第68話 決定
カーナーシスの、腹は決まった。詰まりは、算段が付いたということ。
老練な彼のことであるから、弱点を突くような巧みさで、この難所を切り抜けるのだろうか。
「そんなことは、無理だ」
残念、其れが出来るだけの発想力は、カーナーシスには無い。そういった閃きが脳を走るには、彼の頭は老いすぎた。
だから、今しがたの彼の思いつきは、到底策とは呼べないようなモノ。
「だけど、登れてしまえば一緒だろう」
仮に落ちても、チェスターが止めてくれる。その為のビレイヤーだ。
「――よし」
行くぞ、と。カーナーシスは一呼吸を入れて。そうやって、次の瞬間彼は――
――飛んだ。
「なっ――!!」
チェスターに緊張が走った。
長らく膠着したかと思えば、何を思ったかあの老人。スタンスに飛び乗ろうとしやがる……!
「くそったれ!」
即座にチェスターは、ロープを緩める。緩めるのだが、もし彼が落ちれば、一瞬でその墜落を制動にかからなければならない。
人知れず戦っている彼の苦労も、自身が呼び起こしたのであるから、仕方の無いことであった。
――飛ぶ。飛び乗る。腰の横にあるスタンスへ。自身の跳躍力だけじゃあ足りないから、両腕を一杯に引き付けて。
「よっしゃあ!」
長らく発した覚えも無いような言葉が、自然と出てきた。右足が、しっかりと足場に乗っていたからである。
でも。
「本当にポンコツだなあ此の足は!」
左足は切れたから、
だからと言って、其のまま落ちるつもりなんて、更々無い。
「前にもあったんだよ、こういうの!」
思い出せば、若かりし頃だって柔軟性に欠けていた。だから、こうやって乗り込みに失敗する機会はまま有った。
その度にどうしたかと言えば――
「――こうすりゃ良いのさ」
右手を右膝に当てて、其れで――
――強引に、膝を下げた。
(其処も力づくかよ……!)
そんなチェスターの心の叫びは、カーナーシスには届かない。
ただ、足に手と言うべきか、その強引な
「見たか!」
誰に言っているのか、カーナーシスはそんな事を叫びつつ。完全に乗り込んだ右足の上に体重を預けて、右手で上のホールドを掴む。
もう、ここ迄来れば彼を止められるものはない。スリングを岩に括り付けて、プロテクションとして。そうして更に上に上がっていく。
「楽しいなあ――」
カーナーシスは、笑顔だった。こんなにも心踊ったのはどれだけぶりか。
撚れて限界間近だった足も、何時の間にか疲労を忘れるように動いていた。
「こんなに楽しいものだったか――」
ムーブは、それ程美しくは無い。足の動きは重心の位置を考えていないし、ホールディングも何の工夫も無し。それなのに、驚くほど自信満々に、上へと進んでいく。
「スポンサーになっただけで、満足してる場合じゃ無かった」
今度、ジェイムズに教わろう。そんな当人の預かり知らない決定を下しながら、一歩、一手、更に上へと進んでいく。
より強く風が吹き付けるけれど。カーナーシスは、其れが自分を誘っているのだと疑わないまま、より高みに至る。
「ああ――」
そして、左手が捉えた。
北沢沿い、その岩壁の終わり。
「――老人でも構わないじゃないか」
右手も持って、一気に駆け上がる。
両の足で立った岩壁の上は、いつもよりも少しだけ高いところ。
「これだけ、楽しいのだから」
老人は若者のために。其の思いは変わらないけれど。何も、ただ老いぼれて行く必要は無かった。
ベン・パイク山、頂上。割と開けてはいるし、昼時である。ノーマルルートをハイクして来た客は其れなりに居たが、岩壁を這い上がってきたのはカーナーシスら三人だけであった。
「珈琲、入りましたよ」
チェスターが
「ありがとうな」
特に何の活躍もしていないピーターが、一番に手を付ける。続いて、カーナーシスが礼を言って受け取った。
「――旨いな」
カーナーシスが呟く。
「旨いでしょう」
チェスターが返した。
「しっかし、今日のカーナーシス氏は生き生きしてますな」
ピーターが笑いながら言う。
「そんなにか……」
楽しいのは事実だから良いのだが、そんな傍から見て判るぐらいだと、少し小恥ずかしくて。
そんな様子を見て、ピーターがまた口を開いて。
「だって。いつもは眉間に皺ばかり寄せているのに。今だってずっとニヤけてますよ」
そう指摘されて、カーナーシスが口元を慌てて隠す。堪らず、チェスターとピーターが笑った。
そんな風に、他愛もない話をしつつ、珈琲を飲み進めて。コップが空になる頃に、ピーターが話し始めた。
「何かですね。只の登山とクライミングって、似ているんだけれど、やっぱり違いますね」
「正直、今日のあれだけじゃあ、其れ以上は分かりません。二人のケツに引っ付いてっただけですから」
謙遜したワケでは無く、其れが只の事実であろう。
でも――
「でも、何て言うんでしょうね。何か、二人の顔が、周りにいる登山客とは違うんですよ」
ピーターはそう言っても、周りの顔ぶれだって、其れなりに楽しそうにしているし、違いが有るかなんて普通の感性じゃあ分からないけれど。
「その顔が気に入りました。クライミング誌、作りましょう」
その言葉に、どれだけの重さが在るのか。今、ベン・パイクの頂上にいる誰にも判らない。
チェスターは、黙って口角を吊り上げて。カーナーシスは、コップの底に残っていた珈琲の一滴を、喉の奥に流し込んだ。
ベン・パイク山 北沢ルート
十二時二十三分 チェスター隊頂上到着
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