第9話 スカラーシップ

 デヴィッドは、出した一手目を岩の割れ目に這わせて。親指付け根の肉を内側に膨らませる。すると、クラックの入り口よりも大きくなった手は、必然、抜けなくなる。岩に肉体の一部を嵌め込む、ジャミング、と呼ばれる技術である。

 オーバーハングするこのルートの最下部は、5から10センチメートル程の幅である。ならば、指で、手で、拳で、足で。全身でジャミングを決めていく。比較的、ゆったりとした挙動も、保持力を然程使わないことが許されるからでこそ。


 「ふっ」


 4メートル程の登りのあと。デヴィッドが息を吐き、ナッツを一つ外す。指先に挟んだ其れを、岩の奥に差し込む。直ぐ様、ワイヤ部分を引き、掛かりを確かめる。――大丈夫そうだ。

 第一のプロテクションは取れた。クイックドローを取り外して、金属ワイヤーに掛ける。

 ジェイムズは、デヴィッドの動きを読むように、ロープを送り出した。デヴィッドは、人差し指と薬指でロープを挟み、――クリップ。


 「よし」


 ジェイムズは、小さく呟く。支点は確保出来た。これで地面への墜落グラウンドフォールの可能性は著しく低くなる。

 其れも、プロテクションが上手く取れていればのことだけれど。そういった意味でのトラッド技術に於いて、デヴィッドはジェイムズの上を行っていた。


 そして、デヴィッドは登り続ける。右手、左足。左手、右足。順番に上げて、支持を取る。

 片手で十分に保持しつつ、自由になった片手で、プロクテクションを取った。二つ目、三つ目、四つ目。セットに取られる時間に、本来では奪われる筈の保持力も、パンプする筈の腕も。完璧に決まったジャムによって守られている。――今は未だ。




 (ああ。やはり俺は)


 クライマーなのだと。デヴィッドは登りながらに思わずにはいられなかった。決めていくジャムの一つ、プロテクションの一つにも、自分が捧げてきた年月と情熱が現れている。




 ――少しだけ広くなったクラック。右に重心を傾けつつ、レイバックで次を出す。




 (でも)


 でも、反対に。これが自分の限界なんだと、悟ってもいた。クラブの二番手。決して追いつけない、一番との差。

 山をやりたくて、クラブに入ってとき。熱意も根性も、他には引けを取らなかった筈だった。




 ――広くなった溝も、一定の幅を保ってはいない。狭くなる一点を視界に捉え、確実にジャミングを決める。側面に見つけた小さなポケットに、最適な大きさのナッツを差し込む。




 (駄目だった。体が、無理だと言うんだ)


 一向に肉の付かない体。それでも、登攀技術で劣らぬと、向かった高峰。

 4000メートルの標高に、デヴィッドの肉体は悲鳴を上げた。止まぬ頭痛、終わらぬ息苦しさ。高山病の典型的な症状。高所適正が無かったのだ。 


 (直に降ろされた。未だ出来るとは言えなかった)


 チームの足を引っ張るわけにはいかなくて。それから山へ向かうことは無かった。

 トレーニングだけは続けたけれど。きっと惰性か何かの延長で、意味なんて無かった。けれど、


 (ジェイムズ、お前は言った)


 登れ。お前は登れる。そういって連れて行かれたルートは今でも忘れない。トップアウトした瞬間の、見渡す景色も。心の昂りも。




 ――更にクラックの幅は広がる。時折、脇のポケットに指を差し込み、カンテの捲れに足を掛けて。上へ。




 そのときのジェイムズは、未だ爪弾き者だった。名前も呼ばれず、ただ臆病者と、山を怖がる者が何故クラブにいるのかと。でも、違うのだ。お前は知恵も、勇気も、技術も有った。未踏の頂よりも、より困難で美しいルートに惹かれただけだ。


 (それで、俺達は登った。ずっと、二人で)


 そうするうちに、一人の先輩が言った。あれを、トラッドで。ナチュラルプロテクションで登れと。そうすれば認めてやると。それが――


 (スカラーシップ。人工登攀でのみ登られた、アパート最長最難のクラックルート)


 これを登れば特待生だ。そう先輩は言った。でも、結局特待生は一人だった。


 (お前は半年で登って。俺はあと半年掛けても登れなかった)




 ――クラックは、人が優に入り込める大きさになった。プロテクションを取れる場所が少ない。ニーバーを掛けつつ、小さなサイドクラックを探し出す。傾斜は強くなり、体を支える手に、力が入る。




 (結局、先輩は受け入れてくれて。俺もお前も皆と話す機会が増えて)


 でも、残ったままなのだ。しこりが。自分はクライマーだけど、特別なクライマーではないという、証が。

 スカラーシップ、5.12d。あの日お前が完登した瞬間、自分の事のように喜んだけれど。




 ――目ぼしいホールドが無い。いや、違う。膝に溜めをつくり、飛び立つ。破れかぶれではない。安定したランジは、信頼の出来る動作ムーブである。右手でガバをとり、左足を張る。右腕をプッシュに返し、更に上へ!




 本当は、自分が登りたくて。だから今日もこうしてトライする。ただ、気付いてしまう。




 ――両腕が酷くパンプしている。保持をする感覚は消えていくのに、上に行く度に増える、ロープの重さばかりが感じ取れる。必死に腕を振ってもシェイク、固くなった腕は元に戻らない。




 (ああ。これは、無理か)


 下から声が聴こえる。ジェイムズだろう。俺が落ちそうなのを分かってて、それでも登れと、奴は言うんだ。でも。


 (それは、今回じゃ無いみたいだ)




 ――最後にプロテクションを一つ取って、安心したように。デヴィッドの腕はするりと抜け落ちて。

 気付いたときにはもう、宙吊りになっていた。

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