市長マドレーヌさんがいかにして囚人ジャン・ヴァルジャンになったか

 私は貸し馬業をしているスコーフレール親方のところへ行った。そうして一日に二十キロ走れる馬はいないかと聞いた。

「なに市長様、一日に二十キロですと!」

「ああ、それでことによると翌日折り返さなきゃいけないかもしれないんだ」

「はあそんなに元気のいいのはこの白馬ぐらいなもんですわ。こいつなら八時間もあれば二十キロもいけるでしょう。ただいくつか気を付けてくださいよ。まず第一に、こいつは馬車を引くのはいいけれども、乗られると嫌がるんです。振り落とされますからね、乗らないでください。全くじゃじゃ馬娘で。ええ。引いてるときは大人しくてかわいいもんなんですが。第二に、十キロ行ったら一時間は休ませてください。生き物ですからね。第三に、荷物は最小限、乗せられるのは市長様だけです。でないと重すぎますからな。第四に、麦を小姓にちょろまかされないようにしてください。悪い宿屋だとあまり麦を馬に食べさせてないことが多いんです。悪い小姓が盗んで酒にしちまうんです。第五に、大きい馬車だと重すぎるから、小さく狭い馬車で我慢してください」

「ああ、構わない」

「じゃあ一日に三十フランでさあ」

「三日分渡しておこう。そして保証金も出しておこう」

「なに旦那、危ないところに行かれるんですか。うち一番の馬ですから.....」

「いやいや念のためさ、戻ってきたら返してもらうよ」

「では馬と馬車と合わせて五百フランでさあ」

「どうぞ」

「って、証文でもなしに金貨でさっと出てくるんですか.....流石市長様、金も地位も備えていらっしゃる」

 そうして私は帰宅した。いったい、私はどうすべきか?私は二つに引き裂かれてしまった。一方は自首せよ、自首してシャンマティユーを冤罪から救えといい、また一方は汝自首するべからずという!夜が来た。明かりを消し、閂をかけた。なにかが私を見ているような感じがした。私は自首するべきでないと感じた。

「私はこれまで、自らの過去を恐れていたではないか!自らの過去があの執念深いジャヴェルによって暴かれ、市長たる立場を失うことが、もうなくなるというのだから、むしろ祝すべきではないか!」

 かくしてその哀れな老人は冤罪によって不当な刑を科される。

「しかし、それは天の配剤ではないか!」

 天の配剤の名のもとに貧困、不実、不正をのさばらせることは、悪である。

 司教様が私を見つめていた。汝自首せぬならば、汝の栄光、偉業は全て、罪でけがれたものになるぞ、と。おかしい、司教様は数年前に亡くなられたはずだ。私は頭を垂れるほかになかった。

「わかりました司教様、自首して、かの哀れな老人を救いましょう」

 そこにある一語が火花のごとく舞い降りた。

「ああ私は自己中心主義者であった!あの哀れな女、子供に会いたいと熱に浮かされながら語るあの女、私が意図せず工場から追い出した女、あの女を放置するのか?またそしてこの地域は!私が工場を興し、市長としてみなに慈善と職とを与えた、この地方は!ああ義務を残して自己犠牲とはまさに自己中心主義であり、自己満足である。なんたる!私は勤勉に働こう。もっとだ!そうして生み出した巨万の富を皆に分け与え、この地域は無限に富んでいく!貧困と無教育とが根絶される!それこそが私の使命であり、仕事ではないか!全く自分のためだけにこの使命を投げ出すなどと、なんということを考えたことだろう!」

 司教様は消えていた。そうして私はを聞いた。

「そうだジャン・ヴァルジャン!貴様が後生大事に持っている、司祭から施された銀の燭台や、少年から盗んだ銀貨などを、暖炉で溶かしてしまえ!そうすればもはや最後の証拠すらも消え失せて、貴様は安泰だ!そしてお前の不正直のせいで不当に重い罪を背負った人間が一人出来上がる!マドレーヌ氏は一方では多くの人々の喝采と称賛とを受けるだろう!そうして片方では、だれにも聞こえない声が、この世の地獄から貴様を呪うであろう!」

「誰かいるのか」しかし誰もいなかった。私は疲れ果てて眠ってしまった。

 夢を見た。自首しなかった世界の夢だ。この地方は今よりも豊かになっている。貧困もなく、無教育もなく、みな笑っている。と思っていると、火事が起きた。四方八方で火の手が上がる。市長として駆けずり回っていると、ふいに冷たいものを胸に感じた。見下ろすと、滴り落ちる血。

「いやはやワシのような年寄りに復讐の力を与えてくれるなどとは」

「悪魔とは天使ではないかのう?」

 そこで目が覚めた。門番のばあさんが、馬車が来たといった。馬車?何のことだろうか。そうだ、私が自首するための馬車だ。私は行かなければならない。

 馬車に乗り込み、馬を走らせる。頭の中は全くまとまらない。急がなければ。私は身代わりになるために走るのか?もっと何か大きなものが、私を突き動かしている気がする。なぜ私が走っているのか?それにこたえるのは難しい試みのように思われた。私は投獄される。私は投獄されるために走るのだ!裁判による冤罪を打ち破るために走るのだ。慈善をなせ。正直たれ。司教様は私にそう教えたではないか。辛くとも自らを律して走らねばならない。さらば、私の市。私の地方。そうして五キロほどもいくと、エダンという小さな宿場町にたどり着いた。馬を休息させまた食事させるためにとある宿屋の前に止めると、そこの馬丁がこう言った。

「旦那様、これでこの先長くいくつもりですかい」

「あと十五キロはある」

「十五キロとはまたご冗談を。この馬車ではあと一キロもいけませんよ。ってのはね、この左後ろの車輪が、ひどく歪んでいるからですなあ」

 なるほど見るとひどく歪んで、いくつか折れている場所もある。そういえば急ぎすぎて、一回ほかの馬車と激突したような気もする。

「おい、車大工はいないか」

「すぐ向こうにおるですよ。おーい。ブールガイヤール親方!」

「へえへえ、この馬車を直せばええんで?」

「そうだ」

 親方は車輪を見るなり嫌そうな顔をした。

「こりゃあひどい。これを直すたあ一日仕事ですよ旦那。出立は明日になりますが、よろしゅうですかね」

「しかし明日では用が終わってしまう。私に売ってもいい車輪はないか」

「旦那様は馬車のことを知らねえと見える!車輪は対になるものですし、一対用意したとしても心棒に合うたあ限らねえ。そもそも、あたしは車輪など持っていないんですから!」

「では馬車をまるごと借りたい」

「.....町の旦那のが一つだけありますがね、しかしそれは二頭立てですよ。それに、五キロ程度でそんなひどい壊し方をするような方には貸さないでしょうねえ」

「では馬車を買い切って馬も一頭買おう」

「旦那様、この時期はどの馬も農作業ですよ。いくら出したって買えりゃしません」

「では鐙を買ってこの馬に.....ああ、この馬は人を乗せないのであった。では貸し馬や貸し馬車をやってるのはここにはいないのか」

「何分小さい町のことですので」

 私は喜びを感じた。私はこれだけ努力をした。冤罪をただすための努力をした。神も照覧あれ!私は精一杯務めたのだ。そして挫折した。これが天祐であるのは間違いない!

 全く、この会話を往来でやるべきではなかったのだろう。往来ということは、人に聞かれるということなのだから。

「旦那様、馬車ならうちにありますよ」

「なんと?」

「馬車なら、うちにありますよ」

 老婆がそう語りかけてきた。私はなぜか失望を感じた。私の中の自己本位な考えが舌打ちをしたのだ。ひどい馬車だった。ぼろぼろで、腐っている部分もあったが、とにもかくにも馬車であった。そうして私は旅を再開した。

しばらくするとサン・ポルという宿屋町に着いた。そこで私は白馬に一時間の休息をとらせた。お腹は空いていたが、不思議と食欲はなかった。

 そしてまた駆け出した。しかし馬はもうくたくたで、人並みの速度でしか歩けなかった。道路工夫が彼に声をかけた。

「旦那様、その疲れた馬でアラスまでいかれるかね」

「ああそうだ、あといかほどだろうか」

「あと七キロはあるね」

「なぜ?道路標示ではそんなに長くないようだったが」

「ああ旦那様は工事をやってるのをお知りにならない!あと十五分も馬車でいけば通行止めだから、遠回りをしなければなるまいよ。案内人と新しい馬が必要だろうね」

 案内人を雇い、新しい馬を買った。しばらく行くと、今度は横木が折れた。案内人がこうも言う。

「旦那、横木が折れましたぜ。これじゃあ馬を馬車につなげません」

 ナイフと縄を使って、枝を切って横木にした。それでまた二十分かかった。私はここまでしていかなければならない。大いなる力に動かされているのだ。そうして私は八時にアラスについた。六時間のつもりの旅に十四時間もかかってしまった、もう裁判は終わっているかもしれない。宿屋に馬をつながせ、裁判所を探した。そうして帰りの駅馬車を予約した。よく考えると、私は裁判所の場所もいつ裁判が始まるのかも知らなかったのである。致し方ないから町人に聞いた。

「あの、すみませんが、裁判所はどこでしょうか」

「運がいいですね、裁判所なら私も今から行くところです。今は裁判所の修繕中でして、市役所が裁判所を兼ねているのです。しかし、裁判は普通は六時に終わるものですから、あなたは少々遅すぎたかもしれません」

 冤罪から彼を救うつもりで来たのに、その言葉がいかに甘美に感じられたことか!そうすれば私の名誉と平穏は守られる!

 果たして、”残念なことに”裁判所の明かりはついていた。

「やあ間に合った、あなたは運がいい!」という声を背中に、私は走りだした。

壁が薄いのか、どこかのドアか窓が開いているのか、裁判の声が漏れ聞こえる。

「被告人は、ピエロンの園といわれている果樹園の林檎の木から、熟した林檎のなっている枝を一本折って持ち去るところを、すぐそばの畑の中で捕えられたのである」

「被告は実に無頼漢であり、前科者であり、最も危険なる悪漢であり、長く法廷よりさがされていたジャン・ヴァルジャンと呼ばれる悪人である。彼は八年前ツーロンの徒刑場を出るやいなや、プティー・ジェルヴェーと呼ばれるサヴォアの少年より大道において強盗を行なった。これ実に刑法第三百八十三条に規定される犯罪である」

「しかしながら、リンゴを盗んだ証拠は明白ではない......地に落ちているのを見いだして拾ったまでだと言っている。どこにその反対の証拠があるのか?」

「結局のところ、この男が元囚人ジャン・ヴァルジャンであるかどうか、それが問題であるわけです。再犯かどうかが決まるわけですから」

 守衛がいた。マドレーヌ市長だと言って通してもらった。私はドアを開け、ある哀れな老人に冤罪をかぶせようとする人々の中に飛び込んだ。

「私がジャン・ヴァルジャンである!」ああ言ってしまった。もう後戻りはできないぞ。一気に場内は静まり返った。裁判長が口を開いた。

「誰か、この中に医者はおられませんか」

「ああ裁判長殿は私を狂人と思われる!しかしそうではありません」

 裁判長はなお言った。

「諸君は皆少なくとも世間の名声によって、名誉あるモントルイュ・スュール・メールの市長マドレーヌ氏を御存じであることと思う。もしこの中に医者がおられるならば、マドレーヌ氏を助けてその自宅に送り届けることを、私は願います」

「私は、あなたに感謝します、しかし私は気が狂ったのではありません。私がジャン・ヴァルジャンです。私は違った名前を用い身を隠し、富を得て市長になりました。私は正直な人になろうとしたのです。しかし悲しいことに、それはできませんでした。私は司教閣下のものを盗んだ、それは事実です。私はプティー・ジェルヴェーのものを盗んだ、それも事実です。諸君は私の部屋の中に、七年前私がプティー・ジェルヴェーから盗んだ四十スー銀貨を見いだされるでしょう。私はもうこれ以上何も申すことはありません。私を捕縛していただきたい。ああ裁判官殿は頭を振っておられる。あなたはマドレーヌ氏は気が狂ったと言われるのですか。あなたは私の言うのを信じないのですか!ジャヴェルなら私を確実に本人と認めてくれるだろうに。よろしい、ならば証拠を見せましょう」

 私は三人の囚人のほうを向いた。

「おい、私の方ではお前たちを覚えている!ブルヴェー!お前は思い出さないのか?私のほうでは、お前が徒刑場で使っていたあの弁慶縞の編みズボンつりを覚えているがな。シュニルディユー!お前には右の肩にひどい火傷やけどの跡がある。T・F・P汝は人を恐れさすであろうという三つの文字を消すために、火のいっぱいはいった火鉢にある時その肩を押し当てたのだ。しかし文字はやはり残っている。どうだ、そのとおりだろう。そしてコシュパイユ!お前には左の腕の肱ひじの内側うちがわに、火薬で焼いた青い文字の日付がある。それは皇帝のカーヌ上陸の日で、一八一五年三月一日というのだ。袖をまくってみろ」

 囚人たちはみな愕然とした。どれも事実であったからである。

「これらが証拠です。私はこれ以上審理を乱したくありませんし、諸君らは私を逮捕しませんので、私は引き取ります。しかし私の居場所がどこであるかは諸君らも知っておられるだろうから、いつでも捕縛できるでしょう。それでは失礼します」

 私は駅馬車で戻った。せめて捕縛される前にあの哀れな女の娘たるコゼットは助けなければと思った。私はあの哀れな女のところに行った。

「調子はどうだい」

「ああ市長様、だいぶんよくなっていますわ。コゼットにあと数日で会えると思うと、もうどれだけでも駆けられそうですわ!」

「そうかい、でも無理はしてはいけないよ」

「ええもちろん市長様、コゼットと会う前に死ぬようなことがあってはいけませんもの」

 バタン、という乱暴な音とともに、警察官を従えたジャヴェルがやってきた。その時の女のおびえようのかわいそうなことと言ったら!

「貴様を逮捕する!」

「私は何もしておりませんわ!」

 あの女がジャヴェルにおびえるのは道理だ。だから精神を安静にさせてやる必要がある。

「安心しなさい、彼はあなたを捕まえに来たのではない」

 ジャヴェルは私の首筋をつかんだ。

「市長様!」

 ああ、あの哀れな女の声が聞こえる。急なことで病気に響かないといいが。

「はっ、市長様などというのはもういないんだ、こいつは犯罪者なんだ」

 しかし、とにもかくにもこの女の娘を連れてくるだけのことはしなければならない。

「警視殿、あなたに、お願いがありまして.....」

「貴様はそんな立場にない!」

「三日の猶予を与えて下さい。このあわれな女の子供を連れに行く三日です。必要な費用は支払います。いっしょにきて下さってもよろしいです」

「笑わせる!そこまで愚かであったとは!逃げるために三日の猶予をくれと言うのだろう。そしてそいつの子供を連れて来るためだと言う。あはは、けっこうなことだ。なるほどうまい考えだ!しかしだな、!」

「子供は来ない!そんな!」哀れな女は悲痛な叫びをあげた。「では私の子供はどうなるんです!」

「黙れ淫売め!徒刑囚が役人になったり、淫売婦が貴族の取り扱いを受けたり、何という所だ!だがこれからはそうはいかないぞ。正義と秩序の始まりだ!」

「子供、子供、ああ...コゼット」

 なんということだ、女ののどがぷるぷると震え、手が何かを探し求めるかのように空をかき、歯が震えた。そして、哀れなる女は死んでしまった!先ほどまではあんな元気だったのに、こんなにも急に。

「あなたはなんということをしたのだ。あなたがこの女を殺したのだ!」

「黙れ犯罪者め!」

 こうして私は投獄された。マドレーヌ市長が、囚人ジャン・ヴァルジャンとなったのです。

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