第5回

 辺りの気配に注意しながら、ゆっくり、ゆっくりと、暗く長い廊下を進んで行く。

 物音の正体が何であれ、油断は出来ない。

 もしかしたら、外部から強盗や強姦魔きょうかんまが侵入した可能性だってあるのだ。そんなやからに襲われたら、非力な少女の腕力では抵抗しようもない。

 ましてや館の周囲は深い山の中、民家のある地域まではとても遠いし、どれほど叫んでも助けは期待出来なかった。

 いつでも逃げ出せるよう、注意深く行動するに越した事はないだろう。

 自分の身は、自分で守らなければ。

 階段までたどり着くと、手摺てすりの陰に身を隠しながら、一階の玄関ホールの様子をうかがう。

 しかし今のところ異常は見当たらない。玄関がこじ開けられたり、窓が割られたりしている様子はなかった。

 静かに階段を降り、気配に注意を傾けながら廊下を進む。

 地下室の扉の前に立つと、案の定、扉は内側から大きく開けられ、真っ暗な入口があらわになっていた。

 これで地下から何かが出て来たのは間違いない。

(だとすれば、やはり……)

 背筋にゾクリと悪寒おかんが走る。

 この世のことわり禁忌きんきを破って、何か背信的な現象が生じてしまったのかも知れない。現れてはいけないものが、姿を現してしまったのかも知れない。

 それはある意味で、妹の願望そのものの具現化とも言うべき、あたかも猿の手の逸話いつわごとき――。

 その時である。

 背後から不思議な甘い香りが漂って来た。

 そして――ギシリ。

 廊下の床を踏みしめる音が。

 自分の背後に誰かがいる。

 妹は振り向いてはいけないと思った。

 きっと背後には、この世のものではない、何かとても恐ろしいものがいる。それを目にしてしまえば、私は身動き出来なくなる。

 私はそれに抵抗出来ない。見てしまったら、もう二度と後戻りは出来ないだろう。ずるずると、自ら反世界の闇に堕ちてしまうに違いない。

 だから、振り返らずにこのまま逃げるのだ。

 しかし――何処へ?

 彼女のいる場所は廊下の一番突き当たりで、前には地下室の入口があるだけ。地下などへ逃げてしまったら、それこそ袋の鼠ではないか?

 だが、そんな事を考えている余裕はなかった。

 彼女の右肩に何かが触れたのだ。

 それはまぎれもない五本の指の感触で、背後の何者が肩に手をかけたに違いなかった。

 妹の胸に熱いものが込み上げる。

 背中に懐かしい気配を感じる。

 振り向きたいと思う衝動と、同時に、一刻も早く地下へ逃げなければと思う相反する感情が、狂おしく重なり合って一瞬の間にせめぎ合う。

 その瞬間的に巻き起こった嵐のような二つの激情にあおられ、彼女はもう、どうにかなりそうだった。

 しかし最終的には、生物としての生存本能がわずかにまさったのか、あるいは彼女を守護する他のに突き動かされたのか、身体からだが半ば勝手に動いて、地下への階段を駆け降りていた。

 息を切らして、咄嗟とっさに地下の一室に夢中で駆け込むと、偶然か必然か、気づけばそこは兄の遺体の安置室だった。

 そして彼女はまたしても、安堵あんどと驚愕と言う、真逆の感情を同時に味わう事態におちいった。

 遺体があったのだ。

 兄の遺体は、安置室にあるままだ。

 一歩も外へ出ていない。

 当然の事だが、妹の想定していた事態とは大きく違っていた。

 彼女は、てっきり秘薬の効果で兄のむくろが生き返ってしまったのではないかと疑っていたのだ。

 けれど、それが間違いだと気づいた。

 ならば――背後にいたのは誰だ?

 背中にひんやりとした汗が流れた。


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