第25話「亡霊たちの夜汽車」

 午前零時、その男はフラフラと千鳥足で夜道を歩いていた。

 仕事の帰り、男は一人居酒屋で酒を飲んでいた。年を重ねるにつれ、男の足には「孤独感」が這い上がってくるように思えたのだ。結婚もせず、ずっと一人暮らしを続けてきた男は、眠りにつく直前には未来への不安が重くのし掛かり、その体は押しつぶされそうになっていた。孤独感や焦燥感をねじ伏せるため、男は酒を煽っていた。

 その結果、男は駅で居眠りを始め、終電に乗ることが出来ないまま、来るはずもない電車を待ち続けていた。もっとも、男は自身が終電を逃したことに気づいてはいなかった。まさに時間を忘れて呑んだくれていたということだ。


 男がぼんやりと電車を待っていると、線路の向こうから光が近づいてきた。男が近づいてくるそれをよく見ようと、顔を前に突き出し、目を細めた。

 男はそれが大きな蒸気機関車だということが分かったのは、列車が目の前まで近づいてきたときだった。驚きのあまり、男の酔いは少し吹き飛んで行った。しかし、男は恐怖より湧き出てくる興味が勝ってしまい、その列車に乗り込んで行った。


 車内は異様な雰囲気を放っていた。本来長椅子が設置されているであろう場所には墓石が立ち並び、その前には何人かの乗客がつり革を掴んで立っていた。墓石と客はびっしりと並んでいるわけではなく、ところどころに空きがあった。客は皆どこか宙を見ているようだった。男が乗り込んできたというのに、こちらに目をくれる者は一人としていない。

 男がジロジロと客の様子を眺めていると、天井に設置されたスピーカーから声が聞こえてきた。

「みなさん、間も無く出発致します。停車にお付き合い頂き、誠にありがとうございました」

 その声は朗らかで、聞いていてとても気持ちが安らぐような心地になるものだった。車内アナウンスの直後、列車のドアは閉まり、汽車が動き出した。汽笛の音は一昔前の映画の中で聞いたように、けたたましく車外に響いた。

 男は「自分が乗る電車は本当にこれで合っているのか」と不安になってきた。ただの興味本位で覗いた蒸気機関車に、今まさにどこかへ運ばれようとしているのだ。段々と酔いが覚めてきた男は、ぞわぞわと背中が縮こまっていった。


 不意に、男の背後から驚く声が飛んできた。

「おや、あなた……もしかして生きているのですか?」

 男が振り向くと、制服をキッチリと着込んだ乗務員がいた。制帽はきちんと奥まで被り、顔に若干の影がかかっている。はっきりと見えるのは鼻から下の顔だけだった。

「あなた、一体ここでなにをやっているんです?一体どこから乗り込んで……ああ、もしかしてさっき停車した駅におられたのですか?困りますよ。ああ、また引き返さないと……。ええと、あなた、家はどちらに?ここからは近いんですか?」

 乗務員はコロコロと表情を変え、男に質問を重ねた。表情は変わっているが、乗務員の態度は明確に「困っている」のだということは、酔いが覚めたばかりの男にも伝わるほどだった。


 男は深呼吸をし、片手の掌を頬に当て、人差し指でトントンと頬を叩き、状況を整理しようと試みた。乗務員も男の様子から察したのか、男を見守って黙っていた。

「あの、この汽車は一体なんなんですか?あの墓石は?その目の前に立ってるあの方たちはどうしたんです?一体……」

「まあまあ、落ち着いてください。乗ってしまった以上仕方がありません。説明しますので、一旦場所を変えましょう」

 気になっていたことを全て質問に変換した男は乗務員から聞き出そうとしたが、乗務員はそれを宥め、別の車両へと男を案内した。今度は普通の電車の車両のように、墓石もなければ怪しい乗客もいない、普通の車内だった。

 男と乗務員は向かい合うように席に座り、乗務員は男に一杯の水を差し出した。男がそれを飲み干したことを確認すると、乗務員は説明を始めた。


「あなたが今乗っているこの汽車は『亡霊鉄道』でございます。この汽車のお客様は、まあなんといいますか、死んでも死にきれない亡霊たちなのです。死してなお誰にも供養されなかった、所謂『無縁仏』の方々が搭乗されています。私たちはお客様がを探しながら全国を走り回っているわけでございます。どんな生を過ごしてきた方も、誰しも必ず思い出の場所というのはあるんです。誰かがその場所にたどり着くまで、私たちはこうして汽車を走らせているのでございます」

「すると、さっき停車していた駅は……」

「ええ、お客様の一人が生前あそこで駅員をやっていたらしく、生前共に働いていた同僚の姿を見て成仏しましたので、お見送りのために停車したのです」

「皆はそうして成仏するのを待って、この汽車に乗り続けていると?」

「そういうことです」

 男は話を理解し、納得したと同時に、背中に寒気が走った。あの墓石は彼ら自身のものであり、彼らは亡霊だったのだ。男は幽霊というものを間近で見てしまったことに気付き、震える両手で自分の肩を抱いた。乗務員は男の様子を見て、慌てて付け加えた。

「しかし、皆様は人に危害を加えるような方達ではないのですよ?そもそも、お客様は皆自分自身のことで精一杯なのです。死んでようが生きていようが人間は人間。いつか来る幸福な明日をただひたすら待ち続けているだけなのですよ」

 乗務員は身振り手振りを使って説明し、男に必死に語りかけた。男は改めて隣の車両にいる亡霊たちを観察してみた。

 ある男はぼんやりと車窓を眺めていた。ある男はじっと自分の前にある墓石を見つめている。ある女は車窓に映る自分を見つめ、しきりに前髪を直し続けていた。男は彼らが「いつか来るその時」を期待し、待ち続けていることを理解した。

 男には彼らの思いは分かりかねるが、なんとなく彼らの思考は理解出来た。救われない最期を上書き出来るというのなら、自分だっていつまでも待ち続けるだろう。


 ふと、男は自身の境遇を思い出した。人との関わりが希薄であり、先を明るく照らすための材料のない今、未来は依然暗闇のままだ。いずれ彼らの仲間入りを果たすことになるかもしれない。しかし、同じ境遇の同志たちが一堂に会するのなら、この汽車に乗ることも悪くないかもしれない。


「彼らと共に旅をするのも、悪くないかもな」と男は呟いた。その言葉を聞いた途端に、乗務員の表情が変わった。慌てふためいていた時は違い、乗務員の強い意志が真っ直ぐ男に伝わってきた。

「そんなことを言ってはいけません。本当なら、私たちの仕事は無くなるべきものなんですよ。私たちが彼らを汽車に乗せて全国を飛び回っているのは、だからです。彼らは幸福を望み続けているんです。私たちも彼らの幸福を望んでいる。あなたが死してここに来たとしても、あなたは永遠にこの汽車を降りることは出来ないでしょう。です。ここにいる限り、あなたに幸福は永遠に訪れません。生きている人間は、生きているうちに幸福にならなければなりませんよ」

 男は乗務員の言葉を聞き、丸まった背中を叩かれた気になった。しかし、男はため息と共に再び背中を丸めた。

「私には何もないんだ。共に人生を過ごしてくれる人も、金も、何もかも……。その日を過ごすことで精一杯なんだ。だから……」

「どうやら、あなたはここに来ることはなさそうですね」

 乗務員は男の言葉を制し、ぴしゃりと言い放った。

「あなたは日々を精一杯生きようと頑張ってるじゃないですか。あなたの生きている様は誰かが必ず見ているものです。あなたが幸福な結末を待ち続けている彼らを見て、理解したように」


 男の目には大粒の涙が溢れ出てきた。男の思考は何色ものクレヨンでぐちゃぐちゃと塗りつぶされた汚らしい画用紙から、汚れ一つない白紙に戻っていた。男は乗務員に何か言おうとしたが、言葉は喉の奥に詰まり、ぐにゃぐにゃと形を変え続けた。形容しがたい感情の渦は男の心の内に注ぎ込まれ、ぼこぼこと沸騰し続けた。男はついに席で蹲り、ひたすらに涙を流し続けた。


 やがて汽車が止まり、車両のドアが開いた。停車した場所は男の住んでいる家の前だった。

 男は席から立ち上がり、車内にいる乗務員に礼をした。


「ありがとうございました。さようなら」

「あなたの幸福を祈っています。またお会いしないようにということも。さようなら」


 男は自宅のドアのドアノブを掴み、後ろを振り返った。そこにはもう汽車の姿はなかった。

 男は床に着いた。毎夜男を襲っていた孤独感は、もういなくなっていた。男は明日のことを想い、深い眠りについた。



 空の彼方からはどこからともなく、汽笛の音が響いた。

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