ジャン・ヴァルジャンの見た夢
俺自身もとっくに忘れきってた、随分と昔の夢だ。
貧しい農村に生まれた、貧しい農村の子だった。あの頃は文字も読めなかった。親父もお袋も、すぐ死んじまって、頼れるのは姉ちゃんだけだった。その姉ちゃんにも七人の子供がいた。俺がなんとか枝切りの仕事で食っていけるようになると、姉ちゃんの夫も死んじまったから、今度は俺のほうが姉ちゃんと、その七人の子供を食わせなきゃならんかった。姉さんはいつも俺の皿からうまくて栄養のある部分だけとってったがーーーーーーそれだって子供に食わせてやってたんだから、まあうるさく言うこともないと思ってた。
苦しかったがなんとか食ってけたんだ、あのクソったれな冬が来るまでは。
凍てつく寒さ、んでパンもねえ薪もねえ、ガキどもは腹を空かせてピーピー泣きやがる、そしたらパンをなんとかするのが俺の役目だ、と思って働きに出ても仕事もねえ。町をぶらぶらしてるとパン屋がある。随分と不注意だ。なあに鍛えた体だ、バれやしねえ。それにこちとら、七人のガキだぞ!
そして、割れるガラス、流れる血、手には一本のパン、駆けつける警官、押さえつけられ、連行され、よくわからない偉そうな人のしゃべり(それが裁判というのだというのはその後知った)、そして懲役五か年。鉄の鎖に名前は番号。それでも俺には子供が七人に姉がいるんだ。戻らなきゃならん。四回脱獄して、四回捕まった。それで合計十四年の追加だ。そんで俺はパン一本に十九年支払ったわけだ。
刑務所での徒刑は辛かった。とにかく力仕事をさせられた。俺は生まれつき力が強かったから、ひどいときなんてのは起重機の代わりをさせられた。あだ名がそのまま「起重機のジャン」だ。全く、俺は機械じゃねえっての。しかし力が強いのは悪いことばかりじゃあなかった。ここに枝切り職人としての身軽さを足してやれば、俺たちが、ああつまりは囚人たちが<自由の学問>と呼ぶところのものを実践してやるのはたやすいことだった。切り立って手がかり足がかりなんざ全くない壁をするする登って脱獄するなんざ、機会があればたやすかったってわけだ。それで十四年余分に増えたけどな。
それにしてもあの頃は辛かった。そして俺は考えた。おい、確かに俺は悪かったよ。パンを盗むってのはよくないよな。でも、パン一本で五年?だいたい、俺は真面目に働こうと思って町に出たんだぜ。それも自分のためじゃなくて、七人の鼻たれガキどものためだ。それなのになんも仕事がねえってのがまずおかしいだろ。だいたい教育もなくパンもなくなんも世界からの助けはなく、金持ちはますます肥え太り、そこからパン一本もらおうとしたら五年?世界は俺を助けたことはない。そして俺を鞭打つばかりだ。怪しからん。俺が世界から受けたものと与えたものを天秤にかけたら、天秤は二度と浮き上がってこれないだろうよ。そうだ、俺はそう考えていたんだった。
俺は、
そして俺は刑務所で読み書き計算を習った。やがて来る復讐の時のために、知恵を磨くのはまさに憎悪を磨くことだった。そうして俺は十九年間を過ごした。そして自由となり、ついにこの社会に復讐をーーーー
そこで目が覚めた。真夜中のようだ。家の中は静まり返っている。様々なことが頭をよぎったが、俺は食事の途中に見た、牧師様の食器のことを思い出した。あれは古くていい品に違いない。二百フランはするだろう。俺が十九年の間に稼いだ、その二倍!しかし牧師様には御恩があるが......しかし俺は社会に復讐をするのではなかったか。社会とは王族と貴族と聖職者と商人とではないか。であれば、あれぐらいを奪ったとて何になろうか。その時、時計が半刻を打った。そこで俺は始めた。
随分と気を使った。なんせ町の牧師様の家だ、ちょっとでも騒ぎを起こせば誰かが駆けつけるだろう。ギイギイいう油もさしてねえドアだの、そういうのと格闘しながら、まあ俺はやり遂げたわけだ。三十八年を胸に抱いて、俺はおさらば。できたらよかったんだがな。
夜中に俺みたいなよそ者が歩いたらどうなるかさっぱり忘れてるなんて、まったくぼけてるぜ。あの牧師様には調子を狂わされっぱなしだ。見つかり、牧師様の私物が懐から、押さえられ、連行され、んで朝には牧師様とご対面だ。俺を取り押さえた衛視が言うわけよ。
「閣下!」ってな。おい、閣下だってよ。じゃあ平牧師じゃなくて司教様じゃねえか。なんたって牧師だなんて名乗ったんだ。いや、そんなことに驚いてる場合じゃないんだけどな。
「私どもはこの男に出会ったのです。逃げるようにして歩いています。つかまえて調べてみました。するとこの銀の食器類を持っていました……。」
ああ終わりだ、また刑務所、んで鞭打たれ繋がれながらの激務、そういうのが待ってる。
ああ牧師様が口を開いた、たぶん俺を責めるんだ、信用していたのにとか神の裁きとかなんかそういうのだ。
「ええその食器は私があげたのです」
えっ?いや盗んだんだが。
「ところでどうしなすった、私はあなたに燭台も上げたのだが。あれもやっぱり銀で、二百フランぐらいにはなるでしょう」
盗人に追い銭?全く訳が分からない。物色したからわかるが、この牧師さんはこれきりまともな財産をもってねえ。それで燭台までくれるって?
よくわからないが、よくわからないうちに俺は無罪放免ということになった。そりゃあ、盗まれた側が「それは私があげたんです」とか言い始めたら無罪放免だよな。でもなんでだ?
衛視は去った。それを見届けた後に、牧師様はこう言った。
「忘れてはいけません、決して忘れてはいけませんぞ、この銀の
正直な人間?俺はそんなの約束してない。ああ、でも、確かに器をもらったんだから、何かはしないといけないのか?
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
もうこうなるとわけがわからない。義務と復讐と恩義と金と温情とそういったものが頭の中をぐるぐるしている。ああわからないわからない。とにかく逃げた。逃げて逃げて、気づいたら草地にいた。何せ復讐したら復讐した相手に助けられたのである。そしていい人になれと言いくるめられたのである。もうこれはわけがわかろうはずもない。
そこに四十スー銀貨を持った男の子がきた。年は十ぐらいだろうか、銀貨をいくつかお手玉しながら歩いてきたが、うっかり俺の足元に銀貨を落としたのを、俺もうっかり足を乗せちまった。
「おじさん、僕の銀貨を返して」というのを、うっかり何度も怒鳴りつけて追い払っちまったが、これは俺がやったんじゃない。俺の習慣が勝手にやったんだ。とにかくうっかりというのがふさわしい。俺はずっと頭がぐるぐるしてて、体のほうで染み付いたことをやっちまったんだ。だからやっちまったことに気付いて追いかけたんだが、見つけることはとてもじゃないができなかった。そいつは自分のことをプティー・ジェルヴェーだとか言ってたが、名前しかわからないんじゃあどうしようもない。
とうとうわからなくなった。俺はあの牧師様が言ったように、善の人間になるのか?それともあのような情けをかけられた後、さらに子供を虐めて銀貨を得るような、どうしようもない悪の人間になるのか?とにかく中間はないんだ。とても善になるか、とても悪になるかしかない。それだけはわかった。
俺のリュックは盗んだ銀食器と銀の燭台でいっぱいだ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
でもそれは正当に譲り受けたではないか。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
俺は子供から銀貨を奪った。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
しかし俺は返そうと思ったんだ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
なんであの声が何度も聞こえるんだ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
暗黒な思想や破滅の精神というのはなんだ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
俺は十九年間刑務所にいた元囚人だぞ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
俺は復讐するんじゃなかったのか。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購あがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます」
しかし五十七年分ももらったではないか、十分ではないか。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
それでこの後はどうするんだ。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
では俺の魂は贖われたのか。俺自身から。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです」
俺は泣いた。人はどうしようもなくなると、泣くしかなくなるんだと思った。泣いて、泣いて、泣いた。そして泣き止むと、牧師様が職がたくさんあると言っていた、ポンタルリエに行くことにした。
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