたいな人間のクズ、とっとと消えなさいよ!!」

ダン、とレジのカウンターが乱暴に叩かれる音がした。クレームをつけている女の人が興奮して叩いたらしい。先ほどから静まりかえっていたスーパーの店内はこれによりさらに空気が固まった。BGMとして流れている音楽だけが場違いのように店内に響く。

お前が消えればいいのに。

できるだけ考えないようにしていたけれど、もう限界だった。消えてほしい。目障りだ。この空間から消えてほしい。

消えるべきなのは、店員じゃなくてお前だろう?

「本当にそうだよな。」

突然耳の奥で声が聞こえたことに驚き、私はもっていた買い物カゴを床に落とした。周りを見渡すが話しかけてきたと思われる人は誰もいない。

「アイツが消えればいい、アイツが消えればこの世界は平和になる。そうだろ?」

また、声が聞こえた。私は思わず両耳を手のひらで抑える。

目の前の視界がどんどん遠ざかっていくような気がしてしゃがみこんでしまう。いや、気のせいじゃない。実際に目の前がどんどん暗くなっている。

「しゃがみこんでどうした?君は昨日の話をもう忘れちゃったのかい?」

「昨日...?」

私は真っ暗闇の中ぼんやりと昨日あったことを思い出す。昨日は飲み会に行って、そして...

そうだ、昨日もこんな風に暗闇の中、誰かに話しかけられたことがあったような気がする。

「君には素質があるって言ったよな?君は特別だ、世界を変えることができる。そのための力を昨日授けたはずだ。」

「世界を変えるって、どういう...」

お前が消えればいいのに。

先ほどまでずっと頭の中で考えていた言葉が再び響いてきた。

「消えてほしいんだろ?」

「そうだね。」

ためらいも何もなく言葉が出てきた。あの人がこの場からいなくなればここは平和になる。そうすれば私は、

正義のヒーローになれる。

「昨日あげたやつ、持ってるんだろ?あれを使えば君の望むようにあの人を消すことができる。」

「昨日あげたやつ?」

何のことを言っているのか。尋ねようとした私の脳裏に、昨日路地裏で拾ったステッキの姿がふと浮かんだ。肩にかけていた鞄をあける。

そこにはステッキが入っていた。安物のステッキだと昨日の自分は思っていた。だけど、今見たこのステッキは。

暗闇の中なのにステッキの星部分だけはキラキラと輝いてみえた。一体何を反射してここまでの輝きを見せているのか。それとも、この星それ自体が光っているのか。顔の近くにステッキを持ってきたがよく分からなかった。

「このステッキを使うと、君は変身できる。世界を救う戦士になれる。さあ、変身するんだ。」

声は私の頭の中でそう告げた。私はステッキをじっと見つめたあと、尋ねる。

「変身の呪文は?」

「そんなものが欲しいのかい?呪文なんてなくても、望みのままに変身することが可能さ。まあ、何か呪文が欲しいのなら『変身!』なり呪文っぽい文字の羅列なり適当に言えばいいんじゃないかな。」

私はしばらく迷った後、変身!と叫ぶとステッキを高く掲げた。

その途端、目の前の闇は晴れ、私の目の前はまぶしい光によって包まれた。ステッキを掲げた右腕が肘まである黒い手袋におおわれているのが目に入る。足元を見ると、先ほどまではいていたジーンズとは対照的なミニスカートが見えた。スカートも黒、その下のタイツも、もちろん黒だ。

「...本当に変身した。」

思わず声に出して呟いてから、慌てたように左右を見渡す。しかし、周囲の人は私が突然この場で変身したことなど気にも留めていない様子だった。いや、それどころか、どこか様子がおかしい。

「気づいたかい?君が変身している間はこの世界の時間は止まっている。だから安心して変身して構わない。」

違和感の正体は周りにいる人全員が動いていないことだった。そのことに気づくと、私はステッキ片手にレジへと近づいた。そして、先ほどクレーマーをつけていた人物の顔を見る。

思っていたよりも若い人だな、というのがその人物の顔を見た第一印象だった。レジをやっている店員さんよりは確かに年齢が上だろうが、それでもおばさんというにはまだ早い。せいぜい30前半だろう。

私はその人の目の前に立つと、ステッキを手持無沙汰にいじった。

「この後どうすればいいの?」

「ステッキを向ければそれで終了。この人は消えて、一件落着ってわけ。」

「何か呪文とかは?」

「君は本当に呪文が好きだねえ。何か魔法を使うときは呪文を言う、といったお約束に縛られすぎてるんじゃないかい?特に呪文なんてものはないけれど、君が気にするんだったら『消えろ』なり『悪霊退散』なり言えばいいんじゃないかな。」

先ほどと同じようなことを言われ、私は困惑した。ステッキを向け、迷った挙句

「消えろ」

その言葉を言った瞬間、女の人の姿は見えなくなった。目の前から一瞬でいなくなる。手を伸ばしても、ただ空気を掻くだけだった。

「これでさっきの人はこの空間からいなくなった、平和が訪れた。君のおかげだよ、正義のヒーロー。」

私は元の列に戻った。ステッキを鞄にしまうと途端に変身がとけ、周りの人々が動き出す。私の並んでいた列も、何事もなかったかのように動き出した。一人のクレーマーがこのレジを占領していたという事実など誰一人覚えていないかのように、一瞬で平和が訪れた。

私はステッキの入った鞄を強くにぎりしめると、にやけそうになる顔を必死で抑えた。

世界は、つまらないものなんかじゃなかった。

諦めるものでもなかった。

私の目の前に広がる世界は無限に輝いている。

私は人生で初めて、心の底からそう思った。

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