第32話「新聞紙」

 男は新聞を読むことが趣味だった。世の中のありとあらゆる事件を記載しており、読むだけで世間で何が起こっているのかを知ることが出来る、というのが男にとって面白いものだった。

  

 ある日、通勤に使っている駅に新しいゴミ箱が設置されていた。

 思えば一つしかなかったゴミ箱は見るたびに捨て口からゴミが溢れ、駅員がよくゴミ袋を替えていた。新しくゴミ箱を設置したほうがよいだろう。しかし、見るとそのゴミ箱は新品というわけではなさそうだった。倉庫か何かから引っ張り出してきたような、どこか少し古ぼけた印象を受ける。

 しかし、他の元々あったゴミ箱とさほど大差はないので、それほど目立つわけではなかった。

 男は早速電車の中で読み終わった今朝の朝刊を丸め、ゴミ箱へ捨てた。

  

 男は会社へ出社すると、始業までの間、後輩と世間話をしていた。後輩は会社設備

 コーヒーサーバーから紙コップを二つ携え、一つを男のデスクの上に置いた。

「僕、午後からN市の営業所へ出張するんですが、お土産いりますか?確か、鳥の照り焼きが名物でしたよね」後輩はコーヒーをすすりながら男に尋ねた。「そうか、だったら早めに行った方がいいな。今朝の新聞によると、N市に行くまでの高速道路で事故があったはずだ。下道で行かなきゃいけないだろう」

 それを聞いた後輩はキョトンとした顔で男に「あれ?そんなニュースありましたか?僕も今朝は珍しくニュースを見てから来たんですが、そんな事故は聞いてないですよ」と言った。

「そうだったか?ちょっと調べるよ」男は後輩に背を向けて自分のパソコンを起動し、ニュースサイトを調べた。確かに、新聞で読んだはずの事故の情報はどこにもなかった。

「確かに、そんな事故どこにもない。おかしいな、四、五台巻きこんだ大きな玉突き事故だったはずだが」

「物覚えのいい先輩が勘違いなんて、珍しいですね。何かお疲れですか?」

 後輩の心配をよそに、男は頭をひねり、自分のデスクに向かった。別段変わったことはない。物忘れが始まるどころか、最近はますます頭が冴えてさえきている。健康診断の結果もオールAの健康そのものだった。

 男は仕事が始まると、今朝の出来事を頭の片隅に置きながら、仕事に打ち込んだ。

  

 仕事が終わり、会社の最寄り駅の改札を通ると、男は早足でホームへ上がる階段の横に設置された小さな売店に向かい、新聞の夕刊を買った。新聞は契約しているので毎日家に届くが、今日は別だった。

 男が新聞を広げて読んでいると、片隅にまた交通事故の情報が載っていた。今度は酒を飲んだ奴が運転し、ガードレールに突っ込んだらしい。男はその記事を丁寧に、目を皿にして読み込むと、事故の詳細を記憶した。もしも物忘れがひどくなっているなら、事故の記事の内容を覚えることが出来ないはずだと考えたのだ。

 そうして帰宅した男は風呂に入り、タオルで髪を拭きながらソファに倒れ込むようにドカッと座ると、テレビでニュース番組を見ていた。普段であればバラエティ番組を見ているが、今日は違った。自分が記憶したニュースが報道されているかどうか確かめるためだった。画面の中のニュースキャスターは次のニュースの原稿を読み始めた。

「本日午後五時ごろ、F市の交差点のガードレールに車が一台衝突しました。運転手は当時飲酒して運転しており、現場に駆け付けた警察官に逮捕されました……」

 男は記憶していた事故と一致したニュースが報じられると、自身がボケたわけではないことに安心し、リモコンでテレビのチャンネルを変えた。

 次の日、男はいつものように家に投函されていた朝刊を読みながら会社へ向かっていた。会社の最寄り駅につくと、最近設置されたゴミ箱に新聞を捨てようとした。しかし、昨日買ってそのまま鞄にしまっていた昨日の夕刊の存在に気が付き、そのまま掴んでゴミ箱に放り込んだ。

  

 後輩は男の後ろの席に座ってコーヒーを飲んでいた。男の存在に気が付くと、デスクに座ったまま軽く会釈し、「おはようございます」と挨拶した。男は「おう、おはよう」と返事をしながら席に座り、捨て損ねて手に持ったままだった朝刊を鞄にしまった。

 男は早速後輩のデスクに向き直し、「おい、やっぱり俺は疲れてなどいなかったんだよ。しっかり新聞記事の事故を覚えていられたんだ。まだ物忘れが始まったわけじゃなさそうだ」と後輩に堂々と宣言した。

「へぇ、それで、その事故はどんなものだったんですか?」後輩がいじわるな笑顔で尋ねた。昨日は覚えていられても、一日経てば違うだろうと考えたのだろう。男は自信たっぷりに「F市の交差点での事故だ。男が飲酒運転をしてガードレールに突っ込んだんだよ。その場で逮捕されたらしい」と語った。後輩はすらすらとニュースの内容を語った男を見ると、どうやら本当らしいと判断し、「それは、すごい事故でしたね」とうなずいた。それを見てさらに鼻が高くなった男は、「なんなら今調べて、答え合わせしてやってもいい」と豪語した。後輩は「調べてほしいのだろうな」という男の思惑を察して、デスクの上のパソコンで調べ始めた。数分後、後輩は「うーん……」と唸りながら、画面をスクロールしたり、もう一度検索し直したりと色々いじり回していた。流石の男も段々と不安になっていき、後輩に「どうだ?あったか?」などと質問した。

 後輩はパソコンを閉じると、「先輩が話していた事故の記事は、見つかりませんでした」と気まずそうに答えた。男が愕然としていると、後輩は優しく諭すように「先輩、最近働き詰めじゃないですか。そうだ、今度お休みをとって旅行にでも出かけてみてはどうです?きっと気分が晴れますよ」と提案した。男はムッとして「わかった、わかった」と言いながら椅子を回し、自分のデスクに向かった。男は後輩にそんな態度をとられたことで少しは不機嫌になっていたが、それ以上に不思議だった。この情報飽和時代に、昨日起きた事故の情報が一つもないなどありえない。男は自分のパソコンでニュースサイトを開き、キーワードを入力して、昨日の事故を検索した。やはり、見つからない。


 その日の帰り、男は我慢出来ずに警察に出向き、「昨晩、F市に交通事故がなかったか」と受付の警官に尋ねた。受付の警官は「かしこまりました、只今お調べいたしますので、お席に座ってお待ちください」と促した。男はそれに従い、オレンジ色の合皮が張られた長椅子に腰かけた。

 数分経ってから、受付の警官は男をカウンターまで呼びだした。「どうでした」と男は尋ねたが、受付の警官は「昨日の間、そういった事故は報告されていません。F市の職人にも問い合わせましたが、昨日F市では無事故だったそうです」と答えた。

 男は警官の答えを聞くと、フラフラと警察署を後にした。

  

 男は家に帰り、一日を振り返った。何か変わったことがないか、徹底的に紙に書きだした。朝起きて歯を磨き、何を食べたかまで書き出した。唯一普段のルーティンから外れていることといえば、新設されたゴミ箱に夕刊を捨てたことだった。男は「ゴミ箱に何かあるのか」と考えたが、疲れ切った頭は思うように働かず、結局そのまま寝てしまった。

 次の日の土曜日、男は休日にも関わらず会社の最寄り駅へやってきた。男は新設されたゴミ箱をジロジロと眺めたり、空っぽの中身を覗いてみたり、誰かが何か捨てにくるのを観察した。しかし、特に変わったところはない。ただのゴミ箱だった。男は納得いかず、売店でその日の朝刊を買った。男は「ニュースサイトがおかしいのか」と疑い、携帯でニュースサイトにアクセスし、新聞とニュースサイトを読み比べていたが、何も変わったところはなかった。

 ようやく男は諦めがつき、ニュースサイトを読みながら新聞をゴミ箱に捨て、家に帰ろうとした。すると、たった今読んでいた携帯のニュース記事の画面が、どんどんと白くなっていった。故障かと思った男は慌てたが、瞬きをすると、ニュースサイトのトップに戻っていた。故障ではないと悟った男はホっと息をついたが、さっきまで読んでいた記事は見当たらなかった。いくら探しても記事がない。男はゴミ箱の中を急いで確認したが、中にさっき捨てた新聞はなかった。男は「やはりこのゴミ箱には何かある」と考え、再びゴミ箱を観察した。


 男がゴミ箱の周りでウロウロと調べていると、やがて駅員がやってきて、男に話しかけた。「もしもし、あなた、さっきから何をやっているのです」「いえ、その、どうにもこのゴミ箱が気になって」「ゴミ箱が気になる?」「ええ。このゴミ箱はどこから持ってきてここに置いたんですか?」「妙な質問をされますね。これはこの駅の倉庫から持ってきて設置したものですよ。ちょうど前に使っていたゴミ箱が壊れてしまいましてね。倉庫の奥に使っていないゴミ箱があったから、持ってきて設置してるんですよ」駅員はうんざりした様子で、男に説明した。

「さ、これで十分でしょう。これ以上怪しい動きをすると、今度は警察にきてもらいますからね」そう駅員は男に注意し、改札の外へ男を追い出した。男は頭をひねりながら、その日は家路についた。

  

 翌日、男は昨日のことを考えながら家で寝そべっていた。昨日駅員に注意され、次の日にまた調べていると本当に警察を呼ばれかねない。男はむくりと起き上がり、近くにある小さなテーブルを手繰り寄せると、テーブルの上のノートに昨日調べてわかったことを書き出していった。

 新聞紙を捨ててから駅員がくるまでの間に確認してわかったことは、捨てた新聞紙に掲載されている記事の出来事が一部“”ということ、“”にされている出来事は全て事故の記事だったこと、捨てた新聞紙はゴミ箱から消失することだった。

 男はまとめた情報を前に、頭を抱えた。「もしや、自分は何かとんでもないものを前にしているのではないか」という緊張感が男を襲った。自分が体験したことは間違いなく現実だろうが、それを信じる者はどれだけいるのだろう。もし捨てた本人しか消えた事故のことを記憶できないのだとしたら、誰にも証明することができない。それこそ「疲れている」などと笑われるだろう。

 男は「むしろ、これは幸運なことなのかもしれないな」と思い至った。「事故が起きた」という事実がゴミ箱によって“”になれば、事故にあった被害者は元気に生きているということだ。新聞をどんどんゴミ箱に捨てれば、それだけ事故がなくなっていく。世の中が平和に近づいていくということになる。

 男はここまでノートに書き起こし、自身の考えに納得して安堵すると、体を床へ投げ出し、そのまま眠ってしまった。

  

 翌日、男が朝刊を読みながら出勤していると、さっき読んでいた記事になんとなく違和感を覚えた。男は注意深く何度も新聞を読み返したが、特におかしい点は見られなかった。男は気のせいだと思い、読み終わった朝刊をゴミ箱へ捨てた。

 ビルのオフィスに着いた男は、いつも通り後輩とコーヒーを飲みながら何気ない会話していた。ゴミ箱に出会う前のような穏やかな気分で話した。何か心の荷が下りたような感じがした。

 ふと、男はオフィスの隅に置かれた空いたデスクが気になった。男は後輩に、なんとなく「おい、あんなデスク、昨日あったか?」と聞いた。後輩も首をかしげながら、その空いたデスクを眺めていた。やがて始業を告げるチャイムが鳴り、男と後輩もそれぞれ自分のデスクに向かった。その日、何事もなく仕事を終えた。

  

 ある日、男が帰り道を歩いていると、一台の自動車がまっすぐ男の方向に向かって突っ込んできた。男はビクリと体が強張り、一歩も動けなくなっていた。妙に冷静になった男はドライバーの顔を見ようと目を凝らしたが、ドライバーは運転席で俯き、表情を窺うことは出来ない。病気か何かで失神しているのか、あるいは居眠り運転か……。

 そこまで思案を巡らせている頃には、車と男の距離は既に間近であった。

  

 目を覚ますと、男は病床で横になっていた。かろうじて半分開けた瞼で確保した視界には、ベッドの枠と布団、布団の先端から飛び出る包帯でぐるぐる巻きにされた足、天井から吊られる点滴、窓と風に揺られるカーテンが見えた。窓側にはバスケットに入ったフルーツが見える。眠っている間に、会社の誰かが見舞いにきていたようだ。

 男の意識が戻ったのを看護師が見つけると、すぐに医者がやってきて男の怪我の説明を始めた。男はぼんやりとした頭でそれを聞いていたが、医者は話し終わると「説明義務は果たした」とばかりに、やれやれといった様子で椅子から腰をあげ、さっさとどこかに行ってしまった。残された看護師は慣れた手つきで包帯を取り換えると、「何か欲しいものはありますか?」と聞いてきた。男は寝ぼけたような頭で「新聞が読みたい」とぼやくように口にした。「わかりました」と看護師は笑顔で答えると、早足でさっさと病室を後にした。

  

 しばらくして看護師が灰色の紙束を抱えて病室に戻ってきた。そのころには男の頭もすっかり冴えていた。男は上半身を起こし、看護師から受け取った新聞を左右に広げた。

 3ページ目の右上には、男が遭った交通事故の記事が載っていた。どうやら加害者側は居眠り運転をしており、あちらの方は大した怪我はなかったようだ。男はまるで他人事のように「そうか、相手に大した怪我がなくてよかった」などと思った。まさか自分が普段読んでいる新聞に自分の名前が載るとは思っていなかった。それも現実感を薄めている要因の一つなのかもしれないと男は考えていた。それから男はいつも通り新聞を読み、読み終わると元通りに畳み、脇にあるテーブルに置いた。男はぼんやりと「このことは会社に伝わっているのだろうか」「あの仕事、どうなっているかなぁ」などと考えていたが、男の頭は段々と眠気を催してきた。こくりこくりと舟をこいでいたが、ふと右手を見ると、男の手が段々と透けてきているように見えた。男は眠気が吹き飛び、勢いよく体を起こして前のめりになるように腕を見た。寝ぼけてみた夢ではなく、本当に腕が透け始めている。うっすらと向こう側のテーブルに置いた新聞が見えていた。混乱した男は透けていない左腕でナースコールに手を伸ばしたが、どういうわけか何も触れない。必死も虚しく、男の手のひらは空を掴んだ。どうやら見えているだけでないものと同じになっているらしい。動揺し、ぐちゃぐちゃになっている男の脳裏に、あの駅のゴミ箱が過った。

  

 男は今まで勘違いをしていたことを悟った。

 あのゴミ箱は事故をなかったことにしているのではない。のだ。被害に遭った人がそもそもこの世にいなかったことになれば、当然その事故も生まれない。あのゴミ箱はそういう仕組みになっているのだ。男は会社にあった謎のデスクを思い出し、ゾクリと背中に悪寒が走った。きっとあれも誰かが捨てた新聞に書かれていた被害者の一人だ。きっと自分以外の誰かが捨てたから、自分は知覚することができなかった。

 自分の体と共に、用意されていた点滴やバスケットに入ったフルーツも透けていく。男は自分の中の何かがふっと途切れ、体の力を抜いてベッドへ体を投げ出した。そのうち、男の病室はただの「空き部屋」へ変わった。

  

 朝、ある男が会社へ出勤してきた。男は会社に備え付けのコーヒーサーバーで、紙コップ二杯にコーヒーを注いだ。自分の後ろのデスクの上にコップを置き、自分はもう片方のコーヒーをすすった。ふと、男は「なぜ空席のデスクの分のコーヒーまで淹れてしまったんだ?」と自分の行動に疑問を感じながら、後ろの席からコーヒーのコップを取り、少し冷ましてからグッと飲み干し、紙コップを潰した。潰した紙コップは、たまたま目の前を通りがかった部下の女の子に渡し、ついでに捨ててもらった。

  

 始業のチャイムが鳴り、男はデスクにつくと、自身のデスクの上に置いた“”のコーヒーに口をつけた。

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