第56話 足踏み

 未登のトラバースライン。未だ名の付かぬ其れを、フォクシィがトライしてから、実に一週間が経った。

 登れてはいないけれど、フォクシィは何とか全貌を把握していた。結果、核心と思わしき箇所は二つ。

 工場の中、雑巾がけをしながら、頭を巡らせる。


 「一つは観音開き。もう一つは、カンテ取りと其のマッチ」


 ぼそり、声が漏れて。フォクシィは、はっとする。掃除の最中であることを忘れていた。

 見回せば、誰も気付いていないようで。安心する。まあ、誰も。自分フォクシィに興味が無いだけだろうけれど。


 (どう。超えればいいか――)


 未だ超えられぬ、観音開き。自問を重ねれど、答えはもう、分かっている。


 (――単純に。耐えればいいだけなんだ)


 足が切れても。手が悪くても。其れを堪え切って。先へと進めば良いだけ。だから――


 ――其れが出来る様になるまで、やり続けるだけなのだ。




 「ダああああああッッ!!」


 フォクシィが、吼える。小さな体を震わせて。

 僧帽筋が、上腕三頭筋が。その他の幾つもの筋肉群が。フォクシィの短い腕を引き付けまいと、一斉に収縮する。

 右足が切れる。当たり前だ、最初から残す気なんて無い! 体が振られる。右腕に、いっとうの力が込められて。


 「うぅッ――」


 小さく呻く。

 其れでも、フォクシィの期待を受けた両腕が、二つのホールドの間に渡しを掛けて――


 「――ハアッ!」


 大きく、息が吐かれた。遂に耐えきれなくなったのか――否!


 「よしッ!」


 宙ぶらりんと。足が切れたまま、其れでもフォクシィの肉体は岩から離れずに。――その場で、留まっている。


 「足ッ!」


 態々わざわざ、声に出して。脳からの伝達を、確実に足へ伝える。

 目標は――


 (左足まで!)


 そう、手に足――。前の足には、フォクシィのリーチじゃあ届かない。少なくとも、この体勢からじゃ。

 だから、上げる。幸い、左手の斜めのサイドホールドは、十分に大きいから。上がる、上げられる。


 ――左膝が、上体に引き付けられて。足先で掻き込み、体の荷重を右へ流して。


 (張れてる)


 そう、十分に。だから、不要になった左手を切って。次のホールドへ上げようと、体ごと持ち上げて――




 「――ああっ」


 ――情けないことに、肉体の時間制限が来て。実に中途半端な体勢で、フォクシィの体は、壁から引き剥がされた。

 どさり、と。音を立てて。フォクシィは大地へと戻された。




 初めてのトライから、実に二週間目。撚れて撚れて、フォクシィは地面に転がったまま。感慨に浸っていた。

 遂に、一つ目の核心を超えた。欠けて、より悪くなった観音開き。其処で消耗してからが本番なことは分かっているけれども。其れでも、喜ばずにはいられなかった。


 「やった――」


 肉体が心地よい疲労感に満ちる。まるで進歩のなかった、ここ二週間のトライで。初めての明らかな成果。

 此処から先も、簡単にはいかないだろう。でも、フォクシィは半ば確信していた。


 「――大丈夫。出来る」


 やれる。そう思うだけの、手応えも有って。だから――


 ――フォクシィは思う。此れから踏むであろう足踏みにも、意味があるのだと。

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