第30話「ズレ」

 男は散歩をしていた。

 たまの休みにやることも特になく、何か面白いものを探し、街に繰り出した。


 しかし、そうそう面白いものなど巡り会えるわけもない。

 探し回っているとするなら、なおさらだ。ものを「面白いかどうか」という目で見てしまい、なかなか納得のいくものに出会えない。


 裏路地の入り口に差し掛かり、男はふと「いつも入らなかった場所に入ってみよう」と思い立った。

 近所の裏路地など、用もなければそうそう入らない。

 男は裏路地に入り、建っているビルの看板をジロジロと眺めたり、何の店があるのか見てみたりした。


 男はタバコが吸いたくなり、ポケットからタバコを取り出して咥え、ライターで火をつけようとした。

 ライターでタバコに火をつける瞬間、ブロック塀に赤い標識が貼ってあるのに気づいた。

「禁煙」のマークだった。

 男は軽く舌打ちをすると、口のタバコを箱に戻し、ポケットにライターと共にしまった。


 ここで男はある違和感を覚えた。

「禁煙」の標識は、通常左上から右下へ斜めに赤い線が引かれているが、どうやら壁に平行になるようズラして貼ってあるようだった。


 男はなんとなく、その標識を正しい方向へズラし、標識を直した。


 その瞬間、男は滑り台の上にでも立っているかのように、バランスを崩し、倒れてしまった。男は何が何だかわからないまま、アスファルトの地面に這いつくばり、足元の方へズルズルと滑り落ちていった。

 やがて男は、裏路地の最奥の行き止まりのブロック塀にたどり着いた。

 男は何が起こっているのかわからずパニックになっていたが、平静を取り戻そうと深呼吸を繰り返すうち、今自分かどうなっているのかという分析が出来た。

 男は「自分が標識を正しい方向へズラした途端、それに合わせて世界が傾いたように重力がはたらき、ブロック塀に引っかかって立っている」というように理解した。

 男は顔を少し上げ、上の方を見てみると自分が入ってきた裏路地の入り口が見える。しばらく眺めていると時々、人や車が通っていく。男は声をかけたが、誰一人として気付く者はいなかった。裏路地は奥に長く、入り口まで届く頃には声は小さくなっているだろう。加えて、今日は休みだ。裏路地のビルはどこも看板を「閉店」の方に裏返していた。


 男は絶望し、うずくまってしまった。

 しかし、しばらくすると遠くの方から二、三人の人影が男の方へ駆け寄ってきた。

 男は人の足音が聞こえると、バッと顔を上げた。


「ああ、やっぱりズラされてるよ。全く嫌になるな」

「こっちは休日だっていうのによ」

「さっさと直しちまおうぜ」

 人影はブロック塀に駆け寄ると、手を伸ばして何かを動かした。すると、世界は元の重力に戻り、男は深くため息をつきながら立ち上がった。

 人影は男に気づき、男に駆け寄ってきた。男は礼を言おうと人影に話しかけようとしたが、人影はなにやら迷惑そうに頭を抱えていた。逆光のせいで人影の顔はわからなかったが、態度から迷惑そうな雰囲気が見て取れる。


「困るんだよ。こっちも仕事だからこうして来てるがな……」

「おい、話しかける必要はない」

「こっちは見たかったドラマの録画を見ている最中だったんだ。一言くらい言う権利があるはずだろ」

「だからさっさと終わらせて続きを見るべきだろうが」

「まあそれもそうなんだけどよ……まあいい、おい、そこのお前。ちょっとこれを見ててくれないか?」

 人影の一人が男の目の前に手を出すと、パチンと指を鳴らした。



 男は散歩をしていた。

 たまの休みにやることも特になく、何か面白いものを探し、街に繰り出した。


 男は急にタバコが吸いたくなり、どこか吸える場所がないか探した。世の中はどこも禁煙仕様になり、喫煙者は隅へ隅へと追いやられる時代だ。

 男はたまたま目に映った裏路地へ入った。こういうところは大抵、灰皿がどこかしらにちょこんと立ってるものだ。


 しかし、どこを探しても灰皿はなかった。仕方なく男は携帯灰皿を取り出し、「一本だけで我慢しよう」とタバコを咥えた。

 ふと、男がブロック塀を見ると、「禁煙」の標識が貼ってあった。「禁煙」の標識は赤い線が塀と平行になるよう貼られていた。


 男は軽く舌打ちをすると、タバコと携帯灰皿をポケットにしまった。

 ポケットに手を突っ込み、そのまま男は裏路地から出た。苛立ちが、男を少し早足にさせた。


 男は道に立っている「路上禁煙」の文字と、その上にあるを睨みつけ、喫煙場を探しながら街を歩いた。

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