第11話「巡り合わせ」
一人のサラリーマンがいた。
その男は社内の信用も高く、仕事の面では有能であったが、少し抜けているところがあった。そこも「愛嬌がある」と言われ好かれていた。
ある時男は上司から出張するように言われ、地方へ出かけた。
しかし、うっかり男はホテルを予約するのを忘れていた。出先で気づいた男は焦った。気づいたときは暗くなっており、周りには民家しかない。
途方に暮れて周りをキョロキョロと見渡していると、湖のほとりに一つの小さなホテルが建っているのを見つけた。
男は「助かった」と思い、そのホテルへ急いだ。
ホテルが建っているほとりはひっそりとした静寂に包まれていた。
すぐ後ろは森が鬱蒼と茂っており、野草は荒れ放題だったが、ホテルへ続く道だけがきっちりと整備されている。
男はホテルに入り、フロントの従業員に話しかけた。
「すみません、しばらく泊まりたいのですが」
「ああ!いらっしゃいませ!お一人でらっしゃいますか?今は全室空いております。どうぞどうぞ、お好きな部屋にご宿泊ください。何泊ご利用なさいますか?」
「二泊三日です」
「二泊三日ですね?かしこまりました。お部屋にご案内します。こちらへどうぞ」
従業員は張り切った動きで男を二階へ案内した。どこも小綺麗で、高級そうな雰囲気を醸していた。ところどころにある間接照明が、フロア全体の柔らかい空気を演出している。
男は従業員に連れられ、各々の部屋を見て回った。男は一番景色の眺めの良い部屋に泊まることに決めた。
従業員は部屋のオプションの説明を一通りし終わると、会釈をしてフロントへ戻って行った。
男はひとまず荷物を降ろし、落ち着いて椅子に座った。
部屋に置いてあったお茶を沸かして一服していると、何か妙な物音が聞こえた。
男が耳を澄ませると、それは物音ではなく囁き声だった。誰かが何かをぼそぼそと喋っている。ドアの方からだ。男はドアを開けて廊下を見た。誰もいない。しかし妙な視線を感じる。何かおかしいと思いながら男はドアを閉め、眺めた。フロントの従業員は他に客がいるとは言っていなかった。他に誰もいないはずなのに、なぜ囁き声が聞こえるのだろう。
男は急に気味が悪くなってきた。幽霊か何かがこのホテルにいるのだろうか。男は不安になり、一階のフロントへ降りていった。
フロントでは、従業員がニコニコとした笑顔で仕事をしていた。男は従業員に恐る恐る質問した。
「私が部屋にいたとき、誰かが喋っているような声が聞こえるんです。失礼ですが、何か幽霊の類いでは……」
「え?いえ、当ホテルでは人死にが出たことはありません。そばにある湖だって、自殺するような者は一人だっていませんでした。ご安心ください。当ホテルはお客様からクレームを頂いたことは一度もありません。」
「そ、そうかね?だったらいいのだが……」
「何かあれば私をお呼びください。お部屋の電話をお使いになってくだされば、すぐにでも駆けつけますので」
従業員は依然笑顔のままだ。男は「怖い思いをしているのに、なんて従業員だ」と不愉快になり、ズシズシと足を踏みしめながら部屋へ戻った。
男は部屋に入ると口を閉じ、じっと静かにして、耳を澄ませてみた。しかし、もう囁き声は聞こえなかった。気のせいだったのかと男は安心し、シャワーを浴びて寝巻きに着替え、ベッドに潜った。
次の日、早朝に男はホテルを出て街に行き、取引先との商談を済ませた。なかなかの好感触で、会社にその様子を伝えると、上司は男に労いの言葉をかけた。電話を閉じると男はぶらぶらと街を見て回った。ちょっとした観光気分だった。
観光が終わった男はホテルに戻ってリラックスすると、ホテルの中も色々と歩き回った。
娯楽室やマッサージチェアのある部屋、大浴場なんかがあった。男はちょこちょこと遊んでいき、部屋へ戻ってきた。
一息ついた男はカバンからパソコンを取り出すと、出張の前に作っていた書類を作り始めた。全ての書類を作り終えた頃、外は真っ暗になっていた。
男は朝にすぐ出ていけるよう支度を整えると、大浴場へ向かった。一人で悠々と広い風呂に浸かり、男はご満悦だった。
翌日、男はフロントへ行き、チェックアウトをした。
従業員がフロントの中でニコニコと笑いながらお辞儀をし、「どうもありがとうございました」と礼を言った。
その瞬間、男は強烈な眩暈に襲われ、その場で倒れた。
男は目を覚ますと、体が固まって動けなくなっていた。
横に目をやると、自分の姿がガラスの扉に映った。
男はホテルの名前が書かれた立て看板になっていた。
驚いた男は大声をあげようとしたが、どうも声が出せない。何とか声を出そうと頑張ると、囁きかけるような声しか出なかった。
男が困り果てていると、従業員がカバンを持ち、笑顔で歩いてきた。
男が声をかけようと必死になっているのを無視して、従業員はさっさとホテルから出て行った。
事態が飲み込めない男は視界の端で起きていることに目が釘付けになった。
ホテルのロビーに置いてあった古びた椅子が動き出したかと思うと、ぐにゃぐにゃと形を変えて人間となったのだ。その人間はフロントにいた従業員の制服を着ている。
男は長く看板として立ち続けるうち、少しずつ仕組みを理解してきた。
このホテルは呪われていたのだ。
誰かが泊まり終わった時点でその客はホテルの備品となってしまう。すると代わりに備品の誰かが従業員となり、お客を案内する。そのお客が備品となると、従業員は晴れて自由の身となるのだ。
男は何もできない。ただ自分の順番が来るのを待つしかなかった。
時々、道に迷った客がやってくる。それを見る度に男は順番が回ってくることを祈り、同時に憐れみの感情を抱いた。
「こんなところに来るなんて、ついてない奴だな」と。
そんな言葉をかける度に、客は訝しげに男のことを覗き込むのだ。
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