第58話 小人のトラバース
旦那様の書斎。頭を下げて、一礼をして。恭しく退室をする。
私は、この屋敷の使用人の、長を任されている。だから、部下に関する伝達は、全て私を通して。
「――」
私は今、とても陰鬱な気分であった。今の今まで、そんな事は無かったのに。
そうなるくらいには、書斎で言い渡された内容は、気持ちの良いものでは無かった。
「貴方は、私を恨んでも良いのよ――」
誰もいない廊下。立ち止まり、呟いた。
貴方の母に任された筈なのに。何もしないまま、もう。お終い。
「フォクシィ」
使用人長とかいう、自分の地位をかなぐり捨てて、貴方に尽くそうと思えば出来るのに。そうしない自分が、とても醜くかった。
「――ッぅ」
フォクシィが、小さく呻く。アップをしてるうちに、指先に穴が開いてしまった。
仕方ないから、使用人長に貰った接着剤の蓋を開けて。ボロボロの指先に流し込んで。
「う゛っ!」
痛みに、悶える。至極当然の結果だけれど、やらなければ酷くなるばかりだから。乾くまでの我慢だ。
何だか、今日は調子が良い気がする。もう少しで二ヶ月を数えようとする、小人のトラバースのトライにも、そろそ目途が立つだろうか。
「ふぅーー」
指先に息を吹きかけながら、その時を待つ。
段々と明るさを増す日差しが、フォクシィの体に、薄く汗を浮かばせて。
(早く、乾け――)
手汗で湿る前にと。
思いが届いたのか、どうなのか。接着剤は、そう時間を掛けずに固まった。なら、もう待つ必要は無い。
「登るぞ」
言って、何が変わる訳でも無いけれど。気合を入れて、シューズに足を入れる。
いつも通りの、一人ぼっちのクライミング。でも、このシューズを履いている間は、そうじゃない気がするから。
「――よしっ!」
紐も結び終わった。後は、登るだけ。
今日は何故か、岩が呼んでいる気がした――
――一手目、右手。二手目、左手の寄せ。焦りは無く、落ちもしない。此れだけの期間やっていれば、嫌でも体が覚える。自動化された動きは、最適な答えで岩のラインを攻略する。
(右手っ)
三手目。大きなサイドホールドを、右手で保持。欠けて悪くなったことも、既にフォクシィの頭には無い。右足を前へ送って。テンポよくマッチすれば。
――来る、観音開き。
「ふっ」
右手が、左手が。ガストンで、斜めのサイドホールドを押し合って。其れでも振られるフォクシィの体重が、左手をホールドから引き剥がそうと伸し掛かって。でも――
「――ダアアッ!」
落ちない、留まる! この二ヶ月間練り上げた肉体が、此れで当然と誇示するように。
「来いッッ!」
左足――! 左のサイドへ、勢い良く。
二点であった支持が、三点へと移り変わる。そうして得られた絶対の安定を、一切の躊躇も無く切り捨てて、次のホールドへ――
「はあっ」
左手が、しっかりと次手を掴むけれど。息が切れる。
そうだ、核心の一つを超えたなら、其れだけでも半端じゃなく疲労が蓄積する……!
「ふっ!」
其れでも、先へ――
右足を
――ぐぐっ。
右手に引き付けられた、体が上がる。十分に引き付けたところで、固まって。
すうっ、と。優しく出された左手が、カチに掛かり。
左足が上がる。右足が、再度のフラッギング。さあ、第二の核心へ。最後の核心へ。止まるか、落ちるか――
「――止まるッ」
右手がカンテへ伸びた!
肩から引き付けた、左腕が、十分な距離を
――ぱしぃ!
右手が、掛かる! でも、終わりじゃないのだ。
一旦足を乗せ換えて、左足を上に上げる。 爪先に、ギリギリと力が入り。
――準備は、整った。
「止まるッッ――!!」
――この時の、右手。いつもと、少しだけ違った。親指の付け根が、岩の角を挟む様に触れていた。
別に、これをすれば持てるとか、そういうわけじゃないけれど。今回のトライ、命運を分けたのは、その少しの差。
左手が――止まった!
「よおおしゃあッッ――!!」
はしたない言葉が出るけど。仕方ない。それ程の感動が、左手から全身へ駆け抜ける――
「まだっ!」
そう、未だ。次のパートだって、簡単じゃ無い!
ゆっくりと、左足で立つ。安定が崩れない様に。カンテの、更に上。フォクシィのリーチで一杯くらいの、ガバを――
――掴んだ。
「やった――」
もう、大丈夫。右足を、カンテの向こう。スラブ面に出す。大きなスタンスと、豊富なホールドが迎えてくれた。
其のまま岩肌を駆け上がって。てっぺんまで、一直線。
「やったああああああ!!」
岩の頂で、フォクシィは叫んだ。
軍配はフォクシィに上がった。
課題名:『小人のトラバース』V4
初登者:アデノア・フォックス
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