第64話 狼のチェスター

 沢沿いの滝沿い。けれど、飛沫しぶきを浴びることも無い乾いた岩壁。チェスターは、岩との対話を体に任せて、脳を記憶の海に沈ませた。何年か前、クラブで未だ、長となる前の頃の思い出である。

 淡々と岩壁を駆け上がる間は、常人には全く理解しがたい事では有るが、チェスターにとっては良い思慮の機会であった。




 おおよそ、フリーの登攀技術において。ジェイムズとデイヴィッドの両名に対して勝る能力を、チェスターは持っていない。其れ一辺倒の人間と比較すれば、山屋であるチェスターが劣るのは当然のことであるし、そう卑下する事もないだろう。


 (――だけれども。俺は悔しかった)


 チェスターは、クラブに入った当初から期待されていた、謂わばホープであった。ハイスクールに居たときには既に、難しい山を幾つもやっていて。だから、同学年では筆頭とされていたし、自分でもそう思っていた。


 (難しいクライミングが出来る人間は、より難しいルートが登れる)


 だから、フリーにも手を抜いたつもりは無かった。先輩達にも負けじと、暇さえ有ればアパート・・・・で登ったし、其れなりの実力を得たと思っていた。

 実際に其処らの山岳会で、チェスターよりも登れる人間は居なかった。


 ――だと言うのに。


 (ジェイムズ、アイツが現れた)


 クラブじゃ、いつもすみにいた。当然である。山に行くと言っても、簡単なものにしか付いては来ない。天下のサクソン山岳クラブで、そんな様子の人間が、輪の中に居られるワケが無い。


 (だから取り分け、どうと思ったことは無かった)


 噂でフリーをやるとは聞いていたけれど、其れだけ。あの様子じゃ、大した事はないと、そうも覚えたかも知れない。


 (だが、二年のときだったか――)


 ジェイムズが、山に着いてきた。6ピッチも登ればお終いの、低い山のアルパイン。クラック混じりのフェイスルート。


 (どっかのピッチを、先輩がジェイムズに任せた)


 その時、あぶみも幾つか持たせようとして。


 (ジェイムズは、使えないし要りません、と言いやがった)


 先輩はムッとした表情で、なら登ってみろ、と言った気がする。使えないなら使えるようにしろ、と言う意味も勿論あったのだから、なんとも空気が読めない奴だと、そう思った。

 そんな軽蔑の目も、数分後には無くなったけれど。


 (たったの1ピッチ。でも、俺は思い知った。コイツには、勝てないと)


 上手く言葉では言えないけれど。でも、違った。何か別の世界の人間を見ている様な、そんな気持ちにさせられた。


 (まあ、彼処まで突き離されちゃあ、潔く諦められたから良かったんだ。でも――)


 ――デヴィッド。いつの間にだか、ジェイムズと仲良くなっていたアイツにも抜かされていた。

 山は好きだけれど、高所適正が余りにも無かった、可哀想なアイツに。


 (お前らに言った事は無かったけどさ。其れはもう、堪えたんだよ、実際)


 其れで、気付いた。自分の驕りに。クライマーなのに、上を見ようとしなかった矛盾に。


 (そっからはもう、必死だった。お前らに追いつくために、お前らに頼んだ)


 ジェイムズは、良いよ、と言った。デヴィッドは、ジェイムズを見ろと言った。

 そんで、仲良くもなって。いつの間にか、クラブ長をやることが決まっていて。


 ――けれど、その間だって。


 (俺は、勝ちたかったんだ。何か一つでも良いから)


 クライミングは自分と岩との戦いなんだから、他者を気にしてばかりいるなんて、ナンセンスなのは分かっている。

 でもだ、負けん気を切らせたら、何か自分の中で終わってしまう気がしたから。


 (自分の得意だったソレ・・だけは――)


 ――何とか勝とうとして。




 「――速え」


 ピーターが声を上げた。カーナーシスに至っては、言葉も出ない。

 両足を張って、一歩ずつ、一手ずつ。チムニーなのだから、そういう風に行くものだと思っていたのに。


 「はっ、はあっ」


 チェスターは、文字通りに走り・・抜けていた。両手両足、フル稼働で。まるで獣の様に。偶の垂壁だって、気にもせずに。


 ――こと、其れなり以上のロングルートであれば。チェスターは誰よりも速かった。デヴィッドよりも、ジェイムズよりも。

 狼が、駆けていく。

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