第15話「蚕」

 あるところに、リストラを受けたばかりの男がいた。


 男は何十年もの間働いて尽くしてきた会社に裏切られ、消沈していた。

 再就職をしようとするやる気も起きず、公園でベンチに座ってただ空を眺めることが日課となっていた。


 ある日、男がいつものように公園で青空を見上げていると、隣にくたびれたラリーマン風の中年男性が腰かけてきた。

 男がその中年男を見ると、会社に勤めていた頃の記憶が蘇ってきた。それと同時に「ああ、自分は側から見るとこんな男だったのかな」と思った。世代も同じように見える。だが、同時に何となく違和感を覚えた。

 その中年男のスーツはまるで「クリーニングに出すヒマもない」といったようにくたびれ、白シャツの襟は黒くなってしまっている。袖のボタンは外れ、ボタンが一つ取れて白い糸が伸びていた。

 中年男の顔には深くシワが刻まれ、頭は白髪混じりの黒髪だった。

 だが、その表情は穏やかで、生活に何一つ不自由はないといった雰囲気を纏っていた。男はそこが気がかりだったのだ。


 自分が働いていた頃は鏡を見ても頭と格好しか見ていなかったが、ここまで穏やかな表情はしていなかったと言える。いつも仕事を急かされ、上司からは叱責され、後輩の失敗の責任を取り続け、家庭では妻や娘にこき使われていたのだ。穏やかな表情など出来るわけがない。男は少し中年男を羨ましく思った。「きっと恵まれた生活をしているのだろうな」と思っていた。


 中年男はタバコを一本取り出してふかすと、「一本どうです?」と差し出してきた。男はじろじろと中年男を見続けていた手前、断りづらくなり、中年男からタバコ一本を受け取り、火をもらった。


 男と中年男はそこから何気ない雑談を始めた。愚痴や会社への怒りなど、男はいつのまにか色々な言葉をボロボロと口からこぼした。

 中年男は何も言わず、それを聞いた。頷き、相槌を打ち、真摯に男の話を聞いた。


 男は愚痴をこぼしていたことにハッと気が付き、口をつぐみ、下を向いた。

 中年男は心配そうに男の顔を覗き込んだ。


 男の様子をしばらく眺めていた中年男は、ゆっくりと口を開いた。

「実はね、傷付いた心を癒せるとてもいい所があるんです。一緒に行ってみませんか?」と、中年男は語りかけた。

 それを聞いて男は「なんだ?宗教か何かか?」と思ったが、会社を辞めてから何もしていなかったんだ。今更何をやったところで何が変わるわけではないだろう。家庭から逃げるように仕事をしてきて、その仕事もなくなった。新しい逃げ場所も見つかるかもしれない。

 男は中年男の誘いに乗ることにした。


 中年男の案内に従って歩いていくと、あるビルにたどり着いた。どこにでもあるビジネスビルといったところだ。

 男と中年男はエレベーターに乗って、ビルの地下へと降りていった。


 エレベーターが開くと、大部屋に直接繋がっていた。部屋は間接照明が規則的に配置され、部屋全体をぼんやりと照らしていた。

 広い部屋の奥には、台座の上に置かれた一つの大きな繭があった。想像よりもずっと異様な光景を目の当たりにした男は、しばらく言葉が出てこなかった。この光景を形容する言葉が見つからなかったのだ。

 中年男は男をエスコートし、まゆのそばに寄らせた。繭は何とも言い難い存在感を放っている。


「これはね、昔の記憶を呼び起こしてくれる繭なんですよ。この中に入って眠ると、自由に自分の記憶を呼び覚ますことが出来るんです」中年男は繭を撫でながら説明した。

 男は信じられなかったが、中年男の言われるがままに繭に開いた小さな穴に入った。

 繭の中は薄暗く、広かった。六畳もあろうかという広さだ。そして大きな安心感に包まれた。物心ついた頃に母親に抱かれたように落ち着く。

 外から中年男の声がした。「いいですか、寝る前に『いつ頃の記憶を呼びたいか』を強く意識するんですよ。3時間したらチャイムが鳴りますから、必ず繭の中から出てくださいね」

 男は外に向けて返事をすると、強く念じながら眼を瞑った。


 男はいつのまにか、小学校の校庭にいた。周りには仲の良かった友人がいる。

「どうしたんだよ、お前が鬼なんだぞ」「早く追いかけてこいよ」

 友人たちは口々に急かしてきた。男は自分が過去の記憶にいることに気付き、自分の体を眺めた。汚れたTシャツ、よれた短パン、傷だらけの小さな体。膝には絆創膏が貼ってある。男の頭の中には洪水のように懐かしい記憶がなだれ込んできた。周りの友人は不思議そうにこちらを眺めている。こうしてはいられない。こいつらとまた鬼ごっこが出来るんだ。精一杯楽しもう。男は両手を上げ、指を怪獣のように曲げて鬼ごっこを始めた。友人はキャーキャー言って必死に逃げ回る。負けないように男も走って追いかけた。


 男が最後の一人を捕まえようとしていた時、学校のチャイムが鳴った。キンコンカンコン、とチャイムは鳴り続けている。そのチャイムの長さに男は少し違和感を覚えたが、ここが記憶の中だということを思い出した。

 瞬間、男の瞼が開いた。


 男は繭の中で大の字になって寝ていた。とても清々しい気分だった。

 中年男はニッコリと微笑むと、繭の中へ手を伸ばし、外へ出るのを手伝ってくれた。


「どうです?素晴らしい体験だったでしょう」と中年男は誇らしげに言った。

「ええ、とても良い体験をさせてもらいました。ありがとうございます」男もお礼を言って頭を下げた。男の頭の中はスッキリとしていて、不快な感情は何一つなかった。やる気が溢れて出てくるようだ。


 中年男は何か申し訳なさそうに言おうとしたが、男はそれどころではなかった。溢れるやる気の行き場がないのだ。今すぐにでも再就職活動を始めたかった。ついに我慢が出来なくなり、男は急いでその場を立ち去った。


 家に帰ると、妻と娘がいた。妻と娘はいつものように男に用事を頼もうとしたが、男は毅然とした態度でそれを断った。いつものなよなよとした男との違いに驚いた妻と娘は、しばらくの間絶句した。

 男は棚から古い履歴書を引っ張り出すと、机に向かって書き始めた。


 それから男は職業安定所で求人票を読み漁り、様々な場所に応募した。今までの職種と違うところにも応募した。何か新しいことに挑戦したくて仕方なかったのだ。身体中からやる気が溢れてくる。

 やがて、応募した中の一社に受かることが出来た。男は喜び、再び仕事を始める決意を固めた。


 だが、仕事はハードで、休み時間もろくにとれない会社であった。年齢を考えるともう後がない男は努力して余裕を生もうと考え、一生懸命に仕事を覚えた。

 しかし、それも限界に近づいてきた。体が追いつかないのだ。


 男は毎日遅くに帰り、早くに家を出る生活が続いた。妻と娘は既に寝ていることが多く、話をすることもできなかった。男は頑張り続けた。


 やがて男は精も根も尽き果て、家でぐったりとソファに腰掛けていた。

 その時ふと、あの中年男と不思議な繭のことを思い出した。

 あそこに行けば、またやる気に溢れて頑張ることが出来るかもしれない。


 ある日、男は再びあのビルへと向かった。地下へ降りると、あの中年男が繭の周りを掃除していた。

「お、お、おい。お願いだ。あの繭の中へ入れてくれ。頼む」

「ああ、この間の。急に飛び出して行ってしまうものですから驚きましたよ。繭の中へ入るのは結構ですが、少しこちらもお願いが……」

 男は中年男の返事を最後まで聞かずに、繭の中へ飛び込んだ。


 気がつくと男は、森の中にある池の近くに立っていた。男は右手に釣竿を持ち、左手でバケツを持っていた。周りには前に鬼ごっこをした友達が何人かいた。


 男は池でザリガニやドジョウやカメを友人と一緒に釣り、山に登ったりして遊んだ。

 男の頭の中は楽しい気分でいっぱいになった。楽しくて楽しくて仕方ない。抑制という蛇口が壊れたように快楽が流れ出してくる。


 やがて、遠くの方で学校のチャイムが鳴り始めた。

 だが、今の男の耳には届かなかった。

 男は何分も、何十分も、何時間も遊んだ。


 やがて日が傾き、あたりはしっとりとした闇に包まれた。

 男はようやく、自分の記憶の中にいることを思い出した。しかし、いつまで経っても目が覚めない。森の中に立ったままなのだ。


 男が不思議がっていると、遠くから友達の声が聞こえた。

「おおい、何をやっているんだよ。早く行こうぜ」

「置いていくぞ」

 男は友人の呼びかけに応え、友人たちのいる森の出口へ走って行った。




 中年男はしばらくチャイムを鳴らしていたが、男が出てくる気配がない。中年男は「まさか」と思い、繭の中に無理矢理入った。

 中年男は危惧していた通りのことが起こったことがわかり、深い溜息をついて頭を掻いた。


 男の体は糸になり、徐々にほどけていた。やがて男の体は完全にほどけ、繭の中へ消えていった。


「ああ、まただ。前の管理者がこうなったから仕方なく私がやっているだけだというのに。また一人繭の一部になってしまった。また誰か探しに行かないと。この繭の素晴らしさは後世に伝えていくべきだからな。それにしても、いつになったら私も繭になれるのだろうな……。」

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