第9話 誕生日
店内に大爆音が轟いた。
その大爆音と共に、黒い光を伴ったロランの身体が『クロノス』店内の虚空より現れ、良質のラワン合板で造られたカウンターに激突した。
「「な、何だ!?」」
突然のことに、カウンターに居た二人の『かずや』は仰天する。
ロランが激突したカウンターは、彼女の身体を型にしてえぐり取ったように粉砕されていた。
カウンターを粉砕する程の衝撃。激突したロランの身体も無ことでは済むまい。
ロランは、勢いよく身を起こした。
「……あぃ痛たたぁ」
まるで只、転んだだけのように、ロランは腰を摩りながら立ち上がった。
着ているジャケットは所々ボロボロになった。肌や下着が露になっているものの、カウンターを粉砕する程の衝撃の割に、ロランの身体には目に見える外傷は一つも見当たらなかった。
「このコマンドスーツが衝撃を吸収してくれたお陰で怪我一つ――あら」
ほっ、と一人胸を撫で下ろすロランは、しかし不意に見舞われた立ち眩みに、膝から床に崩れてしまう。
「ロラン!」
飽気にとられていた一哉だったが、倒れ込もうとするロランの姿に慌てて我に返り、咄嗟にその身体を抱き留めた。
「サ、サンキュー……どうも内側をやられたみたいね」
ロランは眩暈を覚えながらも、冷静に今の自分の身体の状態を分析していた。
朦朧とする意識は、全身に激しい脱力感に見舞われている自分に気付いていた。
「……『瘴気功』恐るべし……と言うわけか」
「な、何が起ったんだよ? ぱっ、と消えたと思ったら、いきなり天井から飛び出て来るなんて!」
瞬く間に生じたこの奇怪な現象を目の当たりにした一哉は、戸惑いながら訊いた。
実際は数分間の死闘であった。
だが、ロランが創った疑似空間は、通常空間の時間の流れとは連動していない。二人の『かずや』の目には、ロランと紫剣木の姿が消えたと思ったら、直ぐにロランの姿だけが現れた。刹那の出来ことにしか見えていなかったのだ。
「……へへへ」
ロランは照れ臭そうに笑った。
しかし、ロランを抱き抱える一哉は、掌越しに彼女の体温が異常に冷たくなっていることを感じ取った。土気色をするその顔は、まるで死人の様である。
「お、おい!しっかりしろ!」
「……大丈夫よ。『瘴気功』を食らって、身体が仮死状態になりかけているだけだから」
「は?」
ロランの奇妙な返答に、余りのことに狼狽していた一哉は惑乱してあんぐりする。
「……『疑似空間』内だったのが幸いだったわ。
通常空間の『瘴気』とは比べ物にならない程薄いヤツだったから、寸前に『転移』して即死は免れたけど――ゲホッ、ゲホッ!」
ロランは突然蹲り咳き込み、床に赤いシミが拡がった。
「ロラン!? どうした、しっかりしろ!?」
何が何だか判らなくなって狼狽したままの一哉に、ロランは咽ぶ息を整えてニコリと微笑む。
だが、その顔色は先程より悪くなっており、乾きかけたその唇はチアノーゼを起こして紫色になっていた。
「……大丈夫。ちょっとシャレにならないほどダメージ食らったけど、これくらいなら『メディカルボックス』と『瞬間治療薬』で何とかなるわ」
ロランは弱々しく頭を振った。
瀕死の表情の割に、その口調はいつものように気丈そうだったので、一哉は心配するべきか安堵するべきなのか判らず、行き場の無い複雑そうな面を、カウンターから伺っていた一耶の方に向けた。
「……ロラン、一体何が起こったのよ?」
当惑していた一耶もようやくカウンターから身を乗り出し、心配そうな顔をして訊く。
「貴女があの黒ずくめの男と一緒に姿が消えたかと思ったら、いきなりボロボロになって現れたもんだから、もう、何が何だか判らなくって……」
「心配させて御免……。後で事情を話すから、今は取り敢えず、あたしをあたしの部屋に連れて行ってくれない?」
「何言っているんだ? 部屋より、今直ぐ病院へ行った方が良い!
いくら元気ぶっても、こんなに身体が冷たいなんて尋常じゃ無い!」
「病院に行ったって、この症状は治せないわよ。それに、『
「「しかし……」」
「悪いけど、救急車なんかに乗って行ったって、この『世界』の技術では治せっこないわ。ましてや……ゴホッ、ゴホッ!」
ロランは再び咳き込む。一哉が心配そうに覗き込むと、ロランは少し無理気味に微笑んでみせた。
「……お願い、言うことを聞いて。あたしを部屋に連れて行ったら……未来の部屋の机にある、赤十字マークの形をした赤いボタンの付いた白い小箱と……黒い丸薬の入った小瓶を持って来て……。丸薬は……あたしの口に含ませて……小箱の方をあたしの……お腹の上に乗せたら……そのボタンを……押して……」
ロランは、二人の『かずや』に朦朧とし掛けた意識の中でそうお願いすると、がっくりと力尽きてうなだれてしまった。
「ロラン!?」
一耶は思わず悲鳴を上げる。
一哉は慌ててロランの脈を取り、鼻腔の前に右掌を翳す。微かだが、まだ息はあった。
「……気絶しただけみたいだ。仕方ない、言う通りにしよう」
一哉は、ロランの身体を両手で抱き上げ、周章しつつ、指示通りに店の裏にある市澤の邸宅の1階にあるロランの部屋まで抱えて行き、ベットに横臥させた。
一耶がロランを寝巻きに着替えさせている間、一哉は邸宅の一番奥にある市澤の部屋へ向かう。そして室内の机の上に置いてあった、まるで救急箱のミニチュア版のような、上面に十字の赤いボタンの付いた白い小箱と、一見して鹿の糞を思わせる、小さな黒い丸薬の詰まった小瓶を持って来た。
一哉は、着替え終ったロランの口に指示通り丸薬を一粒含ませ、白い小箱の方は腹の上に乗せて、上面の赤い十字ボタンを押した。
突然、白い小箱が光り出す。驚いた二人の『かずや』は、慌ててロランのベットの傍から背後へ飛び退いた。
奇妙なことに、その光は部屋一杯に広がることなく、まるでぷよぷよした水母を思わせるように波打ちながらロランの身体を包み込み、激しく明滅し始めた。
やがてその奇怪な光の中で、ロランの身体から黒い煙のようなものが吹き始めた。
黒い煙は、どこに取り入れ口の穴があるのか、ロランの腹の上に置かれた白い小箱の上面にある赤十字のボタンの中へ急速に吸い込まれて行った。
ロランを包む光の中に立ち籠める黒い煙が薄くなるにつれ、土気色していたロランの顔に紅色の生気が戻り始めた。
見る見る内に血色の良くなって行くロランを見て、二人の『かずや』はようやく安堵の息をついた。
やがて、ロランの身体から煙が出なくなると、白い小箱は光を放つことを止めた。
取り巻いていた光が、ふっ、と消えるのと同時に、ロランは、朝の心地よい微唾みから覚めたかのようにゆっくりと瞼を開け、二人の方を見て安堵の笑みを浮かべた。
「「……ロラン!」」
「どうやら間に合ったみたいね」
微笑むロランを見て、二人の『かずや』は胸を撫で下ろした。
「……全く、一時はどうなるもンかと思ったが……。しかしロラン、一体あの時、何が起ったんだよ?」
憮然とする一哉は、ここぞとばかりにロランを問い詰める。
ロランは、まだ脱力感の残る右腕を使って腹の上から白い小箱を辿辿しく取り除く。
そして、どこか困ったような顔を作ると、傍らで心配そうに自分を見ている一耶の方を見た。
「……一耶。彼とちょっと話したいことがあるの。悪いけど少し外してくれない?」
「何故?」
訝る一耶に、しかしロランは何も答えずに頭を振った。
「……仕方ないな」
一耶は肩を竦め、
「店の方、放りっぱなしだし、取り合えず、壊れたカウンターの後片付けでもしてくるわ」
一耶は溜め息を漏らすと、一哉の肩を軽く叩いて無言の委任をして、そそくさと退室して行った。
「……御免ね、一耶」
ロランは、一耶の後ろ姿を済まなそうに見送った。
一哉も同ように見送ったが、部屋を出た一耶が扉を閉めるのと同時に、困ったような顔をしてロランの方に向き直し、
「さぁて、ロラン。事情を……」
「御免。事情があってあなたたちには全てを話せないの」
「ロラン!?」
「……本当は全てを話しておくべきなのかも知れない。だけど……貴方たちを辛い目に遭わす訳にはいかないのよ」
「辛い目?」
「今、貴方たちの与り知らない所で、思いも付かないこと態が起ころうとしているの。
あたしと未来は、それに対処しようと奔走しているんだけど、その『こと態』とやらが並の奴じゃなくってね……」
ロランの言葉に、一哉は、はっ、とする。
「まさか、この怪我……その『こと態』とやらの仕業か?――あのどこかに消えた黒ずくめの男がそうか?」
「うん。未来に急用を押し付けておいて、こんな有様じゃ、会わす顔が無いわ」
ロランは力無しに微笑んだ。
場をはぐらかそうとしたのであろう、だが一哉には、それが自分の非力さに消沈するのを堪えているようにしか見えなかった。
「ところで、市澤の奴は? さっき、仕事って言っていたが、こんな時に、どこで油売ってやがるんだ?」
「ちょっと野暮用で遠い所に行っているの」
「遠い所? 何だよ、そりゃどこなんだ?」
ロランはおもむろに頭を振った。
「遠い所よ。もの凄く遠い所だけど、しかし、今直ぐにでも戻って来れる所」
「何だい、そりゃ……?」
ロランの奇妙な説明に一哉は憮然とする。
この時、一哉の瞳に映った、済まなそうに微笑むロランの顔に、未来の惚け顔がダブったのは気の所為とは思えなかった。
「……いったい……君も市澤も、何者なんだ?」
「判らないのも無理は無いわ。 納得の行く説明をしていないんですものね……」
そう呟いてロランは溜め息を洩らす。
惑う姿は、重大な秘密を隠し切れずに持て余しているのだと、一哉は理解した。
(……全くよぉ、どうして俺の周りに、こう訳の判らないことばかり起きるンだよ!)
一哉は全身に気怠さを覚える。この二ケ月――一耶が現れて以来、余りにも異常なことが多過ぎた。
非日常が日常となりつつあった今までがおかしいのだ、と何故思わなかったのか。
今更になって覚えた疑問に押し潰される一哉であった。
「ねぇ、一哉君」
「?」
機嫌を損ね掛けた所でのロランの呼び掛けに、一哉は憮然とした顔のままで彼女に振り返った。
ロランは気後れすること無く、薄らと微笑んで頷き、
「お願い。一耶を……彼女を守ってやって」
「……ま……守る?」
一哉は素っ頓狂な声を上げて訝る。
「うん。未来が仕事に行っている間だけで良いの。彼女の傍に居てあげて」
「ち、ちょっと待て!」
一哉は面食らって当惑し、
「まさか、君をこんな目に遭わせた奴と戦えと言うんじゃないだろうね?」
「そこまでは望まないわよ。 でも今、この世界で一耶が心から頼れるのは貴方だけ、って言うことを忘れないで」
「俺だけが……頼り……?」
どこか陶然とした口調で呟く一哉に、ロランはゆっくり頷いた。
「一耶、この世界に来た頃はいつもおどおどとしていたでしょう?」
「……ああ」
頷く一哉は、初めて逢ったあの日の、渋谷の雑踏を見つめる、物寂しげな一耶の横顔を刹那に思い出した。
(……誰も……あたしを知らないのね)
まるで耳元で囁かれた様だった。一哉は胸が少し締め付けられたような気がした。
「……そういや、そうだったな。 今じゃ、あんなに明るくなっているもンだから、すっかり忘れていたぜ」
一哉は後頭部を掻き毟りながら苦笑した。
ロランもつられたのか、微笑んで頷き、
「……本当なら、疾うに彼女は孤独に耐え切れなくなっていたハズよ。
――そんなふうにならなかったのは、そんな彼女の心を良く理解してくれる人が傍に居たからだわ」
言うなり、ロランは右手を一哉に向けて差し出す。
弱々しく震えるそのか細い手は、渾身の力を振り絞ったものだった。
慌てて一哉がその手を取って震えを止めてやると、ロランは安堵の笑みを浮かべた。
「……御免ね。無茶を承知でお願いしているけど、彼女の心の支えは貴方しか居ないから……」
ロランに見据えられて、一哉は少しはにかんでみせる。まるで心の中を見透かしているように思えてならなかった。
「……判ったよ」
一哉は照れ臭そうに微笑み、
「俺は美人を泣かす真似は嫌いだからね。さあ、安心してもうお休み」
一哉はロランに手を振ってから踵を返し、丸薬の詰まった小瓶をロランに渡すと、部屋を出た。
廊下に出て、店内へ通ずる方向へ進もうとすると、その先から一耶が心配そうな顔をして近付いて来た。
「……一哉。どう、ロランの様子は?」
深刻そうな顔をする一耶に、一哉はそれをなだめようと優しく微笑んでみせた。
「心配要らん。少し参っているが、一晩安静にして居りゃ大丈夫そうだ」
「そう……」
一哉は、ほっ、と安堵の息を洩らし、
「……ねぇ、一体、ロランに――あの時、何が起こったのよの?」
「さあな。はぐらかされてさっぱり判らん。只、今は話したくないンだと。
まあ、無理に訊かない方が良いね。第一、弱っているしな」
「……そうね」
一耶はゆっくりと頷いた。
「後はあたしがロランを看るわ。一哉、約束があるんでしょ?」
「けどなぁ、ロランが……」
心配そうに言う一哉に、一耶はゆっくりと頭を振った。
「大丈夫よ。それに、友たちとの約束を破るのはいけないわ」
一耶はそう言って微笑んだ。心配そうにいる一哉を気遣っての、とても優しそうな笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、一哉は無性に後ろめたい気分に見舞われた。
「……どうしたの?」
そんな一哉の様子に、一耶は怪訝そうに訊く。どうやら顔に出てしまったらしい。
「……あ、いや、何でも無い。悪いな、後を頼むよ」
「あんたらしくないわよ」
一耶は失笑して一哉の肩を軽く叩き、
「その代わり、さっきの約束、忘れないでね?」
「……ああ」
一耶の言っていることが耳に届いていないくらい、まだ浮かされたままの一哉は、御座なりがちに返答し、ゆっくりと踵を返して廊下の奥に消えて行った。
「何か頼りないわね」
憮然として見送る一耶は肩を竦めた。
「もしかして、忘れちゃっているのかな?」
今日は、二人の『かずや』にとって、共通する特別な日なのである。
誕生日であった。
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