第24話「救済の選択」

 その男は、ごく一般的な若いサラリーマンだった。

 朝起床し、仕事をして帰り、晩酌をして眠るというのが男の1日だった。

 男には彼女がいたが、少し離れたところに住んでいたため、週末に会ってデートをする程度が限度だった。しかし、会う頻度が少なかろうが男の愛情は薄れることなく、付き合ってから2年が経とうとしていた。


 ある日、男は会社に、取引先に挨拶に行くように言われた。

 男は挨拶用に菓子折りを買おうと、早速カバンを持って会社を出た。その日は風が強かったため、男は上着も忘れずに羽織って行った。

 外は快晴で、冬は去り、暖かい日差しが満ちていた。男は昔彼女とデートした景色のいい公園を思い出していた。「暖かくなってきて、外に出るのが億劫じゃなくなってきたな。近いうち、もう一度あの公園に彼女と一緒に行こう」などと考えていた。気持ちのいい天気に、男は少し浮かれていた。

 しかし、男の背後から突然大きな声が聞こえた。

「危ない!逃げろ!」

 男は何のことかわからず、背後にいた中年が見ている視線の先を確かめた。

 横の工事現場から飛び出たクレーン車から、多数の鉄骨が落ちてきていることに男が気づいたのは、鉄骨が眼前にきてからだった。

 男の目の前は真っ暗になり、意識は暗い水底に落ちていくように、ぼんやりと消えていった。


 男が目を覚ました時、妙な場所に座っていた。駅のホームにある待合室のような場所だった。白い壁には設備は何もなく、椅子は木と鉄で作られたような、駅にあるデザインと同じタイプのものだ。周りには誰もおらず、待合室の中はシンと静まっていた。外からも何も聞こえない。待合室にはドアがあったが、開くことはなかった。

 男は何が起こっているのかよくわからなかった。記憶している限りでは、自分は挨拶に行く途中に工事現場の事故に巻き込まれ、鉄骨の下敷きになって死んだはずである。どこかもわからない待合室にいる理由がわからなかった。自分は死んだと思っていたが、実は違うのだろうか。男は思考をグルグルと巡らせ、疑問ばかりが頭の中で膨らみ、脳内のガスを抜く代わりにため息が漏れた。


 やがて扉が開き、一人の女が男を呼び出した。肌は色白く、糸目でニッコリと口角を上げた、どこか幸薄げな女だった。

「もしもし、あなたの番ですよ。窓口にお越しください」

「私の番?何のことでしょう」

「それはこれから説明いたしますので、とにかく窓口にいらっしゃってください」

 女は表情ひとつ変えずに男を窓口へ案内した。待合室の外にはずらりと窓口が並び、男と同じように一人ひとり窓口に案内されていた。


「では、ご説明をいたしますので楽にしてくださいね」

「ちょっと待ってください。その前に、ここはどこなのかを言ってくれませんか」

「ここは生死の境でございます。こちらは命の管理局でございまして、条件が揃っている方をこの窓口に案内し、生きるか死ぬかを決めた上で行き先のご案内しております」

「条件が揃っている、というのはどういうことでしょう」

「はい、貴方様は前世から人間になった際に担保貸付をしておりまして、前世での徳が少なかったため貴方様が人間になることは本来出来ないのですが、来世での貴方様が亡くなった際は地獄に行くことを条件に人間になることが出来たのでございます」

「ど、どういうことです?地獄に行かなければならないのですか?」

「はい。前世の記憶はないとは思いますが、前世の貴方様が死んだ際にそういった契約をこちらで承っておりまして」

 男は身に覚えのない借金を背負わされたようなものだと理解した。しかし、男には一つ気になる言葉があった。


「すみません、前世の私は担保契約を結んだらしいですが、どういったものを担保にして契約を?」

「はい。前世の貴方様はご両親様か、あるいは恋人様の魂を担保にしております。貴方様が来世も人間になるというご決断をされるなら、ご両親様か恋人様の魂を地獄に落とすことになります」

 その説明を聞き、男は呆然とした。女は依然、表情を崩さない。ニコニコと笑い続けている。

「あ、あなたは人の命の重さを何だと思っているんですか!」

「申し訳ございません。貴方様の仰る『命の重さ』というのは我々が決めておりますもので。ご理解ください」

 女は言い慣れた様子でペラペラとしゃべり終わると、手元の書類に目を落とした。男は女に対して何か言い返そうとしたが、頭の中が真っ白になっていた。結局男は仏頂面で女の渡す書類に目を通した。

 女の渡してきた書類は、要するに「前世分の借りを返し、地獄へ行く」か「担保である両親か恋人の魂を地獄へ落とし、来世も人間になる」かの希望書類だった。どちらの選択肢の下にも、選んだ際のこまごまとした契約内容が書かれていた。

 女は書類とペンを男に渡すと、「ごゆっくりお考えになってください」と言い、再び待合室に案内した。


 男は「生きている大切な人を巻き込むわけにはいかない」と考え、真っ先に「地獄行き」を選択しようとした。しかし、書類に書き込む前に、男のペンは止まった。

 男にはそもそも前世での記憶はない。記憶がないからこそ、このような理不尽な借りを背負わされているのだ。だとするなら、恋人や両親を犠牲にしたとしても何も気負わずに済むのではないだろうか。何も知らず、人間として幸せに一生を過ごせるのではないかと。

 男は自身から湧き出るドス黒い思考に頭を振った。どのようなことがあろうと、人に迷惑をかけて生を得るようなことがあってはならない。男はもう一度、書類に希望を書き込もうとした。その時、ポタリと書類に何かが滴り落ちた。それは男の脂汗だった。

 手が震え、書類からペンが遠ざかっていく。どんなに意識を強く持とうと、自ら地獄へ落ちる選択をする瞬間というのは、とても恐ろしい時間だった。書類に書き込むのはたった5秒あれば事足りるが、その瞬間、いつまで続くかわからない恐怖をその身に浴び続けることになるのだ。

 再び、男の頭にドス黒い悪魔の声が響いた。両親はかけがえのない存在だが、もしかしたら恋人とその先別れるかもしれない。もしもそうだとしたら、自らが地獄へ行ってまでわざわざ生かしておく必要もないのではないか。恋人を地獄へ落とすことを選択すれば、自分は幸せに生きられるのではないか。

 男は涙と脂汗で顔はぐっしょりと濡れていた。汗が目をなぞって滴り、男はそれを拭こうとハンカチをポケットから出し、顔を拭った。

 ふと、男はハンカチを見た。彼女からの誕生日プレゼントでもらったハンカチ。男はこのハンカチを貰った時のことを昨日のことのように思い出した。それと同時に、彼女との思い出が頭の中から溢れ出してきた。告白、初デート、互いの誕生日、喧嘩。

 男は力なく笑うと同時に、今度は涙が出てきた。書類の上にはいくつか、小さな水溜りが出来ていた。

 男はハンカチで涙を拭った。男の中には、一点の曇りもない覚悟が出来ていた。男は、書類にペンを走らせ、窓口へと向かった。

 女は、窓口で男を待っていた。

「希望がお決まりになったのですね?」

「ええ、私は地獄へ行きます」

「かしこまりました。ではお手続きをいたします。少々お待ち下さい。完了次第ご案内いたします」

 女は奥へ引っ込み、しばらくすると戻って来た。そのまま女は男を黒い鉄の扉の前へと案内した。

「こちらが地獄行きの扉でございます。行ってらっしゃいませ」

 女はゆっくりとお辞儀をし、男を見送った。

 男は扉に手をかけ、開いた。向こうには何も見えない。ただただ真っ暗な闇が広がっていた。男は目を瞑り、扉の向こうへ一歩踏み出した。

 男は、真っ逆さまに闇の奥へと落ちていった。



 昼の12時、テレビはその日のニュースを告げた。

「今日の朝10時頃、工事現場の事故により鉄骨の下敷きになり、男性が一名死亡しました。男性の名は……」


「ええっ?これ、彼だわ」

「本当?残念だったね」

「ええ、残念だったわ。でもいいわよ、あなたがいるんだもの」

「わざわざ面倒ごとを起こさないで済んだね」

「そうよ。彼、仕事ばかりしているくせに、私の行動にはいちいちうるさかったわ」

「もういない奴の話なんかいいじゃないか。予約してるホテルのチェックインの時間が近いよ」

「そうね、もう行きましょう」


 男の愛した彼女と、男が知らぬ男は、男の自宅を後にした。

 仲睦まじく、腕を組んで。

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