第10話「憶う椅子」

 忘れっぽい男がいた。


 器用で、仕事の面では有能であったが、人付き合いはてんで苦手だった。人の誕生日を覚えることができず、人の名前を覚えることができず、新しくものを覚えると同じ分だけ頭から出て行くような男だった。

 そのため、男は仕事の面では評価されていたが、あまり人に好かれるような人間でなかった。話が進まなくて仕方がないのだ。

「見てください、髪の毛を切ったんです」と女子社員に言われても、「あれ、ずっとその髪型じゃなかったかい?」と聞き返し、同僚から「この間結婚したんですよ」と報告されても「へえ、独身だったのか」と言う。これでは好かれるわけがなかった。


 男はそのことで悩んでいた。人に好かれたいのは誰だって同じことだ。

「どうしたものかなぁ、どうしても何か覚えるとその分後ろからすっぽり抜け落ちてしまう」

 男はぶつぶつと呟きながら帰り道を歩いていた。気分を変えようと男は普段と違う道を通って帰っていた。思考にふけり、道に迷うことが頭に浮かんだ男はふと視線を上げた。すると、目の前に公園が見えた。向こう側には自分の家が見える。

「こんなところに公園があったのか。ははあ、こっちの方角には窓がついてなかったから見えなかったんだな」

 男はその公園に入った。公園はわりかし広く、遊具は一通り揃っていた。

 足が疲れた男は、どこか座れる場所を探した。公園の隅に目をやると、長椅子が一つ置いてあるのが見えた。

 男はその長椅子に腰を降ろした。


 すると男は、明日が同僚の誕生日だったことを思い出した。仕事の合間の雑談で教えてもらったのだった。

「そうだった。明日が誕生日だったな。何かプレゼントを用意しないと……」

 周りをキョロキョロと見回すと、菓子屋が開いているのが目に止まった。

 男はそこに飛び込むとチョコレートのセットを買い、綺麗にラッピングしてもらった。

「これでよし、思い出せてよかったな」と男は微笑み、帰宅した。


 次の日、オフィスはちょっとした騒ぎになった。

「え?誕生日ですか?よく覚えていましたね。随分前に教えたというのに」

 男は得意げに鼻を鳴らした。


 その日も男は公園に寄った。浮いているような足取りで嬉しそうに歩いていた男は落ち着くため、隅の長椅子にどっかり腰を降ろした。

 そのとき、ふと明日の会議の資料について思い出した。

「そういえば、明日出張の会議だと部長が言っていたな。だけど会議資料はまだ後輩の女子社員が持っていたぞ」

 どうしても気になり、女子社員と部長に電話で確認をとった。やはり部長も女子社員も資料の一部を忘れていたらしい。


 翌日、男はヒーローになっていた。

「すごいなぁ、本社での会議だったからとても大事な書類だったそうだよ」

「どうもすみません。私が忘れていたばっかりにご迷惑を」

「ははは、いやぁ、偶然思い出しただけですよ」

 その日男はにやにや笑いが止まらなかった。段々と男の評価は上がってきた。


 男は帰り電車の中、なぜ最近物を思い出せるようになったのか考えていた。そして、思い出す時はいつも公園の長椅子に座っていたことに気がついた。男は相変わらず物忘れがひどかったが、長椅子のことだけは忘れなかった。毎日帰ってくるついでに公園に寄り、長椅子に座った。


 社内の評価も段々と上がっていき、男は昇進した。昇進して給料が上がっても、男は同じ場所に住み続けた。あの長椅子に座るためだ。

 男は順調に人生を歩んでいたが、ずっと頭の隅に何かひっかかるものがあった。今まであった物忘れとは違う、頭に霧がぼーっとかかったように、「何かを忘れている」という気がしていた。しかし、それが何かは長椅子に座っても思い出せなかった。


 やがて男は定年退職し、余生を過ごした。毎日公園の長椅子に座ったが、依然、頭の中の霧は晴れないままだった。


 ある時男は老衰で倒れ、病床で最期を迎えようとしていた。

 いよいよというとき、男の頭に走馬灯が駆け巡った。男は全てを思い出し、頭の中の霧は晴れていった。

 男は清々しい気分になり、そのまま息を引き取った。




 銀色に艶めく部屋の中、モニターを通してその最期を見ている男たちがいた。

 男たちは銀色のピッタリとした服を纏い、部屋の中は物々しい機械でいっぱいだった。男たちはほっとした様子で胸を撫で下ろした。

「やっと逝ったか、あの博士は」

「ああ、長かったな。」

「あの男がタイムトラベルなどしてこなかったら、こんな面倒は起こらなかった。」

「全くだ。過去へ送り返したはいいが、万一の場合に備えた忘却装置は初めて使ったもんだから、加減を間違えて記憶がどんどん抜けるようになってしまった」

「あの男に二度と発明なんかさせないように洗脳して、いち企業に勤めさせたはいいが、怪しまれないようにするのは一苦労だったな」

「お前の回想ベンチのアイデアのおかげでなんとか最後まで怪しまれずに済んだ。ありがとうよ」

「ああ、いいんだ。とにかく、タイムトラベラーについての対策は今後進めていかないとな……」

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