第66話 震える足

 「しっかしまあ、大丈夫なんだろうか」


 ピーターが、真剣な面持ちでチェスターに尋ねた。無論、先を登るカーナーシスの事である。


 「平気だと思いますよ。一つ目のプロテクションは取ったし、グラウンドフォールの心配も有りません」


 対して、チェスターは軽いノリで返す。


 「だけどなあ。言っちゃあ何だが、爺さんだぞ」


 「大丈夫ですって」


 尚もピーターは心配するけれど。何の根拠が有るかは判らないが、チェスターは確信しているようで。


 「此の隊のリーダー・・・・は俺です。出来ない奴にトップはさせませんよ」


 そうまで言われちゃあ、ピーターは信じるしか無かった。




 平らな大地の、遥か上。岩壁に吹き付ける風が耳をくすぐって、酷く煩く思える。

 僅かな足がかりの上で、カーナーシスは戦っていた。


 「――はあっ」


 息が切れる。先程までは、順当に動いていた体から、きしみが聞こえる気がする。

 下を見る度に、高度感が実感となって襲い掛かってくる。


 (本当に、出来るのか)


 自問自答する。

 老人のやることだ。今から引き返しても、許しては貰えるだろう。撤退は、悪ではないのだから。

 でも――


 「――引けないわなあ」


 心が、上へ行きたがっている。体から垂れるロープは、カーナーシスを下に引きずり落とそうとしているかの様に、重さを伝えて来るのに。


 「はっ」


 一手、二手。手を動かして、足を少しづつ上げて。そうして、ほんの少しずつ、上へ進んでいく。


 「彼処あそこで、プロテクションは取れるな」


 カーナーシスの、2メートルくらい上。岩の出っ張りが見える。チェスターがやったように、スリングを結ぶだけで十分だろう。

 そう決めたら、また。腕を手がかりに突っ込んで、上へ上がる。右上に見える、出っ張りを掴んでしまえば終わりであろうから、其れを掴もうと、腕を伸ばして。

 けれど。


 「届かないか……」


 立ち込むだけじゃあ、届かない。

 仕方ないから、右足を上げて、ハイステップの格好になる。正対で乗り込んで、上へ行こうとして、そのとき――


 「――ああっ!?」


 足が、右足が。震えて――


 (――マズい)


 右手も、左手も。きちんと持っている。直ぐ様バランスを崩すということは無かろう。

 でも、不格好に上がったままの右足が、言うことを聞かない。震えたまま、動こうとしない!


 「頼むっ」


 そんな懇願も、無視される。先程まであった心地よいスリルが、途端に恐ろしいものへと変わる。

 ぶわっと、全身から吹き出す冷たい汗が、不快感ばかり募らせて。手にすら滲み出てくる。ああ、ホールドも滑り始めたっ!


 (墜ちたくないっ)


 プロテクションは取ってある。ビレイヤーも信頼できる。でも、底知れぬ恐怖が、執拗にカーナーシスの身を縮こませていく。


 (もし、死んだらどうなってしまうのか)


 天国とやらは有るのだろうか。山で死ぬのだから、学生時代に死んだ同輩にも会えるかもしれない。

 彼奴等アイツラも、死ぬ前はこんな気持だったろうか。


 (でも。死んだら、クライミング誌の話も流れてしまうのか)


 チェスターは情に厚い男だから、責任を感じてしまうだろう。

 ピーターは、よりクライミングに忌避感を覚えるかもしれない。


 (やり残したこと、他にも有るな)


 スポンサーに付いたばかりのジェイムズ。金は月ごとに渡しているから、私が死んだら困るだろうに。


 (ああ、ジェイムズと言えば――)


 未だ有る。使用人だって、付けてやれて無い。過去のクライミングについては、未だ聞いていない話ばかりだろう。何より、この間撮らせた写真が、フィルムの現像が済んでいないままだ。


 (アイツの登りは、やっぱり凄かったな)


 ネガを透かして見るだけで、とても心が踊るようだった。もう一度、自分の目で見たいと思わせた。こんな老骨とは違う、本物の登り。今でも、脳裏に焼き付いて離れない、夕映えを集めた岩の上の姿。


 「ああ、ジェイムズ」


 そんな考えごとをしている内に、気付けば――


 「お前が余りに凄いものだから、此方こっちもまた、その気になってしまったじゃないか」


 震えは止まっていた。

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