第7話「車窓の未来」

 その女は、通勤の途中で乗るバスの外をいつも眺めていた。

 毎日代わり映えしない景色ではあるが、女はその景色が好きだった。

 行きと帰り、必ずバスの車窓から外を眺めていた。


 ある日、女はいつものようにバスに乗り、帰宅していた。

 しばらく車窓から外の景色を眺めて、女は違和感を覚えた。

 車窓から見える外の景色に、うすぼんやりとした「もや」がかかっているように見えるのだ。いつまでも同じ場所に「もや」がかかっていたため、景色ではないことは明確だった。


 女は訝しげに、まじまじと「もや」を見つめた。


 女の嫌いな上司の男が、足元にあるバケツに気づかず倒してしまい、バケツの水で足を滑らせて転んでいるのが見える。


 女は疲れているのだと思い、家に帰って眠った。


 次の日、女はいつも通りオフィスで働いていた。

 横から上司がつかつかとやってきて、「いつまでかかっているんだい?」と嫌味を吐いた。

 女は無視して仕事を続けていた。


 廊下に出た上司は、うっかり足元にあったバケツを蹴っ飛ばしてしまった。バケツに入っていた水はあたり一面に広がった。清掃員の女性が謝りにくると、上司はその清掃員に歩みよろうと一歩踏み出した。

 すると上司は広がった水で滑り、転んでしまった。


 女はこれを見て驚いた。「もや」の中で見た光景と全く一緒のものだったのだ。

 落ち着いて仕事をこなすよう努力したが、どうも偶然の一致とは思えなかった。


 その日も、女はバスの車窓から外を眺めていた。今度は景色を眺めるためじゃなく、もやを見るためだった。

 いつのまにか、「もや」が出てきた。女は見逃すまいと凝視した。


 女がお茶を運んでいた。応接室に運んでいき、ドアを開けようとした瞬間に応接室のドアが開き、誰かとぶつかってしまった。お茶はこぼれ、上司の男にこっぴどく叱られている。

 女はこれを見てがっくりきた。これがもし「未来の見えるもや」なのだとしたら、明日自分は怒られることになるのだ。

 女はバスから降り、とぼとぼと家に帰った。


 次の日、女は上司の男に「お客様がお見えになるから、お茶を淹れておけ」と命令された。女はどうしても叱られたくなかった。そこで、隣の席にいる後輩の女子社員にお茶を運ぶよう頼んだ。

 後輩はしぶしぶお茶を淹れ、応接室に運んでいった。すると、後輩は応接室の前でお茶をこぼしてしまった。

 女は後輩の元へ行き、しゃがんで片付けるのを手伝ったが、その瞬間、応接室のドアが開いて女は扉にぶつかってしまった。

 上司は女にお茶を頼んだので、女がお茶をこぼしたと思い、女を叱った。


 帰りのバスの中、女は深いため息をついた。

 そしていつものように車窓を眺めていると、またぼんやりと「もや」が見えてきた。

 憧れていた同僚の男と女が廊下で喋っている。すると足元に虫が現れ、女が驚いた拍子に同僚の男に抱きついてしまった。同僚の男は笑顔で許してくれていた。


 女は「もや」が消えると、はつらつとした笑顔でバスを降りた。

 今日の悩みなどどこへやら、スキップで家まで帰っていった。


 次の日、女は休憩時間に飲み物を買いに行った。

 その途中、同僚の男が女に話しかけてきた。女は「もや」のことを思い出し、笑うのを必死にこらえて会話を続けた。

 すると、足元に虫が現れた。女はわざとらしく驚き、同僚の男の胸に飛び込んだ。

 同僚の男は困ったような笑顔で許してくれた。女は顔が緩むのが抑えられなかった。


 女は帰りのバスで、「もや」を見るのが楽しみで仕方なかった。

 じっと見つめているうち、「もや」が出てきた。


 今度の景色は、今までとどこか様子が違った。

 どこだからわからない暗い場所で、血だらけの女が頭を抱えてうずくまっている。女はずっと動かなかった。


 女は何だか気味が悪くなり、バスを降りると足早に家に帰った。


 女はずっと緊張しながら仕事をしていた。あの「もや」の中で見たことは、全て次の日のうちに起こっている。いつ怪我するかわからない。

 女は後輩から心配されたが、「なんでもない」と笑顔を浮かべ、仕事を続けた。

 結局、女には何も起こらなかった。


 女は「予知が外れる日もあるんだ」と思い、バスに乗りこんだ。そのとき、古ぼけたタンクローリーがバスの隣を通った。

 そして女はいつものように車窓から景色を眺めていたが、どうもおかしい。


 一向に「もや」が見えてこないのだ。いつもバスに乗ってから10分ほどで見えてくるはずなのに。


 女は「何かおかしい」と思いつつ、車窓を見続けた。

 すると突然、バスがスリップを起こした。窓からすぐ下を見ると、黒いオイルがぼとぼとと落ち、車の通った後を残していた。バスのタイヤはそれを踏み、黒いオイルにまみれている。操縦の効かなくなったバスはスピードが手伝って、あらぬ方向に滑って行った。女は咄嗟に頭を抱え、しゃがんだ。


 女は薄暗いバスの中、血だまりを作っていた。

 頭を抱えたままの女は、もう動くことはなかった。

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