第6回

 妹は混乱していた。

 目の前には、美しい兄の遺体が眠っている。

 真紅しんくられた形の良い唇が、殊更ことさらその美貌びぼうを妖しくき立てていた。

 確かにこれは兄の身体だ。

 この世に二つとない愛する兄のむくろに間違いはない。

 となると、兄の気配だと確信していたあれは、単なる思い込みだったのか?

 では、あれは何だ?

 自らの狂気が作り出した幻覚か?

 私は狂ってしまったのだろうか?

 あの手、あの肩にかけられた長くしなやかな指先は、間違いなく兄そのものであったのに……。

 妹は、自分の身体が恐怖で震えているのを感じた。

 そうだ、あの手は確かにあった。

 誰の手であったのか、今となっては自信はないが、人間の手が肩にかけれたのは事実なのだ。

 絶対に誰かいた。

 私は狂ってなどいない。

 私は正気だ――。

 その時、再び背後に強い気配が現れた。

 黒い巨大な気配が、後ろで渦を巻く。

 実際に目で見ているわけではないが、真っ黒い邪悪な何かが、安置室の出入口の付近に大きくなって行くのを直感した。

 振り向かねばと思った。

 今度はちゃんと確認してやろうと。

 恐怖と直接対峙ちょくせつたいじして、打ち負かすつもりでいた。

 決意と共にゆっくり振り向く。

 妄想か、それとも現実か、彼女が存在を感じた得体の知れないものの正体が、少しずつ明白になって行く。

 影法師のような曖昧な輪郭が視界に映った。

(あれは何かしら……?)

 人のようにも、人ではないもののようにも見える。

 うすぼんやりと希薄な存在感しか持たぬ奇妙な物体は、けれども良く目を凝らして見れば――。

 途端に全身が激しく戦慄わなないた。

 これまでの人生で感じた事のない常軌じょうきいっした感情が、妹の全てを包み込み、猛烈な衝撃を細胞の隅々まで伝達させた。

 ――いた。

 やはりそれはいたのだ。

 勘違いなどではなかった。

 全てが正しかった。

 何故ならば、彼女が目撃したそれは、正しく兄の姿だったからである。

 彼女の前と後ろ、二カ所に兄がいた。

 一人は背後の寝台で永遠に横たわり、もう一人は目の前の出入口で影のように立ち尽くす。

 どちらが本物の兄なのか?

 しかし出入口に立つ兄の目に精気はなく、生ける死者そのものにどんより曇っている。

 顔色も真っ青で、ただ唇だけが、毒々しいほどに赤い光沢を放っていた。

 どうしたら良いのか分からず、妹が何か言葉をかけようとした、その時である。

 兄の方から先に口を開いた。

 苦悶に歪んだその口は、こう告げた。

 助けて欲しい――と。

 俺は秘薬の影響で、こうして黄泉よみへも行けず、天上へも昇れず、どっちつかずの迷宮をグルグルと彷徨さまよっているのだと。それはとても苦しく辛い事なのだとうったえるのだった。

 だから、お前の手できちんとほうむってくれ。炎で焼いて清めて欲しい。でなければ、俺は永久にこの地獄で、立ち往生しなければならなくなる。お前が犯した死者への冒涜ぼうとくを呪いながら――。

 言い終えると、出入口の兄の姿は消えた。

 そして物言わぬ死せる兄だけが残った。



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