第67話 呼び起こされたもの

 その終わりを表し始めた岩壁を、チェスターはじっと見つめる。

 先程から、手に握るロープに動きがない。上を登るカーナーシスが、上で壁に張り付いたまま止まっているせいだ。


 (落ちてしまうだろうか)


 本音を言ってしまえば。チェスターとしては、カーナーシスが此のピッチを登り切れるとは考えていなかった。

 そう難しいルートでは無いが、既に終盤である。今日一日で蓄積した疲労は大きい筈。


 (けれど。あんなに登りたそうとしているものだから)


 登らせてあげたかった。

 今日の登山の主役は、誰と決まっているワケでは無いけれど。チェスターは、只のガイドで。ピーターは、見ること重きを置いている様だから。


 (此の最終ピッチ、トップを張って何か得られるのは。カーナーシスさん、貴方だけです)


 だから。不安を抱えつつも、チェスターは送り出した。

 ピーターには偉そうに言ったものの、隊のリーダーの判断としては、下策であるのに。


 (上手く落ちれば、死にはしませんから――)


 だから、頑張ってくださいと。祈るチェスターに出来るのは、両手のロープを捌き続けることだけ。




 「下の連中は、不安がっているかな――」


 人の心配を他所に、カーナーシスは不遜に笑った。

 そうして、足を下げて。一度、休息を取る。80度程の斜面であるから、バランスさえ上手く取れば、両手だって離せる。


 (しかし、どうするか)


 落ち着きは取り戻した。取り戻しはしたけれど、其れで若い頃の肉体に取って代わりはしない。相変わらずの、老いぼれの不良品。

 其れをどうにか、上へと持っていかなければいけない。


 「足が、もう少し上がれば良かったんだがなあ」


 しかし、そうなるには柔軟性が足りくて。結果、精一杯上げた右足は、スタンスに届きはするけれど。乗り込む力を込めるには至らない。


 「ジェイムズが言っていた、カウンターバランスって奴は、使えそうには無いなあ」


 下の足のまま、手を伸ばしても。無念、届くにはもう三寸は足りない。だから、右足を上げて乗り込んで取る。此れ自体は変えようが無いのだ。

 そんな思慮の半ば、カーナーシスを擽るものが一つ。


 ――びゅおおう。


 「相変わらず、煩い風だ」


 耳を、身体を。谷風が通り過ぎる様に撫で付ける。何か、呼ばれている様な気がする。別に、風に乗って飛び降りろとか、そんなことじゃあ無いだろうが。


 「そういや。今日の記憶といえば、チェスターの登りと、灰色の壁しか無いな」


 余りに久しぶりの山だったから、岩ばかり見ていた。自分はクライマーだから、そうするべきだという強迫観念もあったかもしれない。

 若い頃の自分は、山で遊びながら、何を思っていただろうか……


 ――びゅう、と。また風が、カーナーシスの背中を撫でた。少しだけ、さっきよりも優しい風。古い肉体の記憶が、懐かしさを感じた。


 「後ろ、後ろなんだな」


 風が、後ろを向けと言っている。カーナーシスは、勝手にそう解釈をした。

 だから。右手を離すして、首を回す。自分が背にしたものを、その視界に捉えて。




 「――ああ」


 其処にあったのは、別段予想通りのもの。


 ただ、空が青くて。新緑を飾る森を、遥かな足元に置いてきて。遠くの大地は、老人の目には霞んで見えて。そんなだから、何も無い空間ばかりが、淡々と広がって。

 なのに――


 「――そうだった」


 この空間は、虚空では無いのだ。多くのもので満ちているのだ。

 風が、森や岩肌の音を運び。鳥が高みからさえずって。何処かのパーティが歌わせるハーケンの音は、未だ新人がやっているのだろう、チェスターよりも大分下手くそで。


 「この中にいるのが、好きだったんだ」


 そんな、此処に満ちる何もかもにも遮られずに。岩岩に照り返されながら、暖かな陽光がカーナーシスの顔をじんわりと温める。

 登るものにしか判らない、心地よい空間。その中で――


 「――こんな最高の場所で。自分を思い切り痛めつけるのが、大好きだったんだ」


 そんなことを、カーナーシスは思い出した。

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