第10話 死せる世界
白のロングコートを羽織る市澤が、闇の中を一人歩いていた。
不意に、風が、市澤の頬を撫でた。
凍てつくような冷たい風であった。
市澤の周りには、果てしない黒の森が広がっていた。
周りを取り巻く森閑たる闇には、彼以外の息遣いを全く感じさせない。
いったい市澤は、どこを歩いているのであろうか。
しばらくして、その歩みが止まった。
足許に、砕けたブロンズの塊が転がっていた。
半分溶け掛けた表面に走るひびの透き間に、血が黒く詰まっているその塊を、既に夜目に慣れている市澤が見つけると、屈んで両手で拾い上げる。
その、犬の頭を形どったブロンズの塊に被っていた砂埃を払うと、市澤は溜め息を吐いた。
ややあって、市澤は気怠そうに立ち上がり、視線を上に向けた。
同時に暗天より、月光が降り注いだ。
「……酷いな、これは」
重々しい呟きだった。
崩壊して廃墟と化したJR渋谷駅舎が、市澤の目前で月の光を受けて鎮座していた。
夜空を覆っていた雲が次第に晴れていく。同時に、市澤が居るその闇を、月光がゆっくりと暴いていった。
市澤がいる廃墟の渋谷駅を中心に、果てしない荒野が広がっていた。
死。
この言葉がこれほど似合う風景はあるまい。
この『世界』は滅んでいた。
恐らく、この『世界』で息をしているのは市澤だけであろう。
市澤の重い息遣いが、息吹を失った空の果てにまで届きそうな静寂だけが支配している。まさに悪夢のような『世界』だった。
市澤は無言で渋谷の街のなれの果てを見回し、しばらくの後、暗天を仰ぎ見た。
市澤はこの世界に来た時の事を思い出していた。
崩壊した自分の店を目の当たりにして、何とも言えない気分になっていた時、奥の壁に奇妙な黒い染みを見つけた。
始めは何かの染みかと思っていたが、やがてそれが人の形をしていた事に気付き、はっ、となった。
染みの中から声が聞こえたのである。
(……キミ、か)
染みは生きていた。しかも人語を解する。この奇妙な現象を前に、しかし市澤は動じる事はなかった。
何故なら市澤はこの不思議な染みの正体を既に理解していたのだ。
「酷いな」
(……言うなよ)
黒い染みは苦笑いしたように儚げに言う。
(……驚いたな。……高い近似値を持つ量子因子同士の……接触は叶わないというのが定説なのに……キミは何ともないのか)
市澤は何も答えなかった。
その沈黙に、黒い染みは何かを理解したようであった。
(……そうか。キミは僕とは違う何かなん……だ……な……)
染みの声が掠れだした。どうやらもう限界らしい。
「最後に言い残す事は無いか?」
市澤は表情も変えずに訊いた。
(……放出されたもう一つの……〈特異点〉を探せ……多分……キミの世界に……)
それを聞いて市澤は思わず仰いだ。
「……了解した」
(……それと……ロランを……探して……くれ……彼女に……あ……い……)
そこまで言うと黒い染みは壁からボロボロになって崩れ落ちた。
市澤はしばらくその場に立ち尽くしていた。染みを弔うその姿に静かな怒りが満ちていたのは傍からも分かるほどであった。
やがて市澤は店の瓦礫をかいくぐり、店の裏にある自分の邸宅だった瓦礫の前にやってくる。
瓦礫の山の上に、今にも朽ちそうな、一本のボロボロな日本刀が突き立てられていた。
市澤はそれが、黒い染みが残した言葉が指すモノだと直ぐに理解した。傍らに転がる黒い塊が、崩れ落ちた黒い染みのそれと同じだったからだ。
「先ほどの染みもそうだが、日本刀のこの腐食の仕方に覚えはある。
〈瘴気功〉だな。……だが」
市澤は黒い塊を掴み上げた。
「……しかし、世界をここまでにするには普通の〈瘴気功〉では無理だ。対消滅くらいの膨大なエネルギーが必要……成る程、〈特異点〉が暴走してしまったのか」
ふむ、と頷く市澤はどうやらこの所業の源を理解したようである。
そして手にしている黒い塊を口元に近づけると、そっと口づけをした。愛おしげに、そして口惜しそうに。
「……済まない。でもお陰で、敵の手の内、そしてこの世界に何が起こったのか、分かった。
二人ともありがとう」
市澤は黒い塊を日本刀のそばに戻す。すると日本刀と黒い塊はほぼ同時に朽ち果て塵と化して消え去った。
「だがどうする市澤未来。この世界は〈重合化した特異点〉の暴走で滅んだ。そしてそれは〈瘴気功〉を使う人間の仕業だと分かった。――どこに居る?」
その時だった。
不意に、日本刀が突き立てられていた場所に、光る人影が現れた。
それは西を指していた。
その先にはあるのはかつて渋谷センター街と呼ばれた地。
市澤は光る人影の顔を見て困惑した。
勝って。
光る人影はそう言い残して闇に散った。
覚えのあるその声を暫し胸に溜めて、市澤は西へ、――紫剣木と今日子が居るはずの渋谷センター街へ向かうことにした。
「……少しは、踏ん切りがついたな」
そう洩らす市澤の瞳には、氷をも凍て付かし兼ねない冷冽たる光が宿っていた。
市澤の手からハチ公像の頭が零れ落ちる。
ブロンスの塊が地面に落ちた時、既に市澤の姿は、月下の廃墟の虚空を舞っていた。
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