第69話 クライミング・マスター

 此処は、ある出版社のビルディング。その一角に、取り分け慌ただしい空間が有った。バチバチと。絶え間なく響くタイプライターの音と、終わらない会議の声。新たな雑誌が創刊されようというのだから、無理も無いが。

 その中心でピーターもまた、忙殺されそうになりながらも手を口を動かしていた。


 「原稿あがったか! 此方で見るから寄越せ!」

 

 ドヤされた部下が、紙束を此方に持ってくる。其れを、最近流行りのボールペンを握りながら、校閲する。

 内容は、記録クロニクルのページ。


 (ふむ)


 まだ粗は有るけれど、悪くはない。何よりも、今までとは内容の充実度が桁違いである。


 (クロニクルは、一番本腰を入れてかき集めたからな)


 何せ、創刊号であるから。古今東西、国内外どころか大陸の外まで。あらゆる近代登攀の記録をかき集めた。ただ年表になっているワケじゃない。最近の登攀に関しては、登攀のスタイルや装備にまで言及した。

 此れだけでも、今までの山岳誌とは一線を画す出来だ。


 「よし、取り敢えず見とくから、お前も他の校閲に入れ。あとは、新しい情報が入ったらすぐに入れるから、其のつもりでいろよ」


 ピーターの言葉に。はい、と力なく部下が返事をした。コイツに限らず、この件では皆よく働いてくれている。

 一区切り付いたら、何か奢ってやらなきゃ、そう思いつつ。ピーターは紙束に目を通し続ける。

 そんな時――


 「ピーターさん、届きましたよ!」


 封筒を抱えて、事務の娘が駆け寄ってくる。

 送り元は、仕事の依頼を出したデザイナー。やっと届いたか!


 「よし。皆来てくれ!」


 作業の手を止めさせて、全員を呼びつける。非効率かもしれないけれど、そうするだけのモノが届いたのだ。


 「――表紙が、来た」


 そう言って、ピーターは封を切った。男達がざわつき始める。表紙の出来が、雑誌の売上に与える影響は余りにも大きい。だから、此の封筒の中身を取り出したときの、皆の素直な反応が知りたかった。


 「じゃあ、行くぞ――」


 そうやって、ピーターは封筒に指を差し入れた。上質紙の艶やかな感触が、指先に心地よい。

 勿体ぶっても仕方ないから、一気に抜き放って、机の上へ置いた。全員が一斉に、その一点を見つめて――




 …………。


 押し黙る。誰も言葉を発さずに、数秒が経つ。誰も彼も、動こうともしない。

 失敗だろうか。皆、これまでの自分の苦労を無碍むげにされたと思ったのか。

 でも、そんな状況の中で。ピーターの頬が、自然と吊り上がった――




 「――すげえ」


 長い静寂の後、はじめに聞こえた言葉が其れだった。

 其れを合図に下か、堰を切ったように――


 「「「おおおおおおおおおおおおおお!!」」」


 歓声が上がった。

 文句なしの、賞賛である。


 (こんなにシンプルなのにな……)


 そう、デザインは至ってシンプルだった。

 色の付いた地に、写真が大きく載って、其処に文字が踊っているだけ。それなのに。


 「コイツが、カーナーシス氏の秘蔵っ子か……」


 おおよそ何も無い、スラブの上で。よく解らない何かの間でバランスを取って、此方へと手を伸ばすジェイムズの姿。

 その上に、飾り気のないフォントで書かれた「CLIMBING MASTER」の文字。


 「カーナーシスさん。コイツは成功するぜ」


 絶対の確信をもって、ピーターは呟いた。




 「へえ。クライミング誌が出来るんですか」


 当のジェイムズは、そんな気の抜けた声を出していた。


 「お前が表紙になるのに、其れだけか……」


 カーナーシスは、笑顔で肩を落とした。

 ジェイムズは、知らない岩場のトポとか載ると嬉しいですねえ、とか。そんな事を呑気に言っている。


 (まあ此れで、私がいなくなっても、ジェイムズは暮らしていけるだろう)


 スポンサーだって、マトモな会社から付くはず。

 其れが達成できたのだから、ジェイムズの間抜けな返事も、気には触らない。寧ろ、この青年のこういう所を、カーナーシスは気に入っていた。


 「そう言えばだ、ジェイムズに頼み事が有るんだ」


 もう、雑誌の話は此れでお終い。これ以上は、血気盛んな連中が盛り上げてくれる筈。

 そう思って、カーナーシスがジェイムズの方を向いた。


 「今度、フリークライミングを教えてくれないか――」


 一瞬、ジェイムズは驚いた様な顔をして。すぐにいつもの柔らかな笑みに戻って。


 「――良いですよ」


 そう、了承した。 

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