第22話「観測者」
彼女はごく普通の女子高生だった。頭抜けて美人なわけでもなく、何か特別な特技を持っているわけでもなかった。
毎日ベッドから起きて身支度をし、学校へ行き、帰ってきたら飯を食い少しだけ勉強をして就寝する。学生という身分になってから、ずっとこのサイクルを続けてきた。特に将来を考えて生きているというわけでもなく、高校二年生という学年になっても、その生き方は変わらずにいた。
たまたま昨晩は寝つきが悪く、眠るのが遅くなってしまった。若者の体というものは睡眠時間を削れば、その分のツケが回ってくる作りになっている。若者は不便だと思いがちだが、このシステムのおかげで自身の健康を保てているのだ。しかし、若者は自身の健康状態に無自覚なことが多い。加齢と共にこの体の作りの意味に気付き始め、中年は若きあの頃を思い出して後悔しながら仕事に励んでいるのだ。
従って、この女子高生は太陽が昇り、目覚まし時計がけたたましい叫び声をあげたとしても、気付くことが出来なかった。母親が部屋に入り、彼女の体を揺すぶると、彼女の脳はようやく新しい1日をとっくに迎えているということに気付いた。
女子高生は反射的に飛び起き、時計を見た。針は八時を指している。「遅刻」という学生にとってのタブーを犯してしまうことは絶対に許されないという認識は、この女子高生の脳みそにも刷り込まれていた。彼女の通っている高校は、生活指導の教員が毎朝校門で見張りをし、タイムリミットである八時三十分になると校門を閉める。この状態で校内に入るには、来客用のインターホンを押して用務員を呼び出し、来客用の小さな門を開けてもらうしかない。この時点で学生にとってはかなりの恥辱であるが、この高校では教室に入って途中から授業に参加した後、担任に職員室に呼び出されるのがお決まりであった。
無自覚ではあったが、毎日規則正しい生活を送っていた彼女はこの事態にはかなり焦った。これまでの人生において、このような事例が少なかったからだ。
彼女は毎朝姿見鏡を眺め、袖やなんかを直しながら丁寧に学生服を着ていたが、その日の朝は鏡など目もくれなかった。彼女は制服に着替え終わると、自分の部屋から出て階段を降りた。一階のリビングに降りると、テーブルの上の皿には母親が早くに焼いてくれていたのであろう食パンが一枚置かれていた。もう湯気も立たないほど、食パンは冷めきっていた。彼女は食パンをすばやく取ると口に咥え、足早に玄関へ向かうと、踵も入っていないままのローファーで家から勢い良く飛び出した。
普段は会社へ向かうサラリーマンや、あるいは夜勤明けであろう作業服の人間を多く見かけるものだが、今日は心なしかその数も少なく見えた。
走っている最中、一歩踏み出す度に彼女の脳内は消しゴムをかけられたかのように白くなっていった。全神経を走ることに集中させ、脳内は「遅刻」「次は左折」「職員室」の単語がふわふわと浮かんでいた。彼女の緊張の糸をギリギリと引っ張り、引き千切ろうとするにはその単語だけで十分だった。
彼女が丁字路にさしかかり、左折しようとしたその時、右からきた誰かにぶつかり、女子高生は尻餅をついた。遅刻という非常事態において、このような形のタイムロスは考えてはいたものの、実際に起こった場合を想定していなかった。彼女は原因である怒りと憎悪の視線を向ける相手を探し、自らの顔にかかる影の主を見上げた。
「ああ、悪かったな。急いでいたんだ」
そこには眠そうな目をした美男子が申し訳なさそうに頭をボリボリと掻いていた。美男子はハッと何かに気付くと、女子高生に向けて手を差し伸べた。彼女は彼が美男子だということよりも、登校という急ぎの用を邪魔されたことに怒りを覚えた。結局、彼女は美男子の手を振り払い、カバンを掴むと学校へ向かって走り出した。
彼女が校門に着いた時刻は、八時二十八分だった。彼女の顔は汗にまみれ、女子にあるまじき顔面をしていた。彼女が教室に入り席についた瞬間、今まで息を止めていたかのように深いため息をついた。幾分かの疲れが息とともに排出されていくようだった。何度かの深呼吸が終わった頃、見計らったようにチャイムが鳴り、担任が入ってきた。いつも通りであったらこのまま生徒を席に着かせ、出席をとっているところだが、今朝はなんだか様子が違った。
「あー、今日はちょっと知らせがある。転校生がうちのクラスにきた」
クラスはざわざわと騒ぎ始めた。女子高生は遅刻を免れた安堵から、少しづつ脳内に思考を取り戻している最中だった。少しぼんやりしていた彼女は、なぜクラスがざわついているのかわからなかった。そのうち教室の扉が開き、一人の男が入ってきた。整っていない髪型と眠そうな目の、美形な男だった。女子高生はその男の顔に見覚えがあった。
「あ……」
「ん?おお、今朝の素早い女」
女子高生は驚きのあまり立ち上がり、不躾にも人差し指で彼の顔を指した。女子高生はすぐに気がつくと、俯いて席に座った。担任が指定した転校生の彼の席は、偶然にも空いていた彼女の隣の席だった。これから失礼の数々を働いてしまった彼とどのような学校生活を送れば良いか、彼女には途方もつかなかった。
男はエンターキーを押した。
作業が一段落した男は椅子に座りながら伸びをし、あくびを一つした。
男の職業は小説家だった。いくつかの賞を受賞した、そこそこ有名な小説家であった。男は毎日執筆し続け、出版社の仕事を待つほどの速筆だった。
男は様々なジャンルを執筆しており、カメレオン作家と呼ばれていた。男にアイデアが湧き続けているわけではなかったが、それでも男は書き続けられた。
男は「人の夢を覗き見る装置」を持っていた。ベランダの手すりには直径30cm程度のパラボラアンテナがあった。配線は仕事部屋のモニターに繋がれており、映像化して映し出してくれる代物だった。男は絶えず人の夢を見続けることで、新作を書き続けることが出来たのだ。
「あともうひと仕事したら、少し眠るとするかな」
布団に潜ると、男の頭の中の照明は少しづつ落ちていった。
男は机の上で目を覚まし、勢いよく顔をあげた。机の上の電波時計を見ると、時刻は午前三時と表示していた。男は急いでスリープ状態になっているパソコンを立ち上げると、ワードソフトを起動し、書きかけの原稿の続きを書き始めた。モニターにはキーボードの跡がついた自分の頬が映っていたが、そんなことに気をとられている場合ではなかった。
男の職業は小説家だった。鳴かず飛ばずのまま、だらだらと数年が経ってしまった。男の頭の中は常に新品の白紙であり、たまに落書きをしてはそれを文字に起こして原稿を書き溜めていた。おかげで出版社にはいつも急かされ、見限られた出版社も両手の指だけでは数え切れないほどだった。
男はふとベランダを見た。当然ながら、夢の中で見た「人の夢を覗き見る装置」など男の家にはなかった。男はため息をつくと、視線をモニターに戻した。
男は頭の中の落書きを文字に起こしながら、考えていた。
「もしもこれが誰かの夢だとしたら、私の夢を見た誰かはどう思うのだろうか。もしも私の見た夢のような人間が、この私の夢を見たところで、『ああならなくて良かったな』などと考えるのだろう。だとしたら、私も今、誰かを救っているということになるのだろうな」
男はクククと自嘲気味に笑いながら、原稿を書き続けた。ベランダの外に広がる世界は、仄々と夜が明けてきた頃だった。
男はエンターキーを押した。
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