第65話 欲

 チェスター、カーナーシス、ピーター。三人揃ったまま、既にルートの終盤に差し掛かっていた。

 カーナーシスにとっては、久しぶりの、本当に久しぶりのクライミング。吊られながらなら、案外プルージックを使わないままに、ここ迄来れた。


 「はあっ。やっと着いた――」


 ロープに巻きつけたスリングを握りしめて、下からピーターが這い上がってきた。

 山道を歩いていた時に比べて、随分へばっているいる様に見える。


 「お疲れ様です」


 チェスターが声を掛ける。比較的広い終了点で、三人が並んで立てるぐらいの幅はあった。


 「ありがとうなっ。しかし、チェスターくんは兎も角、カーナーシス氏も、どうして余裕が有りますねっ」


 息も絶え絶えに、ピーターがカーナーシスに聞いた。


 「其れは――」


 其れは。カーナーシスは、言いよどんだ。

 長らくやっていない、クライミングだけれど。其れでも、山道を歩くよりも、体が自在で有るように感じて。何でなのかは、自分でも理解らなかったから。

 けれど。


 「そういうのを、経験の差っていうんですよ」


 チェスターが、横から口を出して。


 「まあ、そりゃあそうか。流石ですわ」


 ピーターも納得した。


 (そうか。経験か――)


 こんな、進むことさえ忘れた老骨の肉にも、覚えていることが有るのだ。

 カーナーシスは、身の内に、疼くものを感じた。




 そうやって、最後から二番目のピッチ。

 黙々と、トップで登るチェスターを、男二人が眺めて。


 「しっかしまあ、速いのは勿論ですけれど。上手いもんだ」


 ピーターが感嘆する。

 カーナーシスに繋がったロープの先で、チェスターがプロテクションを取っていた。凡そ80度程の傾斜の中、岩の形状に上手く体を嵌め込んで。片手で、飛び出した岩にスリングを引っ掛けて、結び上げる。


 「ああいうのは、比較的古い技術だが、だからこそ知らん奴も多いだろうな」


 「そうなんでしょうね」


 セットが決まったようだ。ロープをクリップして、再び上へ向かう。余りクライミングに適していないような登山靴の先端が、僅かな岩の欠けを捉えて。腕の、肩の、全身の力で引き付けた体が、足のバネと連動して勢い良く上に上がる。


 一手。二手。三手。このピッチの、一番難しい所を、飄々と超えていき。


 「棚に上がったぞ」


 壁からせり出したような岩の棚に、其れでも50センチメートル程度の幅では有るが、チェスターは上がった。

 壁に体を預けつつ、取り出したハーケンを狭い割れ目クラックに打ち付ける。


 ――カンカンカンカン。


 山間に、音が響く。

 カーナーシスには、とても、とても懐かしい音。


 ――キーン!


 一段と、高い音が鳴って。


 「ああ、刺さったよ」


 カーナーシスが呟いた。

 触らなくても判る。ハーケンが歌ったのだから、其れが証となる。

 暫くして、セルフビレイも終わったようで。


 「確保ーー!!」


 チェスターの声が聞こえた。


 「了解!」


 ビレイを解除して、自分の体のロープを取り回す。

 岩肌に、手足を掛ける。


 「じゃあ、先行ってくるぞ」


 「お気をつけて」


 チェスターの様にはいかないから、一歩一手、丁寧に。


 (意外と、落ちる気はしないな)


 高度感は感じるが、其れに依る恐怖は無い。

 支点も取らないで良いし、自分の体重も上に引っ張り上げられているから、それ程気にしないで済む。


 (トップじゃ無ければ、楽なもんだな)


 遠い記憶。山ばかりに凝っていたあの頃は、自分ばかりトップをやりたがった。難しい役回りだけれど、やっぱり其れが一番楽しいもので。


 (今は、どうだろうか)


 セカンドで、こうしているだけでも楽しいけれど。昔を思い出すにつれて、何か足りないようにも思えてきた。

 欲深いものだと、カーナーシスは思う。


 ――そうやって。

 核心の何手かも、無事越えた。上を見れば、チェスターの姿も近づいて来て。




 「ナイスクライミングです」


 チェスターに声を掛けられて。このピッチも終えた。

 達成感も有るけれど、やはり何か、飢える様な気持ちにもなって。


 「カーナーシスさん」


 そうした感情を、チェスターに見透かされたのか。

 セルフビレイも取り終わって。彼の口から出てきた言葉は、正気を疑う様な、それでいて待ち焦がれた様な言葉。


 「ラストピッチ、トップやりません?」


 理性を備えている筈のカーナーシスの頭は、横に振れようとはしなかった。

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